『自由こそ治療』なのかな?『バザーリア講演録』雑感3(最終)(ほんの紹介59回目)
『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』についての雑感、その3。見通しもなく、書き始めて3回目になった。ここで終える予定。
長い読書メモを書き(https://tu-ta.seesaa.net/article/493378563.html?1673874307 )、それをもとにここですでに2回、この本の紹介を通信に書いた今になって思う。本当に『自由こそ治療』なのかどうか。仮にそうであるとすれば、それはどのような意味において、そうなのか。自由より関係性なのではないか?
確かに、自由のない閉鎖病棟ではなく、『自由こそが治療』につながるかも。そして、最初の紹介に書いたように、精神分析なんかより、お金や住む場所があることが自由と回復につながっている。刑務所のような閉鎖病棟からの自由、あらゆる拘束からの自由という意味は大きい。さらに以下のような記述もある。
深刻な事態だといえるのは、隔離収容型の精神医療の現実とともに、地域精神医療やセクター制といった新たな精神医療の現実があるということです。精神医療に対する批判によってもたらされた新技術が、新しいかたちの精神医療組織を生み出しました。しかし、この組織はマニコミオの論理を「地域」という語彙で再定義したものに過ぎません。つまりこの医療の世話になる人は、減るどころか増えることになるのです。隔離収容型の精神医療という現実の向こうには、マニコミオの外の管理があるということです。202-203頁
そう、仮に隔離収容型の精神病院がなくなるとか、大幅に減ったとしても、精神病患者には監視や管理が必要だという思想が残れば、そこに自由はない。地域という名の巨大な精神病院が残ったのではしょうがない。
これを逆の視点から見ると、社会全体が収容所の様相を帯び始めている日本社会で精神を病む人はこれからもっと増えるのではないか?
同時に留意する必要があるのはバザーリアが強制収容を完全に否定しているわけではないとうこと。以下のような記述もある。
トリエステでバザーリアたちは「緊急(エメルジョンヴァ)」と名付けた医療チームを組織。24時間待機。市中の必要な場所に行って、危機に対処。その二つの手段として、1,強制収容、2,危機の解決(社会に拒絶された人がもう一度その世界に戻れるように支援し、社会に復帰させること。)向き合わなければならない状況が刻一刻と変化するとき、家族の問題、病人の問題、医師の問題を含めて、すべての問題を誰の目にも見えるようにする必要。みんなが一緒になって解決の方法を探ることによって、問題を成熟させることが出来る。問題への介入はあらかじめ決められたやり方ではなく、一人ひとり異なる。207-208頁要約
緊急避難は必要な場合があるという話だろう。しかし、それだけで終わらせてはならないという話でもある。
そして、この本に書かれている自由はそれだけではない。この本の最後に書かれているのは、医師を頂点とする治療の場でのヒエラルヒーからの自由だ。医師と看護師の関係で書かれているが、それだけではなく、病院内のすべての人の平等が求められていると感じた。平等が必要なのは、病院での仕事に関わるすべての人の平等であるとともに、医師と患者のあいだの平等であり、看護師と患者の関係の平等でもある。医師も病院の清掃に関わるスタッフも患者も平等だと口で言うのは簡単だが実際は容易ではない。こんな風に書かれている。
医学モデルの民主化は、とても難しいと思います。(略)、医療福祉の問題に関して、医師たち自身が民主的にならないとしたら、民主化することが出来ないとしたら民主化を実現することなどできません。したがって、民衆の力で医師の態度を変えさせていかなければなりません。医師みずからが、権力という特権や経済的な恩恵を放棄することは、とても考えにくいからです。218ー219頁
『自由こそが治療』かどうかわからないが、自由をベースにした関係性はとても大切だと思う。
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