近藤富枝著『馬込文学地図』メモ
年初に弁天池のほとりに引っ越して、近所のことをしりたくて、馬込文士村ガイドの会主催の連続講座(街歩き)に参加して、興味が出て図書館で借りて読んだ。
近藤富枝 『馬込文学地図』を読む
美人給仕の正体は?
https://designroomrune.com/magome/k/kondou/kondou.html
「馬込文学マラソン」 https://designroomrune.com/magome/setumei/explain/explain_01.html から
以下、極私的読書メモ
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朔太郎の文章でこの本文は始まる。
「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、の・す・た・る・ぢ・や・の感じをあたえるものだ。坂を見ていると、その風景の向ふに、別の遥かな地平があるように思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである」
(「坂」という散文詩の冒頭)
著者の近藤さんは、馬込に文士が集まったのは、この「浪漫的」で「のすたるぢや」の風趣を喜んだに違いないと書く。そして、さらにこの詩の続きを引用する。
「或る晩秋のしづかな日に、私は長い坂を登って行った。ずっと前から、私はその坂をよく知ってゐた。それは或る新開地の郊外で、いちめんに広茫とした眺めの向ふを、遠く夢のように這ってゐた。・・・」
この「夢のように這ってゐた」坂は「馬込村のもの以外ではない」と断言する(11~12頁)。
▼宇野・尾崎家が馬込放送局と呼ばれていて、その放送局の局員として「重要な役目を果たしたと思うのは・・・弁天池のそばでチップトップという新本屋を開いていた松沢太平という人物」彼の姉が広津和郎の恋人だったとか。弁天池のほとりのいまの家のすぐ近所だ。ここが文士村へ続く道で、文士村の多くの住民がここを通っていて、誰が誰の家に行ったとかを彼は見張っていたとのこと(31頁)。
▼萩原朔太郎と妻の稲子の関係、いまの視点から読むと、朔太郎は完全にモラハラ夫、という感じ。文庫本80-81頁。
▼100頁には大森駅から馬込に歩いていくコースの記述。代表的なコースが弁天池通りを抜けていくものだったとか。
▼作者はプロレタリア作家と芸術派の作家という風に区分けしている(103頁など)が、果たして、その区分けはどこまで有効なのか、一般的ではあるかもしれないが、再考も必要なのではないか?
▼5章ラプソディーに描かれる、馬込界隈のとてもどろどろして人間くさい恋愛・人間関係がすごく面白い。ほんとうかどかはわからないが。結婚していようとしていまいと、ほとんど関係ない感じもある。という以上に文士村周辺で、婚姻と婚姻外の愛憎関係がもつれたり、ほぐれたり、からまったりするドラマはほんとうに小説がここから生まれるのかと思わせる。
▼三好達治は朔太郎の勧めで新井宿の下宿「寿館」に引っ越し、朔太郎の娘、葉子はなついていた。118頁
そして、朔太郎の妹、愛子に求愛する。その思いは深く、結婚した後も・・。作者は44歳の三好の「狂気のような愛」が『天上の花』になまなましく描かれている、という。お互いの、それなりに長い結婚生活を経て、9カ月だけ一緒に生活し、破綻する。そして、三好はその後、宇野千代に・・・・。作者の三好評は厳しいが何か愛がある。
▼犀星は芥川に対して、はじめは闘争心を持ち、後に敬愛していたという。芥川の死後、芥川がいた田端を引き払い、馬込の入り口ともいえる「谷中」に移り住む。これがうちの近くだ。敬愛する朔太郎の家の近所でもあった。当時のそこはどぶ川沿いだったという。ぼくはこの川の名前が池尻川だったということを最近知ったが、この本には川の名前は出てこない。いま、というかかなり前になくなった川だ。このどぶ川沿いのじめじめした場所で犀星の子どもふたりが病気になり、山の上のお寺の近くに引っ越す。犀星が愛人の存在を最後まで隠し通したというような記述もある。何かの本に書いてあるのだろか? 130頁あたりから
▼朔太郎が宇野千代に依頼する。妻の稲子と他の男との関係を発展させるようにと。目的は夫婦間の刺激。犀星がその詳しい話を朔太郎に伝え、離婚をけしかける。朔太郎は自分が仕掛けたにもかかわらず、妻が他の男と何らかのいい関係になるのが不満になり、稲子にブレーキをかける。稲子はそのありようで朔太郎を軽蔑するようになり、夫婦で激し争いを繰り返すようになる。朔太郎が離婚に踏み切るために犀星は『浮気な文明』という朔太郎と稲子の関係を暴露するような私小説を書いたのではないかというのが、この本の作者の推測を含めた見方。当時、犀星は金銭的に困っていたということもあるのかもしれないと思った。135頁~
▼247頁には「弁天池は昔の半分に縮小されながらけなげに残っている」という記述がある。弁天池は家からすぐのところにあるのだが、知らなかった。今の公園の部分も池だったのだろうか? 池の水は透明ではないが、もしかしたら、魚には程よい濁り具合なのかもしれない。249頁には弁天池の写真があり、誰かが写ってるのだが、よくわからない。こういうとき、電子書籍をではどうなのだろう?
▼作者は対象の人が馬込に住んでいるかどうかにこだわり、それが山王だったりするとがっかりしたりする。この馬込という地域へのこだわりが面白い。145頁 弁天池の記述で、「ここまでが馬込村外である。しかし、ものの50mも歩けば、室生、榊山、藤浦などの住む谷中なのだから、近松なども馬込村民に数えてもいいのではないか」(248p)と書かれている。馬込村に関するこだわりが歪んだ形で表現されていると言えるかも。そして、馬込かどうかは、昔の行政区の話なのか、と理解する。ちなみにいまは谷中も地名では山王。
▼231頁から始まる9章「うつりかわり」は「おわりに」の前に置かれていて、本体としては最終章と呼べるかもしれない。ただ、この章で残っていることになっている建物もほとんどいまは実在しない。宇野と尾崎の家、川端康成の家、そして、室生犀星の庭が壊されて室生マンションになったと作者が悲しんでいる、その室生マンションさえ、先日、取り壊され、いまは更地になっている。次に建設されるものが室生マンションという名前かどうかはわからない。
▼犀星の家の横にある「万福寺の近くにはシュールリアリズムの詩人 北國克衛が住んでいた」が近くの朔太郎や犀星とは「全く往来をしなかった」(243頁)と作者は書く。ただ、稲垣足穂は彼が主催する同人誌の同人だったとのこと。ここに書かれている稲垣、犀星、衣笠省三の関係も興味深い。
▼「大森駅を降りるとチョコレートの匂いがする」
と室生犀星は言った。
と著者は書く。初出を探してみたいが、そんな暇はないなぁ。誰かが探しているだろうかと検索したが、近所の「あんず文庫」のツイッター https://twitter.com/anzubunko で引用したものがあるだけ。「どことなくハイカラな味が街に漂っている」と作者は書くのだが、生活をはじめると、そんな味は消えるのか、それとも時代の移り変わりで消えたのか。言われてみると、文士村の記念レリーフが埋め込んである天祖神社の階段を昇るとイタリアンレストランがあり、古い英会話教室があり、昇りきった上には、ウイスキーのバーと岡本太郎がデザインに関係しているという大きな花屋。そのあたりから大森テニスクラブや山王公園に向かうあたりは今でも少しハイカラなのかもしれない。
ちなみに、バレンタインデーにチョコレートを贈るという風習を発明して、チョコレートの売り上げにとても貢献しているメリーチョコレートの本社と大森工場は同じ場所にあるが、名前は大森工場で住所も大森西だが、もより駅は蒲田。大森駅に匂いは届かない。いま、匂うのは天祖神社の正面の西口を降りてすぐのウナギ屋さんか? この西口ももうすぐ再開発で、駅のすぐ脇の地獄谷というディープな飲み屋街はなくなるとのこと。そんな開発が街の匂いを消していく。
▼また、上記の記述の少し前には、昭和13年頃、室生がつきあっていたという人妻の話に関して、当時者が書くと言っているので「私はペンを措く」と著者は書く。それは実際書かれて、世に出たのだろうか?
かつて「貧乏、病気、失恋、このどれかがなければ小説は書けない」と謳われていた。 これは純文学作家たちの実生活から帰納して生まれた結論にちがいない。
「乱臣賊子のたぐい」と文学の徒が貶しめられていた時代でもある。作家たるもの、とて も恥ずかしくって、一人で暮らせたものではない、「馬込桃源郷」などとうそぶいてはみたものの、実は身辺にアウトロウをふやし衆を恃(たの)んで、世間に対抗しようという、いじらしい心情の発現である。253頁
そうとうにdisっているのだが、そのdisりの背景に愛があるのではないかと、この本を読んで感じた。ちなみに「らんしんぞくし」は読めなくて、熟語の意味さえわからなかったということは書き残しておこう。検索して意味を調べたが、「『乱臣賊子』ですが何か」と思わないわけでもない(笑)。
また、著者は馬込文士村にいた文士たちに関して、こんな風に書く。
「梶井逝き、牧野縊死し、尾崎低迷し、朔太郎は詞藻を枯らした。その中に燦然光を放つのは、宇野千代の不死鳥ともいえる女の強さである」
文士村の中心にいた人たちを見ると、そう言えそうな気もする。ただし、ここで犀星を外しているのは、彼は例外だったのか?
▼梯久美子による文庫本の解説に「第一級の文壇資料でありながら、小説などよりはるかに面白い」という近藤作品の評価が引用されている(258頁)が、確かにそれはそうだと思う。この解説のほぼ最後に作者と同じように坂の多い馬込を上り下りした解説者は以下のように書く。
「建物は変わっても、この土地そのものに、かつて暮らした人びとの記憶が刻まれているように思えてくる。一冊の本を媒介として、過去を生きた人たちに出会う」
確かに、この本を読んでから、それを想起しながら歩けば、そんな風に思えてくるだろう。解説で引用された先のセリフを借りると、「第一級の文壇資料でありながら、小説などよりはるかに面白く、散歩しながら昭和初期の文壇史に思いを寄せることができる第一級の散歩の友」とも言えるかも。
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