『エッチのまわりに』に何があるのかな? (ほんの紹介62回目)

たこの木通信2023年4月に投稿した原稿。原稿の後に、書ききれなかった情報などを追加。
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今一度支援費制度の功罪を見直さなければならないと思う日々です

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以下、原稿

『エッチのまわりに』に何があるのかな?

(ほんの紹介62回目)

『エッチのまわりにあるもの――保健室の社会学』すぎむらなおみ著、解放出版社)。2011年に出版された少し古い本。ぼくの読書メモは20144月の日付。読んだのは2013年か。つい先日、たこの木連続講座の実行委員会をヒビノクラシ富士見台カフェで行った日に、話題にはしなかったのだけど、急にこの本のことを思い出して検索したら、読書メモが出てきた。すぎむらなおみさんは「保健室の先生」。紀伊国屋のサイトにある伊藤智樹さんの書評がこの本のことをうまく紹介しているので以下に引用。

・・・定時制高校に赴任し、なかなか心を開いてくれなかった生徒たちと文通を始めたことをきっかけに、生徒たちのさまざまな性に関する経験と悩みに直面し、How-To的な対処法がまったく通用しない中で一体どう考えたらよいのかと、著者は自問を重ねます。その成果がこの本であり、取り上げられるトピックは、恋愛とセックスだけにとどまらず、同性愛、外国人生徒の経験する文化的摩擦、(恋人同士の間におこる)ドメスティック・バイオレンス、セクシュアル・ハラスメント、レイプ、等々多岐にわたっています。

『すぎむらと同じ気持ちのゆれを経験してみよう」と思われるなら、10章からお読みください』と書かれていて、その10章は援助交際の話。援助交際を行っている女生徒たちが、その過程で「エンパワー」されていることに気づき、すぎむらさんは戸惑い、既存の価値体系が揺らぐ。ここで書かれている生徒たちとの出会いの中で、それまでは既存の性教育の本に書かれた知識で対応していたのだけれども、自分で考えざるをえなくなったという。
 この本、すべての章の冒頭にLLページ(むずかしい字も 言葉も つかわない「LL(エルエル)ページ」)がついているのだが、この章のLLページの最後のほうで、こんな風に書かれている。

 「いい」とか「わるい」という みかたではなく、「どういうことなのだろう」「なぜおこるのだろう」といった みかたで、はなしあうって だいじだと おもうのです。217p

タイプしていて、気がついたのだけど、このLLページ、わかりやすくするために、途中でスペースがいくつか使われている。

この章ですぎむらさんは、自分の道徳観で生徒に対峙するのではなく、自分の価値観さえもゆらいでしまうような根本的な議論をすべきだと書き、そのためには「援助交際」がわるいものだということを前提にした議論も、それは善か悪かというような議論も不要だと言い切る。確かに、自分の価値観を揺らがせるようなことは、とても大切だと思う。そして、必要なのは

なぜ「援助交際」という現象が生まれたのか、個人、社会、制度・・・・・・ さまざまな観点からじっくりかんがえていくことだとおもう。233p

と書く。個人モデルではなく、社会モデルで考えるということなのだと思う。それはとても大事なことではある。しかし、ここには少し、違和感も残った。前提として書かれている既成観念にとらわれた議論は不要だという話はよくわかるのだが、じっくり考えることが必要なのは社会や制度の話だけなのだろうか?

まず、一番大切なのは、その「援助交際」をしている女の子自身のものがたりに寄り添うことなんじゃないか。ま、あたりまえすぎて、書かれてないのかもしれなし、実際にすぎむらさんはそんな風に寄り添ってきたんだと思う。すべてはそこから始まっている。すぎむらさんにこの本にサインしてもらった。こんな風に書いてあった。

 これからも

まわりの人といっしょに

      笑って

     いっしょに

     なやんで

   やっていきたいと思ってます。

     決意表明^^

    すぎむらなおみ

2013.7.6

この本の紹介、続けようかと考え中。

~~原稿、ここまで~~

追記:この原稿は
https://tu-ta.seesaa.net/article/499932366.html
に続く。(追記ココまで)


この本の読書メモは
https://tu-ta.seesaa.net/article/201404article_4.html


文字数の関係で書けなかったのだが、この本に杉村さんにサインしてもらったのは

2013/07/06に開催された生活書院主催の

『支援』公開トークセッション 
教育の中の支援、
支援の中の教育

案内チラシのデータが残っていた。
https://www.seikatsushoin.com/pdf/talksession.pdf

そこに、こんな案内が書かれていた

 「教育」とは、人を何らかの意味で「望ましい」方向へ変化させることを狙いとした営みだといえます。とりわけ、制度化された枠組みである「学校教育」は、「望ましさ」の明確な目標を定め、そこに至る有効な手段を意図的・計画的・組織的に配置することによって、「教育効果」を高めるようにデザインされています。しかし、その「望ましさ」は誰にとっての、何のためのものなのか。また、その到達度・達成度は誰が、どのようにして評価できる(すべき)ものなのか。このように細かく問いを立ててみると、「望ましさ」という目標はとたんに曖昧なもの、危ういものに見えてくるのではないでしょうか。

 ともあれ、さしあたり「教育」をそのようなものとして捉えるとすると、「教育」と「支援」とは微妙な関係にあるように思います。一方で、この2 つの領域はしばしばクロスオーバーします。それは、本来「教育」が広義の「支援」抜きには考えられないものだからなのかもしれませんし、「支援」の場に「教育」的なまなざしを招きよせる不思議な磁場が働いているからなのかもしれません。他方で、両者の間には相容れない方向性の違いがあるようにも思います。それは、「支援」が対象者の生に寄り添い、いわば「併走」する営みであるのに対して、「教育」は対象者に何がしかを身に付けさせようとする「先導」的な側面を含んでいるからです。このことを踏まえたとき、〈特別「支援」「教育」〉という領域は、非常に危ういバランスの上に成り立っているものだということになるのではないでしょうか。

 まずはこうした問題意識を出発点としつつ、「集団」の中での「個別的」な配慮にはどのような困難があるのか、「特別扱いされること」と「普通であること」との関係はどうなっているのか、「教える/教えられる」関係と「支援する/支援される」関係とはどのように重なり合い、またずれているのか、といったテーマをめぐって、お 2人のスピーカーに大いに語っていただきます。それを通じて、「(学校)教育」と「支援」という場の内と外に働いている様々な力と、その中で生きるという経験について、考えなければならない問題がどこにあるのかを探ってみたいと思います。

当時はフットワークが良かったのか、それとも何か別の理由で行きたくなったのか、たぶん両方。この公開セッションの内容は翌年に発行された雑誌
『支援 Vol.4』
https://seikatsushoin.com/books/%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%80%80vol-4/
に掲載されている。

いま、この雑誌の目次を見て、思い出したのだけど、この雑誌に掲載された土屋葉さんの海街ダイアリーの書評を読んで、この漫画に嵌ったのだった。吉田秋生はもともと好きだったのだけど。


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