漫画『戦争は女の顔をしていない3』メモ

以下、引用
勝手に改行をつなげたり句読点を挿入したりしている)

回顧とは 起きたことを
そして跡形もなく消えた現実を
冷静に語り直すということではなく
時間を戻して 過去を新たに生み直すこと。

語る人たちは同時に創造し
自分の人生を「書いて」いる。
「書き加え」たり 「書き直し」たりもする。
そこを注意しなければならない。

わたしが気づいた限りでは より正直なのは 一般庶民だ。
看護婦、料理係、洗濯係だった女たち。(ここに看護婦がいるのが不思議) 
そういう人たちは新聞や本で読んだ言葉ではなく、自分の中から言葉を取り出す。自分で体験した苦しみから出てくる言葉だ。

不思議なことに教養のある人ほど、その感情や言葉遣いは時代の常識の影響を受けている。
 退却した、進撃した、どこの戦線だったという「男の戦争」ではなく、「女たち」の戦争の話を聞くためには、アプローチを工夫して、ずいぶん時間をかけなければならないことがしばしばあった

知り合いでもない人の家に時とすれば一日中座り込む。お茶お飲んだり、最近買ったばかりのブラウスを勧められるままに着てみせたり、髪型や料理のレシピの話をしたり、お孫さんたちの写真を一緒に眺めたり。

それで初めて…、どれだけ時間がかかるかわからないのだが、突然、ふっと、待ちかねていた瞬間が訪れる。

我が国の鉄筋コンクリートでできた記念碑のような常識を離れて自分に帰っていくときが。戦争をではなく、自分の青春を思い起こす。自分にしかない人生の一部を。

その瞬間を捉えなければならない。

(27~30頁)


女たちがじっと自分の家に耳を澄ましていることがよくあった。
心の声に。
 そして、話している言葉が心の声とずれていないか確かめている。

人間は年をとってくると、 今まで生きてきたことは受け入れて去って行く時の準備をしようとする。 ただ誰にも気づかれずに消えて行ってしまうなんて あまりにも悔しい。

 何事もなしにそのまま消えていくなんて。

 私が書こうとしている本の文章が至るところに転がっている。

農家や街の家々。

町屋 汽車の中で、

 いたるところで私は聴いている。


ひとつの

大きな耳になって

人々の声を

読み取っている


戦争のことを聞いただけで
それを考えただけでむかつくような
そんな本が書けたら。

将軍たち自身が吐き気をもよおしてしまうような本を。

(35~38頁)


ふと、気になったのだが、この漫画に日本語訳をした人の名前はクレジットされていない。この漫画と日本語訳との関係はどうなっているのだろう。また、この漫画自体、何語の本をベースにして書かれたのだろう。監修者とロシア語監修者の名前はクレジットされてる。

そして、再び思うのだった。本当に戦争は女の顔をしていないのか、と。この本に書かれた数々は女の顔をした戦争の話だとも言えるのではないか。加納実紀代さんの銃後史の仕事もそうだし。このように言うことでジェンダーロールを強化することにもつながる可能性はないのか、とか言う前にマンガじゃなくて、本を読めよ、って話なんだろうな(笑)。いつか読みたいと思ってるんだけど・・・。とはいえ、そんなことも考えさせてくれるいい漫画だと思う。もう次の4巻も出ている。

そう、思い出した、この漫画の1巻と2巻は、ぼくが大田区の図書館にリクエストして、入れてもらったはず。



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