『「社会」を扱う新たなモード』メモ 序章まで +

この本、読んだ当初は興奮して、この本に関するオンラインセミナーや研究会にも参加した。メモを書き始めていたのだけど、書きかけで、そのうちに忘れていた。生活書院の高橋さんがフェイスブックで3刷のことを書いていて、思い出して、なんとか、序章までのメモを書き終えたのでアップロード。


生活書院のサイトでの情報 https://seikatsushoin.com/books/mode/ から

この「社会」は偏っている!!

時に小さく 時に大きく「社会」の範囲を見積ることで「偏り」を隠微に維持しようとする権力装置。

矮小化された「障害の社会モデル」理解をアップデートすることによって、

「マジョリティ性の壁」を見定め突き崩すための思考の在り方=新たなモードを提示する。


【目次】

はじめに  飯野由里子

序章 「社会」の語り口を再考する  星加良司
 1 「社会モデル」のいびつな普及
 2 「社会/個人」をめぐる認識の政治
 3 本書の構成と射程

第1部 「社会モデル」でみる現在

第1章 当事者研究と「社会モデル」の近くて遠い関係  西倉実季
 1 当事者研究の展開
 2 熊谷と綾屋の「社会モデル」理解
  (1)熊谷による当事者研究に関する議論
  (2)綾屋によるソーシャル・マジョリティ研究に関する議論
 3 身体と社会の無造作な二分法
 4 ソーシャル・マジョリティ研究における危うい線引き
  (1)個人/社会の線引き
  (2)可変/不可変の線引き
  (3)帰責/免責の線引き
  (4)小括
 5 「社会」の過小性、「個人」の過大性

第2章 「心のバリアフリー」は毒か薬か  飯野由里子・星加良司
 1 「心のバリアフリー」のリバイバル
 2 「心のバリアフリー」の系譜
 3 心のバリアフリーの新旧パラダイム
 4 新パラダイムに潜む問題(1)――普遍化のレトリックと「不均衡」の不可視化
 5 新パラダイムに潜む問題(2)――「能力発揮」という理念と「不均衡」の再生産
 6 共生社会の両義性

第3章 性の権利は障害者の味方か?   飯野由里子
 1 性の権利と「社会モデル」
 2 性の権利とは何か?
 3 「ホットでセクシーであれる権利」
 4 性の権利の連動性
  (1)性の二重基準をめぐって
  (2)性被害・性暴力をめぐって
 5 性的自由の前提条件

第2部 合理的配慮と社会モデル

第4章 合理的配慮は「社会モデル」を保証するか  星加良司
 1 忍び寄る「個人モデル」
 2 合理的配慮の二つの解釈
 3 合理的配慮の意図せざる効果Ⅰ――医学的基準の焦点化
 4 合理的配慮の意図せざる効果Ⅱ――機能アセスメントの強化
 5 合理的配慮の意図せざる効果Ⅲ――専門性による囲い込み
 6 「社会モデル」を取り戻す

第5章 社会的な問題としての「言えなさ」  飯野由里子
 1 「ニーズが言える社会」へのとまどい
 2 「ニーズを言えるようにする」アプローチとその問題
  (1)「個人に働きかける」アプローチ
  (2)「環境を変えていく」アプローチ
 3 障害の開示とスティグマの問題
 4 なぜインペアメントが「ある」ことを疑うのか?
 5 なぜ合理的配慮が提供されないのか?
  (1)障害による困難を不変なものとする誤解
  (2)困難に対する不適切な理解
  (3)いまある状態の正当化
 6 何のための「社会モデル」か?

第6章 変えられる「社会」・変えたくない「社会」  西倉実季
 1 狭く解釈される合理的配慮
 2 紛争化した事例
  (1)事例1:バニラエア問題
  (2)事例2:代筆投票問題
 3 社会モデル理解の問題点
  (1)αの問題について
  (2)βの問題について
 4 マジョリティ問題としての合理的配慮
  (1)ルールは絶対的・中立的であるという人に向けて
  (2)自分が負担を負うのは納得できないという人に向けて
  (3)ルールが偏ったままで構わないという人に向けて

終章 「社会モデル」を使いこなす  飯野由里子
 1 本書の立場――「社会モデル」の要諦
 2 「社会」の過小性が生み出す問題
  (1)「発生メカニズムの社会性」の軽視に伴う問題
  (2)「発生メカニズムの社会性」を狭小化に伴う問題
 3 「社会的なもの」の範囲をめぐる政治
 4 マジョリティ性の壁を崩す

おわりに  西倉実季




いつだったかの飯野さんの講座の感想(日付やこの講座名の記録、忘れました)

~~
星加さんは「障害学のリハビリテーション」で障害学の現状について

「障害学は、何のために、どのようなものとして存在する(べき)か――その基本的な問いへの応答はあまりにも深められていない」と問題提起し、

<これまでの障害学の発展の経過と現状を見ると、「そこには根本的な問題がある」というのが私たちの率直な見立てである>と書きました。

そして、さらに、日本の障害学の論争と相互批判の少なさには触れて「微温的な仲間内の集まりで、行儀よく住み分けをして、相互不干渉を決め込んでいるようですらある」とまで書いたのに、その問いはあまりにも深められないまま、外から見ると、この本の著者グループもまた、「微温的な仲間内の集まりで、行儀よく住み分けをして、相互不干渉を決め込んでいるよう」に見えます。

立岩さんが会長の時代に、榊原さんの「障害学は終わっている」という挑発的な言辞に乗って、「社会モデルとは何か」というような基本的なことを学会でとりあげないかとメールしたこともありましたが、結局、取り上げられませんでした。

どのように、ここでの問題提起が論争になるか、期待しています。

~~~

このように書いた。本は1年程度で3刷りになるくらい出ているらしいが、論争は起きない。

というか、これに関して、誰かが異論をはさんだという話を聞いたことがない。どこかでちゃんとやる必要があるんじゃないかと思うのだけど、どうなのだろう?

社会モデルの使われ方についての著者たちの主張は以下の通り
~~
「社会モデル」と3つの「社会」とは

① 障害者が直⾯する困難の原因は、社会の作られ⽅にある
 ・障害の発⽣メカニズムにおける「社会」
② 障害者が直⾯する困難は、社会的に解消できる
 ・障害の解消⼿段における「社会」
③ 障害者が直⾯する困難を解消するのは社会の責務だ
 ・障害の解消責任における「社会」
(序章、p. 17参照)

• 「近年流布している『社会モデル』理解においては、②や③の位相の『社会性』のみが着⽬され、①の視点がほぼ無視される傾向」(序章、p. 19)

以上、飯野さんのレジュメから

~~

例えば、駅にエレベータがないという話が社会モデルの話として使われるし、ぼくも使ってきた。例えば https://tu-ta.at.webry.info/200811/article_16.html

これが批判されている。
ぼくが上記のブログで紹介した、駅のエレベータの例は
~~~

②社会がエレベータを準備すれば障害が解消され
③そのエレベータを準備するのは社会の責任
という話ではあるが、

しかし、①それまでエレベータを作ろうとしなかった社会の問題は、そこでは問うていない。

なぜ、一定の時期まで、エレベータは作られなかったのか、鉄道会社は作ろうとしなかったのか? 技術的な問題もあったのかもしれないが、そこには、エレベータを作らなくてもいいという社会の了解があった。『障害の社会モデル』において、見落とされがちで、ぼくも明示的には意識していなかったのかもしれない視点。

~~以下、付箋にそって~~

はじめに  飯野由里子

この本の「はじめに」の結語の部分の飯野由里子さんによるこの本の紹介というか、戦闘宣言にも読めるような部分。

・・・近年、障害者が直面するさまざまな問題を「社会的」に取り組むべきものとみなす主張が国内外で浸透している。では、これまで「個人的」な問題として捉えられてきた障害を「社会的」な問題として扱うこうした主張はすべて、「社会モデル」と言えるのだろうか。

 その答えは「否」である。本書は、「社会モデル」であるためには、障害を「社会的」なものとして扱うだけではなく、そうした営み自体が埋め込まれている権力関係にも注意を払う必要がある、と主張する。なぜなら、マイノリティが直面しやすい問題を「社会的」なものとして扱おうとする時にも、マジョリティ マイノリティ間の不均衡な権力関係は大きな 影響を与え、マジョリティにとって有利にマイノリティにとって不利に働きがちだからである。

 このため、これまで「個人的」とみなされてきた問題を「社会的」なものとして扱うだけでは不十分である。むしろ、「個人的」だとされてきた問題を「社会的」に扱おうとする只中において、「社会」の範囲をある時には小さく、別の時には大きく見積ることで、いまの この社会の偏りを隠微かつ巧妙に維持しようとする権力関係の動きをとらえなければならない。それは、マイノリティが直面している問題を一見解決するかのように見える動きの中にもマジョリティ優位の権力関係が機能しており、その結果、問題解決の範囲を不当に狭めたり、問題解決に責任をもつべき主体をあいまいにしたりしていることを見抜き、ごまかされたり騙されたりしないための実践である。こうした実践は、多様性の包摂が国や地方自治体、企業の目標として掲げられ、マイノリティに対して一件「やさしく」「フレンドリー」施策が登場している中、障害以外の領域においても重要となっている。本書では、そうした実践に必要となる思考の方法や形式を、「社会」を使う新たなモードとして提案したい。5-6頁(強調、引用者)

 基本的にその通りだと思うが、それは「新たなモード」なのか、「本来のモード」なのか、微妙だと、まず思った。この話、飯野さんに直接聞いた。本を読んでもらうための切り口、というような話だった。もっと露骨に言っていたような気もするけど(笑)。というような話はありつつも、やはり、そのモードは相対的に「新しい」と言えるかもしれない。障害の社会モデルとともに障害学が日本に紹介されてから、まだ30年に満たない、ということも出来る。もちろん、「そんなに経ったのに・・」という見方もあるだろうが。そして、「障害の社会モデル」という言葉はマジョリティの側からも発せられるようになった。その基本的な考え方は国連障害者権利条約にも用いられている。

 しかし、というべきか、だから、というべきか、それを矮小化する解釈が流通している、そこをはっきりさせなければならない、というのが著者たちの主張だと思う。障害の社会モデルの「新しさ」や、その射程の深さは、矮小化され、切り落とされている。そういう意味で、本来の「新しさ」「新たなモード」について書いた本である、ということは出来るのかもしれない。


序章 「社会」の語り口を再考する  星加良司

 1 「社会モデル」のいびつな普及

 この本で、「社会」「社会モデル」と括弧をつける理由は、いまのところ不明。今度、聞いてみよう。

「社会モデル」の誤解、誤用の例としての東京オリパラにおける「社会モデル」の名のもとの「思いやり」「優しさ」「助け合い」などを称揚するキャンペーン 15頁

支援や運動の現場で「変わるべきは社会」というスローガンが限定的に解釈され、それに乗りづらい当事者の生きづらさを助長しているようにも見える 16頁

と書かれているが、具体的にはどういう話だろう。『障害経験』に含まれることがある個別の豊かさなどが捨象されるということだろうか? こんど、機会があったら誰かに聞いてみよう。

星加さんは上記を【こうした「社会モデル」をめぐる混沌とした状況】と呼ぶ。

そして、その理論装置としての限界や賞味期限切れを指摘した議論があった。前に紹介した榊原さんの「障害社会学という視座」が代表的なものだろうし(ぼくの読書メモは以下https://tu-ta.seesaa.net/article/202007article_1.html )、それ以前に英国の著名な障害学の人だったシェークスピアが2007年に提起しており、それを星加さんが紹介して『障害学のリハビリテーション』が書かれている(ぼくの読書メモは以下https://tu-ta.seesaa.net/article/201401article_2.html)。また、【それらを踏まえつつ、社会モデルの意義とポテンシャルを正当に評価し擁護しようとする議論も提示されてきた】として、日本語の参考文献として挙げられているのが上記の『障害学のリハビリテーション』。

 そして、この本でも『この論争には、なお探求すべき理論的な争点が幾つも残されている』(16頁)と星加さんは書く。そして、以下のように続ける。

ただし、 本書で考えたいのは、そのことではない。 理論的な道具立て としての社会モデルの性能に限界があるか否かにかかわらず、私たちはまだそのポテンシャルを十分に理解し、 開花させるに至っていないのではないか。 むしろ、 社会モデルの世俗的な普及に伴って 今まさに生じている「 副作用」は、 社会モデルに関する不適切な—— あるいは偏った——理解に由来している、というのが 本書の見立てである。結論を先取り的に述べれば、社会モデルの本質である「障害発生の認識論」が軽視された結果、 やや歪んだ社会モデルの用法が流布してしまっているのではないかと考えている。 16頁

(残されている探求すべき理論的な争点については、誰がいつ考えるのかというのが気になる。)

ここから最初に紹介した3つの「社会」の説明につながる。

まず、2017年に策定された「ユニバーサルデザイン2020行動計画」に書かれた社会モデルの説明が引用される。

「障害」は個人の心身機能の障害と社会的障壁の相互作用によって創り出されるものであり、社会的障壁を取り除くのは社会の責務であるという、障害の社会モデル。

この社会モデルの説明を分解すると、以下の3つの「社会」が混在しているとして、以下の説明になる。繰り返しになるが貼っておこう。

① 障害者が直⾯する困難の原因は、社会の作られ⽅にある
 →障害の発⽣メカニズムにおける「社会」

② 障害者が直⾯する困難は、社会的に解消できる
 →障害の解消⼿段における「社会」

③ 障害者が直⾯する困難を解消するのは社会の責務だ
 →障害の解消責任における「社会」

星加さんはこれを以下のように8つの組み合わせパターンに切り分ける。

障害者の困難は【社会 or 個人】の問題【であり or だが】、【社会 or 個人】で解消できる【のだから or が】、【社会 or 個人】が対処すべきだ。

①が個人だとしても、②、そしてとりわけ③が社会であれば、社会モデルと思う人が多いかもしれないが、それを否定する。

ここに関して、星加さんは以下のように書く。

社会モデルが、障害者の置かれている社会的位置を問題化し、 その是正を図るという実践的な文脈から生まれたものであることを考えれば、 このように ①の認識論よりも②・③の 実践論が重視されることは何ら問題がないと思われるかもしれない。にもかかわらず、 我々は①こそが 社会モデルの要諦であり、それを欠いた社会モデル理解は危険であると考えている。 それはなぜか、 次に その理由を説明しよう。 20頁

として、次の節に移る。

         

2 「社会/個人」をめぐる認識の政治

この節の冒頭で、星加さんは認識論を重視する社会モデル理解は、アカデミズムとしての障害学においてスタンダードな理解であるとして、杉野さんの『障害学――理論形成と射程』(2007年116)を以下のように援用する(抜粋)。

「変わるべきは障害者ではなく社会である」という主張自体は、すでに日本においても1970年代から主張され始め・・・広く普及・・。これらの「新しい障害者福祉概念」と、障害の社会モデルとが決定的に異なる点は、それらが援助実践における目標概念にすぎず、その前提となる「障害」とは何かという認識論的課題に踏み込んでいなかった点・・。「障害」をインペアメントという個人レベルでとらえるだけで、その社会的次元をとらえなければ、「障害者をありのままで受け入れる」ことの社会的責任が曖昧となり、結果的に受け入れ努力は努力目標に終わってしまう。(杉野 2007:116

これを援用したうえで、以下のように書かれている。

つまり、②・③の観点からは一見大差のないものに見えたとしても、①のあり方次第で実践が似て非なるものになってしまうことが問題とされたからこそ、新たな障害理解のパラダイムとして社会モデルが提起されたということなのだ。その意味で、①は社会モデルの中核的なアイデアであると言ってよい。21頁

(しかし、この部分に<注1>が付記されていて、立岩はそのように考えていないとして、『不如意の身体』の53頁が参照されている。)

これに続いて①の軽視でどのような問題が生じるかという説明がなされる。以下、適当なまとめ

この軽視が「個人(医療)モデル」的な理解を温存させ、そのことが、障害者をその機能障害ゆえに本質的に劣った存在だと認識し続けることを意味し、障害者が直面する困難に、どれだけ多くの社会的資源と支援が提供されたとしても、根源的には変わらない、障害者をスティグマ化する認識が転換されずに維持される限り、それは「社会モデル」の名に値しない、

社会が対応するとしても、個人モデルが温存されていれば、「善意」や「恩恵」として対応という色彩を帯び続けることになり、③の責任は空洞化する。その責任が「善意」や「恩恵」と結びついていれば、変革の内容やコストは容易に引き下げられる。

そのような意味で①の認識論が実践の在り方を強く規定する。21-22頁


以上が①を重視する理由として書かれている。しかし、一筋縄ではいかない。そこがこの本の面白かったりする所。

これに続いて

「単に①の位相に着目すればよいというほど、話は単純ではない」

として、以下のように書かれている。

①~③を通して、何が「社会的」であるのかを語ること自体が「社会的」な営みであり、実はこの過程にこそ、「障害」問題の本質が潜んでいる。障害学の理論研究が明らかにしてきたのは、 障害者の経験する困難とは、マジョリティ である 非障害者とマイノリティ である障害者との間の「権力(power)」と「特権(privilege)」の非対称な配分によって生じる問題だということだ。マジョリティの側は、自分たちにとっての問題の解決を「社会」に期待することができるという意味で 特権的な立場にあるが、実はその特権は、何が「社会」によって対処されるべき問題かを定義する権力をマジョリティの側が握っていることによって支えられている。他方、マイノリティの側は、そうした権力を持たないがゆえに、自分たちの問題を「社会」によって対処されることなく放置され、排除されてきた。障害問題とは、 心身機能の優劣の問題ではなく、 こうした権力と特権の健康な配置の問題だと主張することが、 社会モデル提起の狙いだったのである。(22-23頁、強調は引用者)

その視点から、①~③の各位相で何がどのような意味で「社会的」と見なされたり、見なされていなかったりするのかを見極め、その線引きの過少性や過剰性について批判的に検討されることが重要である、と書かれている。つまり、単に①の位相に着目すればよいという話ではなく、それぞれの位相における「社会/個人」の線引きについて批判的にみなければならないという話だ。

短期的に解決可能な障壁のみを「社会的」と捉えるような「過少」な線引きがなされれば、社会モデルは「エレベーターの設置の切り札」程度の意味しかもたなくなる、という。1980年代からエレベーターの設置要求などをしてきた人間にとっては、ずいぶんな言い方だと思いつつ、星加さんの何気ないけど、プロヴォーキングなこういう表現はけっこう好き。

この線引きの過少の例はわかりやすいが、過剰の例はわかりにくかった。ここで星加さんが過剰の例として出すのが、街で障害者が手助けしてもらったときに笑顔で感謝を伝えられないのは「教育」の不足だから「社会的」に対処すべき、という主張。教育という社会的なものの不足がそのような事態を生んだのだから、それも教育の充実として社会的に解決すべき話というのは、線引きが過剰に傾いるということなのだろう。それはパターナリズムの温床になると星加さんは書く。

 社会に生活する社会的な存在としての人間の行為は、生き物としての衝動に起因する行為であってもそのしぐさなどを勘案すれば、すべての行為は社会的な側面を有していると言えるかもしれない。しかし、だからと言って、インペアアメントに関連して「できない」とされるすべての「直面する困難」が①~③で語られるような「社会」の問題として認識され解決が図られなければならないわけではなく、そこには「線引き」が必要となる。それは「社会/個人」の境界をどう形成するかという話でもある。ここで、その境界をめぐっては常に恣意性(その背景にある権力性)が入り込む余地があることに注意を払い、それが誰に対して、どのような効果を及ぼすことになるのかについてセンシティブであることが必要である、とされている。

 例えば、インペアメントと連関して自分が欲する配偶者(パートナー)を得ることが出来ない、という困難がある、といった場合に社会/個人の境界をどう設定するか、という課題がある。インペアメントの存在に否定的な社会によって出会いの場が非障害者と比較して限定されるという社会的な課題に関しての「社会的な支援」は数少ないがすでに存在している。しかし、それはパートナーを得られないという困難を全面的に解決するものにはなり得ないし、なり得たとしたら、それこそパターナリズムの極地みたいな話だろう。

 話を本に戻す。この①~③の説明、確かにもっともらしいのだが、果たしてそれは有効なのか? 例えば、前出の

障害者の困難は【社会 or 個人】の問題【であり or だが】、【社会 or 個人】で解消できる【のだから or が】、【社会 or 個人】が対処すべきだ。

という話だが、【障害者の困難は】という風に主語を立ててしまうことの問題を感じる。困難の種類によって、それ以降の記述はさまざまに変化するだろう。だからこそ、ここに書かれているように【「社会/個人」の境界をどう形成するかという話】について【センシティブ】でなければならない。故に「単に①の位相に着目すればよいというほど、話は単純ではない」。そういう意味で、ここの①が重要という説明だけに注目すると間違う危険があるだろう。【障害者の困難】は多様だ。


これに続けて、星加さんはフェミニズムにおける「公/私」の区分における恣意性が権力の源泉と結びついてきたことをも批判対象にしてきたことに言及し、こうした議論との接続も視野に収めつつ、社会モデルについて詳細に検討すると書かれ、序章の最終節である

3 本書の構成と射程

に入っていく。この節では、それぞれの概要を説明したうえで、以下のように書かれている。

これらの各部・各章の今日も通じて、社会モデルの言説がその本来のポテンシャルに見合った形で適切に普及・定着することに寄与するとともに、社会モデルの理論的進化を図ることが、本書の第一義的な目的である。 25頁

と同時に、あらゆることが「個人責任」とされがちな現代社会で【「社会的」な色彩を帯びた 言説や実践には好意的に反応したくなるのも無理からぬことだ】が、しかし、そこに危うさがある、と指摘し、【本来「社会的」に思考しなければならない ポイントがどこなのかを問うことなく「社会的」であることに飛びつくことは思いもよらない 副作用を引き寄せることにつながるかもしれない】という。

最後に「社会」を語る適切なモードを手に入れることが現代社会を生きる我々に不可欠な作法かもしれない、として序章は閉じられる。







飯野さん11月20日 差別研でのメモ


執筆のきっかけ

合理的配慮ー対話が開く

2016年本以降の課題
(1) 「社会モデル」が浸透していく中で⾒られる誤解と誤⽤
(2) 合理的配慮の法制化をめぐる懸念点

この本の入り組んだところ

「社会」が認識していれば、それでいいのか、という部分

「社会」が原因と主張していれば それでいいのか?

  • 原因として「社会」が語られる時の範囲にも注意する必要あり 
  • 「社会」=障害者の⾝の回りになっていないか?(社会の極⼩化)
    • 「社会」=「みんなが」「⼀⼈ひとりが」になっていないか?(社会 の極⼤化)
    • 「社会」の⾒えやすいところにだけ着⽬していないか?
    • 「障害者が直⾯する困難の原因は、街の作られ⽅にある」
    • →段差、階段、案内板等、ハード⾯への注⽬ • わかりやすい社会的障壁を⾒つけて、思考停⽌になっていないか? • 困難の原因になっているのに、「社会的」障壁として認識されにくいものはない か?

~~以下、飯野さんの講座でのパワポから~~


「障害の社会モデル」

  • 障害者が経験する不利や困難の原因はどこにあるか? 

個⼈モデル

「個⼈の⼼⾝機能に 原因がある」

 社会モデル 

「障害のない⼈を前提に 社会が作られてしまってい ることに原因がある」


「社会モデル」と3つの「社会」

  • その⼀例としての「ユニバーサルデザイン2020⾏動計画」(第2章)
  • 「『障害』は個⼈の⼼⾝機能の障害と社会的障壁の相互作⽤によって創り出されているものであり、社会的障壁を取り除くのは社会の責務である、

という『障害の社会モデル』」

  • ①の不徹底、③の強調

本書の⽴場

  • 「社会モデル」においては、①こそが重要。①を⽋いた「社会モデ ル」は不⼗分で危険
  • 感受されるスティグマ(第5章、p174)
  • 認識論としての「社会モデル」
  • 認識論=「知の⽣産のあり⽅に関⼼を寄せる理論的な⽴場のこと」(終章、p. 236)
  • 「社会モデル」のラディカルさは、障害の原因をめぐる知を転換した点にある
  • 認識論は「実践のあり⽅を強く規定する」(序章、p. 22)点でも重要
  • 「個⼈モデル」からの脱却=障害/⾮障害の⼆極化と障害者の⼆級市⺠化か らの脱却


第2部:合理的配慮の法制化をめぐる懸念点
  • 第4章
  • 障害学⽣⽀援の現場に医学・⼼理学の専⾨家が配置され、「個⼈モデ ル」の密輸⼊が⾏われている(アセスメントと監視の強化)
  • 第5章 
  • 「⾃分のニーズが表明できること」が前提とされ、「⾔えなさ」の問題が個⼈化されている
  • 第6章 
  • 合理的配慮のうち「物理的環境への配慮」や「意思疎通への配慮」に⼒点が置かれ、「ルール・慣⾏の柔軟な変更」が進んでいない

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