『社会福祉学の〈科学〉性』メモ

『社会福祉学の「科学」性
   ――ソーシャルワーカーは専門職か?

三島 亜紀子 著 20071130 勁草書房,211+36p.

この本を手にしようと思ったきっかけが何かあったはず。16年近く前の本だ。そのきっかけについては、すっかり忘れている。立岩さんが書評で書いている(このブログの最後に引用してある)ように「なされるべきでなされなかった作業がこの書でようやく始められている」のかもしれない。大切な仕事だと思う。

この本について、生存学のサイトでの紹介。
目次や前書きの抜粋が掲載されている。
http://www.arsvi.com/b2000/0711ma.htm

立岩さんによるこの本の書評 
1,
http://www.arsvi.com/ts/20080008.htm
2,http://www.arsvi.com/ts/20080009.htm

読書メーターに書いたもの
~~
未読了。読み終えず返却。
1960~70年代にかけて「反専門職主義」が台頭。この時期、ソーシャルワーカー(SW)はクライエントを制御するものであり、社会福祉学はそうしたシステムを維持させる装置であるとして糾弾された(103頁)とある。いまでもそのような側面は色濃い。SWの専門性が確立されたかどうかという時代であったにもかかわらず、とも書かれている。この反専門職の傾向の高まりが新しい専門職像の模索を強い、社会福祉研究者をILや脱施設、セルプヘルプを吸収することに(109頁)。 反省的学問理論については終章

~~

第4章くらいから 後半だけを中心に読んだ。

読書メーターの書影はペーパーバック版とのこと。
https://bookmeter.com/books/16411962

ぼくが読んだ図書館の本、単行本の書影は紀伊国屋のサイトにもある。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784326602063

オンデマンド版が出てる。これも書影は異なる。
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b245412.html


生存学サイトに掲載されている目次は以下

■目次

はじめに

第一章 専門職化への起動
 第一節 全国慈善矯正事業会議におけるフレックスナー講演
 第ニ節 フレックスナー講演に先行するフレックスナー報告
 第三節 「進化」する専門職

第ニ章 社会福祉の「科学」を求めて
 第一節 援用される諸学問の理論
 第ニ節 最初の「科学」化――精神力動パースペクティブ
 第三節 ラディカルなソーシャルワーク
 第四節 社会福祉統合化へむけて――システム-エコロジカル・ソーシャルワーク理論

第三章 弱者の囲い込み
 第一節 障害者というまとまりの具体化
 第ニ節 福祉の対象となる子ども
 第三節 子どもの権利と専門家の権限

第四章 幸福な「科学」化の終焉
 第一節 反専門職主義の嵐
 第ニ節 脱施設化運動
 第三節 新たな社会福祉専門職への再調整

第五章 専門家による介入――暴力をめぐる配慮
 第一節 ソーシャルワーク理論と政治
 第ニ節 理論と政治の連動――イギリスにおける児童福祉の展開・1
 第三節 「自由の巻き返し」――イギリスにおける児童福祉の展開・2
 第四節 自由か安全か

終 章 専門家の所在
 第一節 一九九〇年代以降
 第ニ節 エビデンス・ベイスト・X
 第三節 反省的学問理論と閾値

同じく生存学サイトの「はじめに」から抜粋
「医師が専門家のモデルとされると、絶えざる実験・研究によって学問は進歩するといった思考が社会福祉領域においても再現され、実践の理論化や「科学」化がソーシャルワーカーの専門性を根拠づけると考えられるようになった。[…]<ii<
</ii<
 社会福祉の学問の確立に向けたこうした努力に対し、いち早く否定的な声をあげたのは福祉の実践家たちの一部であった。現場にいる実践家たちはいう。学問は日常の業務には関係ない。実践において役立つことは少ない。大学での専門教育を終え、資格を手にした若者よりも、現場経験の長い無資格者のほうが現場では有能である、など。そこでは、ソーシャルワーカーの専門性を裏付けるはずの研究の蓄積は、容赦なく放棄される。
「学問は日常の業務には関係ない。実践において役立つことは少ない」というのは学問の質の問題だと思う。社会福祉学の一部だと思うのだが、確かに現場で役に立たない学問領域は多いような気がする。「****という社会福祉の理論を最初に開発したのは誰で、****年だった」とかいう類の学問は現場ではまったくといっていいほど役に立たないのは間違いないが、この本でたびたび紹介される「反省的学問理論」に含まれる当事者の権利や、それを根拠づけるものなどに関する知識や学問は使えるはず。そして「大学での専門教育を終え、資格を手にした若者よりも、現場経験の長い無資格者のほうが現場では有能」であるのは人を相手にする社会福祉現場では当然で、そのことと社会福祉学の否定との連関は薄いのではないか? また、この本の著者の三島さんが10年後に書いた『社会福祉学は〈社会〉をどう捉えてきたか: ソーシャルワークのグローバル定義における専門職像』( 2017/12)でそのあたりがどう描かれているか、気になるところだが読んでいない。

「反省的学問理論」に関して、ふたたび上記から引用

 「よりよいソーシャルワーク理論を追い求め社会福祉実践の「科学」化を進めることによってソーシャルワーカーは専門家になるといった考え方は、この学問の草創期から約半世紀もの間、専門職化を語るうえで前提とされていた。しかしながらこれに対し、突然異議が唱えられた。一九六〇年代からの反専門職の思想である。専門家として、あるいは学問として社会的に承認されないまま、ソーシャルワーカーそして社会福祉学は批判されることとなった。そこでは社会福祉学の「科学性」を高める客観主義的な学問のあり方が、パターナリズムの温床となると指摘された。マルクス主義者たちは資本主義体制を基盤に福祉国家が成立している点を非難したが、その彼らさえ否定しなかった、知そのものが標的とされたのである。これまで骨身を削って重ねてきた「科学」化への努力が無意味とされただけでなく、「科学」化によってソーシャルワーカーの専門性が高まるという考え方こそが危険であると指摘された。[…]  反省的学問は、本来おのれに向けられていた批判的言説を内面化することによって正当性を保つ学問理論である。この奇妙な学問理論は、批判を真摯に受け止め、自虐的なまでに内省しているようにみえる。またそれは自戒的緊張を保ちつつ、より「おだやか」にことを進めるために、ある時期以降、急速に普及していったと指摘することもできる。

 この社会福祉学における反省的学問理論の興隆とともにあったのが、ミシェル・フーコーという思想家であった。エンパワーメントやストレングス視点、ナラティヴ理論といった社会福祉領域の反省的学問理論を唱える論者たちは、こぞって理論的基盤をフーコーに求めた。フーコーが考察の対象とした社会福祉学を含む学問にとって、彼の思想は本来、脅威で空く。しかしながら、一九九〇年代の英米の社会福祉学領域において、反省的学問理論を唱える多くの者は先を競うようにしてフーコーを論拠としていった。」(三島[2007:iv-v]) cf.Foucault, Michel

 「反省的学問理論の登場によって、専門家は〈社会の周辺部にいる弱者=福祉サービスの利用者〉の場までおりてきた。利用者は専門家と対等な関係にあり、両者が紡ぎ出すナラティヴも同等に意味があることが確認され、利用者の自己決定は尊重されるようになった。しかしながらハートマンが危惧するように、そこにリスクがある場合、「適切」に処遇するための力は執行される。こうしたパワーの行使の「客観」的な信頼性を高めるためにも、社会福祉実践のデータベース化は、より精緻化されることが望まれるのだ。」(三島[2007:203])

 ぼくにとって、根拠がフーコーであったとか、そんなことは関心の外にあるが、社会福祉学の「科学性」を高める客観主義的な学問のあり方が、パターナリズムの温床となる】という話は、いまでも有効なのではないかと思うし、当事者の視点での反省を欠いた「社会福祉学」はやはり「有害」でさえある場合は少なくないと感じている。

 そして、社会福祉学において、科学化、専門化に走り、されるべき反省を経ていないような学問のほうが、今でも主流なのではないかと感じる。反省を経たものか、経ていないものかという区別をリジッドに行うことは難しいような気もするが、その差は大きいように感じるし、反省の契機を失った学問に、ぼくは魅力を感じない。

 引用の最後の部分の「リスク」については考えたいと思うが、本を返してしまって言及することは出来ない。


【第4章 幸福な「科学」化の終焉】から

イギリスでは知的障害者の「脱施設化」がコミュニティケアの萌芽をもたらしたとされる」(115頁)。今の日本でも知的障害者の脱施設化をコミュニティケアとつないでいく必要はあるかも。 

「上述した初期の脱施設化のように、施設からの解放は専門家の野望や財政の抑制につながることもあった」(116頁)。脱施設を行政が持ち上げる背景に財政抑制が隠れていることは現在も注意が必要。「専門家の野望」については、この本をちゃんと読んでいないので不明。


【反専門職主義に起源を持つ「自立」と、専門職的な営為のなかに起源を持つ「自立」の両者は、具体的な問題を前にして、複雑に絡み合う】116頁

 これについて著者は【違和感のあるこのよじれ】と表現され、それは障害者領域だけではないとして、児童福祉療育での「ホスピタリズム研究」に焦点を当てて考察する。この研究は児童養護施設に関して「家庭生活に優るものなし」を「科学的」に検証していた。

著者が【違和感のあるこのよじれ】と呼ぶ、この複雑に絡み合った二つの「自立」。その内容をちゃんと検証することは大切なことではないかという気がしてきた。障害者解放運動やIL運動が始まる前、専門家主導が疑われる以前から「経済的自立」を求める運動はあったはず。日本ではWWⅡ直後に結核回復者などの身体障害者による経済的自立を求める運動があり、1980年代に身体障害者から始まったIL運動を経て、21世紀に入り、重度知的障害者の「自立生活」が求められるようになる。その「自立」の中身は変化し続けていると言えるのではないか?

そこで謳われている自立は、同じ言葉を使いながらも、中身は複雑に絡み合いながら、しかし異なるものとして存在している。「自立」という言葉を使う時、それはどのような意味で使われているのか、確認する作業が必要なのだろう。


 第三節 新たな社会福祉専門職への再調整

この節で最初に取り上げられるのが、「ノーマライゼーション」「リハビリテーション」概念の変遷。

ヴェルフェスベルガーという人は「北欧型ノーマライゼーション」について、「質の高い施設福祉」の延長にあると指摘。ミケルセンもニーリエも施設サービスの「正常化」(ノーマライゼーション)を目指したものであった(秋山1981、中園1982)123頁


終章 専門家の所在

この章の冒頭で
「専門家は一方の手に反省的学問理論、もう一方の ・・・に基づく権限を持って 実践に臨んでいる」という2005年の自著の文章を引用。これに続けて、以下

 一方の手中にあるのは反省的学問理論である。これを手にする専門家は、社会の周辺部にいる利用者とともに 問題解決に取り組む 協働者としての位置にある。知識や権力を持っていたこと、「非対称性」がケア の場面で存在していたことを反省し、専門家は主人公たる当事者たちの活動をかけて支える役割を担う。173

それだけで言えば、専門家である必要はなさそう。

もう片方の手にある「権限」。SWにそんな権限があるだろうか? 確かに、本人が「正常に」判断できない、できていないと見なしたとき、反社会的と見なされる行為があれば、止めるかもしれない。そのような例を除いて、通常はSWは止めたほうがいいという自分の判断を伝えることはできても「権限」がないのではないか? 他者への加害があれば、止めるのは当たり前で、それはSWに限らず、そうすえるのではないか?


~~「権限」について半月後の追記~~

 上記の部分を読み返して、なんでこんなことを書いたのだろうと思い返しているのだが、思い出せない。

 ソーシャルワーカー(SW)が持つ権力性のようなことを考えると、やはりなんらかの「権限」を持っていると言うしかないだろう。【知識や権力を持っていたこと、「非対称性」がケア の場面で存在していたこと】というように過去形で語ったり、なかったことにすると嘘になる。それは明白にある。SWには、自身が「嫌でも」それを持たされてしまっているという自覚が必要なのだ。

 そのような意味で考え直すと、一方の手に、そのような権力性を有してしまっていることに対する「反省的学問理論」と同様の認識があり、「権限」「権力」「パワー」を持たされていることを反省的に自覚しつつも、しかし同時に場面場面ではそのパワーを行使しながら動いている自ら、というように両方を身につけていることに自覚的である必要があると言えるのかもしれない。その実践こそが「反省的学問理論」と「SWの権限(あるいは権力性)」の二項対立を超える実践と呼べるのかもしれない。

 しかし、同時にその実践を行うのは専門家でなければならないのか、と言えば、そうでもなくて、それは市井で暮らす人が誰かを助けたいと思ったときに、日常的に身につけている所作の延長上にある行為ともいえるのではないか。「偉そうにしない」「上からにならない」ように気を付けながら「困っているときはお互い様なのだから」と、意識はしていなくても対等性を担保しながら、しかし、結果として困っている人に寄り添い助ける、そんな行為を難しく書いただけではないか、という気さえしてくる。

~~追記、ここまで~~

で、この終章の結語部分まで読んだのだが、ぼくにはとてもわかりにくく、メモするところはなかった。フーコーやネグリが援用されていた。

この本、「あとがき」ない。


~~メモ、ここまで~~


◆立岩 真也 2009/03/01 「「体制」という捉え方――身体の現代・7」,『みすず』51-2(2009-3 no.569):- 資料,

 「☆09 自らの仕事の否定・批判のあり方は職種によってもかなり異なるだろう。例えば看護といった仕事であれば、肯定される部分は確実にある。そのことの確信がある。他方、社会福祉、それも直接的な対人援助の仕事でなく、ソーシャルワークの仕事そして学問であれば、そもそもそも自己を全面的に肯定することはないような仕組みになっているところがある。批判は、無視したい異物であるのだが、しかし無視できないものであることがある。三島[2007]がその世界に生じたことを記述している。

 例えばフーコーの論を、自らの仕事を批判しているものであると捉えた上で、しかしそれを自らに取り入れようとするといったことが起こったのだが、三島はその過程を追っている。またその前、本の冒頭に近い部分では、マルクス主義による批判も取り上げられている。それは社会福祉、ソーシャワークを批判するが、しかし「科学(性)」そのものは批判されなかった、しかし、フーコー的なものが入ってきた時、科学性そのものも懐疑・批判の対象になる。三島の書はそのような筋になっている。それはそれで当たっているとして、さらに考えるべきこと、点検すべきことがあると考える。それにしても、もう幾度か述べてきたことだが、なされるべきでなされなかった作業がこの書でようやく始められていることは評価される。」

http://www.arsvi.com/b2000/0711ma.htm から

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