おおたジャーナル2023年5月号に書いたコラム。2023年2月に死んでしまった茂野俊哉さんのこと。
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からPDFをダウンロードして、「おおたジャーナル」のこの号、全体を読むことも出来ますが、自分で忘れないように、ここにも残しておきます。
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コラム・茂野のこと
茂野(いつもそう呼んでいたので、その呼び方で書くけど、こういうマッチョな感じを茂野から『偉そう』って批判されてもいたなぁ)のことで、前号のときにおおたジャーナルから原稿依頼があったのだけど、たかだあやさんにパスしてしまいました。そのとき、たかださんからぼくも何か書いてというリクエストがあり、書こうと思ったのですが、頭のなかがぐるぐるしてきました。いろんなことがありすぎて、何から書いていいのかわからないのです。
とりあえず、茂野と関わるきっかけの話を書きます。茂野とはパレスチナ連帯運動の場所で多少同席していたものの、あまり関わりはなかったのです。そこでいっしょに活動していたM氏から、「茂野がよ、寝ちゃう病気になっちゃって、仕事を首になって困ってるんだけど、井之頭公園の近くとか、朝から仕事しないのが普通みたいな場所じゃなくて、町工場があって、みんな朝には動き出すような場所で生活するのがいいと思うし、おまえのところは『福祉工場』って名前なんだから、そういう病気のやつの面倒を見る場所じゃねえか」みたいなことを言われたのでした(30年以上前のおぼろげな記憶)。そして、彼は福祉工場で働くことになりました。1991年のことです。ぼくが当時住んでた文化住宅みたいな場所(1階と2階に一部屋ずつ)の1階の部屋で暮らすことになりました。茂野にはぼくに対する恩があるんだと飲み会の席とかで笑って話すと(当時、その1階はゴミ置き場のように使っていたので)そこを掃除するのがたいへんだったのだ、苦労させられたのだと、茂野はあとあとまで強調してました。
ぼくはナルコレプシー(寝ちゃう病気)のこと、な~んにも知らなかったのですが、目の前の茂野をみて、そういう病気ってあるってことを知ったのでした。ほんとうに寝ちゃって、起きるのがたいへんだったのです。その茂野をOCNetや当時のPKO反対などの大田区内のいろんな社会運動や福祉工場の労働組合の運動に巻き込みました。ちなみに、ぼくの部屋に茂野がいたのは、おそらく数か月で、せっかくきれいにしたのに、追い出されたこと、とても悔しがってました。で、治療のせいか、環境の変化のせいかわからないけれども、数年でナルコレプシーの症状はいつのまにか消えたようでした。
そんなこんなで大田区や福祉工場にも茂野が慣れた頃、茂野に組合の委員長も押し付けて、ぼくは1995年から1997年にかけて、アジアを旅することにしたのでした。その時期、福祉工場がたいへんだったということで、それもけっこう恨まれました。97年にぼくが再び、福祉工場に戻ったあとも、労働組合のことはほぼ彼にまかせて、2011年に茂野が福祉工場を退社して風雷社中で働き始めるまでがんばってもらったのでした。そのあいだのこともその後もいろいろあったと思うんだけど、こんな話で文字数が尽きてしまいました。 いろいろありがとね、>茂野。
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