障害学に関して思うこと2題

何度も書いてきた記憶がある話だし、書いてる内容はあまりにも中途半端かもしれないが、とりあえず書いたのでアップロードしておく。


障害学に関して思うこと2題


1,議論の不在、あるいは不在に見える現状

星加さんはあまりにも議論がないと何年も前に『障害学のリハビリテーション』で書いていたが、それが変わっていないのではないか? そんな風に提起しても、誰からも反応がないとそれ以上言い続けるのは難しいかもしれないが・・・。
そして、その後『障害学は終わった』とまで公言されているのに、それへの反論、どこかに出てるのだろうか? 

「障害学は、何のために、どのようなものとして存在する(べき)か――その基本的な問いへの応答はあまりにも深められていない」という『障害学のリハビリテーション』で提出された問いがその後、深まったと思えないのはぼくだけだろうか? そして、「微温的な仲間内の集まりで、行儀よく住み分けをして、相互不干渉を決め込んでいるようですらある」(6p)書かれた状況に変化は起きていないようにぼくには見える。


参照:
『障害学のリハビリテーション』メモ その1(書きかけ)
https://tu-ta.seesaa.net/article/201401article_2.html

『障害学はもう終わっている』のか? (『障害社会学という視座』 7章「障害社会学と障害学」メモ)
https://tu-ta.seesaa.net/article/202007article_1.html



2,障害を切り口にする学問でもあったはずの障害学が、ほとんど障害に関する学問に成り下がっている(?)ように見えるということ


1も2も、ぼくがアカデミックシーンに疎いから見落としてるだけならいいのだが、障害学自体を問うような議論や障害を切り口にして現代社会に切り込んでいるような研究は、市井より、すこしだけアカデミックシーンに近いところにいるはずのぼくの眼には、入ってこない。生命倫理の場面では障害を切り口にして障害学と隣接する分析はあるような気がするが、そうした著者は障害学を横目で見ながらも、障害学自体にあまりコミットしていない印象がある。渡邊琢さんの著作とか、オープンダイアローグに関するいくつかの著作とか、中動態に関する論及とか・・・。


ぼくは、この破綻しそうでなかなか破綻しない資本主義というか、開発主義や新自由主義が行きつくところまで来てるように見える現代社会を変革するための切り口として「障害を考える」ということが使えるのではないかと思ってきて、こんな文章を書いてきた。

オルタナティブな社会をめざすことと障害者の問題の連関について
https://tu-ta.seesaa.net/article/201007article_8.html
(最終バージョンは『根本(もと)から変えよう!  ――もうひとつの日本社会への12の提言』に収録。


「生きていることの肯定――障害学・環境・サブシステンス」,『軍縮地球市民』6
https://tu-ta.seesaa.net/article/200811article_16.html


他にも障害を切り口に研究しようとすれば、そこからジャック・デリダ、 ジル・ドゥルーズ、 ミシェル・フーコーに代表されるような『現代思想』を問い返すとかも出来そうだし、すでにしている人は少なくないと思うのだけど、なかなか見つからない・・・・と、ここまで書いたところで、検索したら、すぐに出てきた(苦笑)。

2000 年代以後の障害学における理論的展開/転回
―「言葉」と「物」、あるいは「理論」と「実践」の狭間で―
辰己 一輝*
http://kyosei.hus.osaka-u.ac.jp/wp-content/uploads/2021/03/b6165b7815a6035f0dea771c14016e24.pdf
共生学ジャーナル 第5号(2021)
http://kyosei.hus.osaka-u.ac.jp/journal/journal_vol5/ 収録
こんなのがあったのかと思った。

このような議論がもう少し可視化されるような場がどこかにあってもいいような気がするのだが、そのような場を立岩さんが始めた『遡航』に求めたいような気もする。
参照:緒言 立岩 真也 2022年3月 『遡航』001号 p.2
http://aru.official.jp/m/001html/001tateiwa.html





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