相談支援における”支援者会議”とオープンダイアローグ
相談支援の連絡会の会議で
「支援者会議の進め方のポイント」という話を聞いて、そこでインスパイアされたことに関する短いメモを残すつもりがけっこう長くなった。
「支援者会議の進め方のポイント」という話を聞いて、そこでインスパイアされたことに関する短いメモを残すつもりがけっこう長くなった。
忘れないようにここに残す。
聞いた話からインスパイアされただけで、その中身とはほぼ無関係という以上に、ほとんど逆の話。
効率的にみんなが納得できるように話を進めるポイントというような話で、それはそれで役に立つ大切な話もあったと思うのだが、・・・。
話については、外に出さないでほしいと、報告者が言ってた。
何を感じたかと言えば、
表題の「相談支援における支援者会議とオープンダイアローグ」という話。
効率的にみんなが納得できるように話を進めるポイントというような話で、それはそれで役に立つ大切な話もあったと思うのだが、・・・。
話については、外に出さないでほしいと、報告者が言ってた。
何を感じたかと言えば、
表題の「相談支援における支援者会議とオープンダイアローグ」という話。
その会議の進め方の話を聞いていて、これは間違いなく、オープンダイアローグ(OD)の思想とは相反すると思ったのだった。「支援者会議の進め方のポイント」という話では効率的に合意形成をするさまざまな工夫などの話がなされていた。
支援者会議では、とりあえずでもなんでも、支援の方向性を決めて、その結果、計画を定めて、サービス利用につなげることが必要となる。他方で、ODは「不確実性に耐える」ことが求められる。そのガイドラインには以下の記載がある。
6,不確実性に耐える (Tolerance of uncertainty )
→答えのない不確かな状況に耐える
考え方
・結論を急がない。
・すぐに解決したくなる気持ちを手放す。
・葛藤や相違があったとしても、その場にいる人々の多様な声を共存させ続ける。
・対話を続ける中でこそ、そのクライアントと家族ならではの独自の道筋が見えてくる。
斉藤環さんは『まんが やってみたくなるOD』で、このガイドラインからさらに進めて、こんな風に書いている。
第2の柱 計画は立てない
これも非常にラディカルな逆説で、とてもオープンダイアローグらしい原理です。オープンダイアローグの解説では「答えがない、不確かな状況に耐える」とよく言われますけれども、そんな行儀のよいものじゃない。本当はもっと過激な原理です。
不確実性に耐えるとは具体的にどういうことか。「ノープランで臨め」ということです。いっさいプランを立ててはいけない。予測もしてはいけない。だからPDCAサイクル(Plan-Do-Check-Act-cycle)みたいな発想はまったくない。ノープランで、ノー予測で、目の前の対話の過程にひたすら没頭する。これが基本姿勢になります。
少なくともノープランという考え方は、あらゆる治療的立場に対立しますので、受け入れがたいと感じる人もいるかもしれません。だけど実際にそれでやるほうがうまくいくわけです。そもそも治療経過なんて、予測できないのが当たり前ですよね。「この人は再発もしないで1年経ったから、そろそろデイケア参加してもらって、順調だったら減薬しながら社会参加の方向を模索して……」みたいな直線的で連続的な予測がせいせいでしょう。67p
そう、「サービス等利用計画」と結びついたりする支援者会議とは、こんな風に相反する。
ただ、この斎藤環さんの言いきりとODのガイドラインには微妙な違いもある。ガイドラインではリフレクティングの説明の中で、以下のように「治療計画」について言及している。
リフレクティングとは、スタッフ同士が参加者の目の前で、話を聞いている際に心に浮かんだ考え、印象、感情、関連性について語ったり、今後の治療計画について相談したりすることです。通常はスタッフルームの中で語ることを参加者の前で語るということは、前出の対話実践の基本要素 1「本人のことは本人のいないところでは決めない(Being transparent)」の一環でもあります。
このようにODのなかで、「計画」について言及される場面は想定されている。計画についてODの場で専門家同士で話すけれども、そこでは「いっさいのプランを立てない」ということと無縁でいられるかどうかは微妙な話だ。ちなみに斎藤環さんは、このガイドラインを定めたODNJの共同代表でもある。
話を戻そう。そもそも「支援者会議」(パワポの資料には「サービス担当者会議」とも書かれている)っていう名称で開かれる会議、説明ではあくまで本人が中心とか書かれているが、この名称が本人をどこかに置き去っているような気がする。名称も「本人中心会議」とかにしたら、間違いが生まれにくいのではないかと思う。この名称に見られる当事者不在感もODとの違いを際立たせる。そして、名称問題だけでなく、実際開催されている会議で本人が置き去られている例は多く、だからこそ、本人中心という話が研修などで繰り返されるのだと思う。
「支援者会議(サービス担当者会議)」という名称だと、どうしても、中心は支援者になる。
とはいうものの、この会議で、本人の意向を聞き取って、支援に関わる複数の人の意見をあわせて、何らかの計画を決めていかなければならない。決めなければ、いまの仕組みでは障害福祉サービスは使えないし、生活が破綻することもある。誰か一人が決める仕組みではないところは大切。
「支援者会議(サービス担当者会議)」という名称だと、どうしても、中心は支援者になる。
とはいうものの、この会議で、本人の意向を聞き取って、支援に関わる複数の人の意見をあわせて、何らかの計画を決めていかなければならない。決めなければ、いまの仕組みでは障害福祉サービスは使えないし、生活が破綻することもある。誰か一人が決める仕組みではないところは大切。
そういう意味で、ODの思想の使えるところを、つまみ食いしてもいいんじゃないかと思ったりする。
ODのどこを取り入れるかといえば、
・まず第一に、本人中心で、「本人のいないところでは何も決めない」ということ。森川すいめいさんは、発祥の地ケプロダス病院ではでは「決めない」だけでなく、「その人のいないところでその人の話をしない」という。
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2021/od_01
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2021/od_01
例えば、本人に関する引継ぎさえも本人の前で行うという。さすがに、ここまで徹底する困難はあると思うが出来る限りそうするという意思は必要ではないかと思う。「本人抜きの場で話しましょう」というのをやめなければならない。
そして、対話を継続するという姿勢。対話の継続の中で本人自身が自らの気持ちに気づくプロセスを形成するようにすること。そして、その気持ちは動くのだから、動く気持ちに応じて、対応できるようにすること。診断名や病気や障害に応じて書かれたり言われたりしていることを表出するのではなく、なるべく今の自分の気持ちを表出する。そして、支援者間での話の時間を作り、その時間は、本人に聞いてもらうだけにすること。話し終えてから本人に反応してもらう時間をつくること。
一度決めたからと、そこに留まるのではなく、本人の気持ちに応じて、いつでも支援方法や手段を変えられるように準備すること。
ただ、支援者会議のような場所のとの違いは、ODのように繰り返し何度も出来るわけではないということ。そして、とりあえずのものでも何らかの計画を決めなければならないこと。
そういう意味で、浦河べてるで言われている「三度の飯よりミーティング」というようなミーティングを多用するスタイルは意味があるのかもしれない。もしかしたら、それはこれまで行われているように大人数で行うのではなく、小さなグループを作って行うというスタイルもありだろう。
そんな風にODの要素を支援の中で生かす小さなことは、ほかにもいくつかありそうな気がする。
さまざまな支援のことを決めるために開かれた場所で、あくまで本人の気持ちを中心にしたODを取り入れると、支援の方向や方法について、短い時間でさくっと決めるのは難しくなるだろう。ある意味、表面的な効率は下がるということも覚悟する必要もありそう。それでも、それは大切で必要なプロセスなのではないかとも思う。
そして、参加するメンバーが対等であるような場の作りも意識しなければならない。世間では力を持つとされている立場にいる人こそ、そこに対等な場を作ることに意識的である必要がある。そんなときに、ディスエンパワメントとも言えるような、自分がまとった鎧や衣を意識的に脱ぐようなことを心がけることも求められるかも。
そんな場所での言葉の選び方も大切だと思う。当事者がすべてを理解するのは難しそうでも、できるだけ本人に理解できる言葉を選んで、理解がゆっくりな人の前では、ゆっくり話すことも必要だろう。
本人が言葉で表出することが難しい場合、その表情やしぐさと対話していくような姿勢が求められる。言葉が出ない人の気持ちは想像するしかないのだが、その人の言語以外の反応をみながら、複数の人が感じたことを、その人の前で話し合うことも出来るはず。その人は言葉を話せないからと、本人はただいるだけで、支援者同士でさくさく話を進めるのではなく、ていねいにゆっくり、出来るだけわかりやすい言葉を選んで話すことも求められるだろう。また「その表情やしぐさとの対話」は言葉を表出できる人との間でも求められるということもありそう。
支援者は何かと「正しい」と自らが考える方向へ誘導しがち。その正しいと思える方向を本人が納得しない場合、押し付け的になることはよくある話だ。そんなとき、出来る限り「待つこと」が求められる。本人が納得して、受け入れられるまでの時間をとる努力も。緊急で待てない場合はあるかもしれないが、そんなときは、支援の側が全体で、「緊急で待てなくて、本来待つべきところを待てなかったという自覚」をできるようにし、そのことを本人に伝えること、そして、支援者間でそんな意思の共有も必要かもしれない。
当事者だけでなく、その場にいるすべての人が感じていることを表出でき、その感情を否定されないようにする必要もある。間違った差別的な感情の表出もあるかもしれない。しかし、それをすぐに否定するのではなく、どうして、そんな風に感じたか、否定しないで聞いていくような対話のプロセスも求められる。たぶん、それは容易ではない。そんな差別的な感情の表出があるとき、反射的に否定してしまいがちだということは自分の言動から、すぐに想像できる。そんなときの対話は、自分はそうは思わないけれども、と言ってから、本人のいまの思いを否定せずに、なぜ、そんな感情がわいたのか、それを丁寧に聞くための、別の場所を設定するのもありかも。
これらすべては「効率的」ではない。対話の場をめざすのであれば、効率以上に「ゆっくり」が大切なのではないか。モノやお金のためのサービスを生産する場では、常に効率が求められるのだが、支援のために相談し、方向を定める場では、効率以上に出来得る限り「ゆっくり決める」ことが求められるのではないか。
何か事件のようなことが起きた場合でも、過ちを犯してしまったと思われる当事者の排除を急いで決めるのではなく、排除の前に本人の気持ちをちゃんと聞くというプロセスが求められている。
支援の側もそうでない側も自分たちが行った判断を正しいとして、対話を閉じるのではなく、対話の求めに応じる柔軟な姿勢が求められる。
効果的な支援者会議の進め方のポイントの話を聞いていて、そんな、ほとんど逆のことを考えたりしていた。
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