「当事者主体」でいいのかと問うこと (ほんの紹介64回目)

たこの木通信、2023年6月号に掲載してもらった原稿。ちょっと改変



「当事者主体」でいいのかと問うこと

(ほんの紹介64回目)


 今回、紹介したいのは『日々の暮らしの手帖』第1号「ヒビノクラシの自立生活支援 制度で支え 制度の外で遊ぶ」。これについて、書こうと思っているうちに約半年。詳細は次のページのこの本のあとがきを読んで欲しい。そこに著者のこだまさんがこの文章によせる思いが書いている。A5で16頁の薄い小冊子(最近はジンとか呼ぶらしい)。こだまさんは「当事者主体(の支援)」でいいのかと問う。そんな風に書いているこだまさんがヒビノクラシ舎で行っている自立生活支援の内容はといえば、こんな風。以下ホームページから

「今日の朝はパンじゃなくて、ご飯とみそ汁がいい」

「お部屋で過ごす予定だったけど、やっぱり今からお出かけしたい」

「今は気分じゃないから、お風呂は明日の朝にする」

こんなささやかであたりまえのことも、集団処遇を前提とする入所施設やグループホームの暮らしでは、叶わぬ夢となります。ですが、重度訪問介護の支援制度を利用すれば、たとえ重い知的障害があろうとも、地域でアパートを借りて、あたりまえに個々別々の暮らしを営むことができるのです。私たちは、ひとそれぞれに形がちがう、ささやかであたりまえの暮らしを自立生活と呼び、それを広め、支えていきます。

 そんな支援を行っているこだまさんが「当事者主体の支援」でいいのか、と問題を立てていることの意味をいっしょに考えたい。「当事者主体の支援でなければならない」というような意味の主張が始まって半世紀くらいだと思う。それまでの障害者福祉はほとんど専門家主導だった。そして、いまでも、残念ながら、圧倒的に多いのは支援者や専門家が主導の「障害福祉」。そんな中で、こだまさんは自立生活支援を名乗りつつも、この小冊子で【「当事者主体の支援」でいいのか】と問う。それはもちろん、支援者や専門家が主体の支援に戻れ、というか、いまでも普通にいろんな場所で行われている支援者や専門家が主体の関係がいいという話ではない。

 ここで、読むのを止めて、少し考えて欲しい。なぜ、こだまさんは「当事者主体の支援」でいいのか、と問うのだろうと。できれば、ゆっくり考えて欲しい。ゆっくり考えて、この続きは翌日以降に読んで欲しいくらい。と書いたものの、もし、ぼくがそんな風に言われたら、ここで読むのを止めた少し後には、そんな問いのことをすっかり忘れちゃいそうだけど(笑)。

 考えてもらったことにして続ける。こだまさんはこんなことを言っているのではないかということをぼくの言葉で書いてみる。ヘルパーの力を借りて生活する、その生活で「当事者が主体」と言ったときに、じゃあ客体はヘルパーなのか、と。いままで、そしていまでも多くの場合、支援者や専門家が主導権を握っているのに対して、当事者に主導権を取り戻すというところを超えて、どっちかが主体でどっちかが客体というような関係ではないものを目指しているのかと思う。「障害当事者とヘルパー、主客を逆転させても、基になる構造自体は何も変わらないから」と書かれている。

 自立生活がめざしているのは、基本的に障害当事者がこうありたいと願う暮らしを支えるヘルパーがいるという暮らし方。しかし、そこで障害当事者とヘルパーに分けて、主体=客体という風に考えるのではなく、その生活・暮らしそのものを主体にしていくということなのかと思ったりもする。あっ、ここでも「主体」って言葉を使ってしまったけど、それを捨てる必要があるのかもしれない。

 制度の内外の話とかも紹介したかったけど、紙幅が尽きた。ぼくは内と外の「あいだ」も考えてみたいと思ってるんだけど。

~~ぼくの原稿ココまで~~

以下、https://hibinokurashisya.com/%E6%97%A5%E3%80%85%E3%81%AE%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%B8%96/ から転載

記録のために以下も残しておきますが、リンク先に飛べる人はリンク先のほうが画像もあって読みやすいので、そちらを見てください。


2023年1月27日創刊

『日々の暮らしの手帖』

第1号「ヒビノクラシの自立生活支援 制度で支え 制度の外で遊ぶ」


本誌は、2022年12月8日に開催された、「知的障害のある人の自立生活について考える会」主催、第八回 ONLINEサロン「ヒビノクラシの自立生活支援 制度で支え 制度の外で遊ぶ」で話した内容を、大きく加筆修正したものです。


あとがき「見飽きた自分におさらばするのさ」より

正直に言えば、「当事者主体の支援」のオルタナティブを主張する自分自身に、危うさを感じてもいるのです。もちろん、自分に対し、できうる限りの批判的想像力を向けて、繰り返し考えました。ただの思いつきでこの文章を書いたわけではありません。けれどもやはり、これはマジョリティである私のバックラッシュなのかもしれないという疑念を、完全には払拭できないでいます。それでも尚、勇気を持って、これを発表したのは、とりわけ困難な支援現場に漂いがちな閉塞感の原因と、その打開に向けて、より多くの人と共に考えたかったからに他なりません。その意味で、本誌は「問題提起」でもあるわけです。恐らく、「今が最高」と思っている障害当事者もヘルパーも、多くはないはずです。当事者主体と言いながらも、実態としては事業所や家族が主体となり、いつの間にやら当事者が周縁に置かれてしまっているような支援現場。ヘルパーがあたかも苦行にでも勤しんでいるかのような、それにより身も心も病んでしまうような支援現場。皆さん同様、私もそんな支援の現場を幾つも見てきました。どうにかならないものか? この問題の難しさは、そのどれもこれもが、あからさまな悪意からもたらされたものではないということだと考えています。悪意どころか、障害当事者も家族も事業所もヘルパーも、皆それぞれの立場から真剣に向き合った結果、そうなってしまっているように思うのです。だとしたら、それって一体どういうことなのでしょうか? これまで何年も繰り返してきた苦い経験を、この先あと何年繰り返さなければならないのでしょうか? 問題は、「支援の在り方」以前の、より本質的なところにある気がしています。それは、「主体」「人間関係」「社会」等をめぐる、現在の支配的なパラダイムです。そこに目を向けることなく、古いパラダイㇺに従って、一生懸命支援をしても、同じことの繰り返しになるのではないでしょうか? 最後に、もう一度、エピグラフに用いたデヴィッド・グレーバーの言葉を。


だから、今使っているのとはちがった原理で作動する民主主義的な仕組みをつくろうと考えたわけです。


皆さまの忌憚のないご意見・ご感想をお聞かせいただければ幸いです。ご批判や新たな問題提起をいただけると嬉しいです。近くにお住まいの方は、是非一度、富士見台カフェにお越しください。カオスフーズのマサラカレーを食べながら、たくさんお話ししましょう!

  • 本誌をお読みになりたい方

ヒビノクラシのホームページの問い合わせ https://hibinokurashisya.com/contact/

から申し込み可能。無料。



この記事へのコメント