『「社会」を扱う新たなモード』ってなんだろう (ほんの紹介65回目)

たこの木通信2023年7月の「ほんの紹介」

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 今回紹介するのは「社会」を扱う新たなモード —「障害の社会モデル」の使い方20226月、飯野由里子・星加良司・西倉実季【著】、生活書院)。

 20世紀の日本ではまったくといっていいほど知られていなかった「障害の社会モデル」という言葉、現在では「障害者問題」に関心のある人なら、中身はよくわからなくてもその言葉だけは知ってるだろう。この本で著者たちは、その「障害の社会モデル」が矮小化され、その大切な分が抜け落ちている例が多いと主張し、その社会モデルの本来の力を取り戻そうと呼びかける。少なくともぼくにはそのように読めた。

 そして、ぼくにとっての本書の魅力は「障害の社会モデル」を素材にしているが、そこから障害に限らないマイノリティ=マジョリティ関係における「社会」の問題を見据えるという視点だ。ただ、その視点は視点の提示に留まっているようにも感じた。

 で、どのように矮小化されているかという話だ。著者たちは障害の社会モデルを説明する際の「社会」の3つの位相に着目する。

① 障害はどのように発生しているか
 (発生メカニズムにおける社会性)

② それを解消するために何ができるか
 (解消手段の社会性)

③ 解消の責任を負う主体は誰か
 (解消責任の社会帰属)

 このように分けて考えたときに、現状の「障害の社会モデル」の理解の中で、②と③のみが注目され、①がほぼ無視されているという。これが著者たちのいう障害の社会モデル理解の矮小化の核心となる。

 こんな風に書かれても、何のことだかわからないという人も多いと思う。少なくとも、ぼくはそうだった。ちゃんと理解したい人は、この本を読んでもらえばいい。そこがわかるような説明が、この本の大半のページに書かれている。

 社会モデルの説明でときどき使われる駅のエレベータの話で考えてみた。この駅とエレベータの例で障害の社会モデルを説明するのが、この本でも安直な例として批判の対象になったりするのだが、長くなるので飛ばす。

 この話が社会モデルの話として使われるし、ぼくも使ってきた。こんな風に

駅のホームに階段しかなく、車いす利用者が駅を使えないという状況がある。(障害者個人の状況に着目し)医療やリハビリで、彼が車いすを使わなくても階段を登れるようにするのを「医療・個人モデル」と呼ぶ。それに対し、エレベータなどの設備がないこと、そして、その設置を義務づける制度がないこと、つまり社会が障害を生み出していると考えることを「社会モデル」と呼ぶ。また、駅を使ったことがない障害者の存在、つまり、そこに存在するはずの人の不在も障害学の課題となる。あるいはそれらを取り巻く問題を障害者の文化という観点から見ていくことも障害学である。さらに公共交通機関が「公共」という名前を持ちながら、その公共に障害者を含んでこなかったということをも障害学は照射する。「生きていることの肯定」『軍縮地球市民No.62006年秋号収録)。

 ぼくがこの文章で紹介した、駅のエレベータの例は、②の解消手段の社会性、つまりエレベータを準備すれば障害が解消され、③そのエレベータを準備するのは社会の責任という話だ。最後の文章で【公共交通機関が「公共」という名前を持ちながら、その公共に障害者を含んでこなかったということ】を指摘してはいるが、①それまでエレベータを作ろうとしなかった社会の問題を問うことに充分に成功しているとは思えない。なぜ、一定の時期まで、エレベータは作られなかったのか、鉄道会社は作ろうとしなかったのか? 技術的な問題はあったのかもしれないが、そこには、エレベータを作らなくてもいいという社会の了解があった。世の中の『障害の社会モデル』理解において、見落とされがちで、これが、ぼくも明示的には意識していなかったのかもしれない矮小化された視点だ。ここまでで紙幅が尽きた。まだ、序章までの話。続けたいけど、どうかなぁ。

~~原稿、ここまで~~
続けたいと書いたのですが、8月は続いてません。
9月も書けるかどうか微妙。

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