2000 年代以後の障害学における理論的展開/転回 ―メモ
今日っていうか、昨日の障害学会のシンポジウム、久しぶりに参加して、記憶の限りでは、いちばん刺激的で面白いシンポジウムだった。
~~
2.シンポジウム
開催日時:2023年9月17日(日曜)14時15分から17時15分
会場:メイン会場(ENEOSホール)
テーマ:障害学の回顧と展望 社会モデルの現在
シンポジスト川島聡(放送大学教授)
「社会モデルと人権モデル―権利条約時代の障害学・再論」飯野由里子(東京大学大学院教育学研究科特任准教授)
「インターセクショナリティを意識した障害学研究のために」資料辰巳一輝(大阪大学大学院博士課程院生)
「批判的障害学と「社会モデル」」資料コーディネーター
星加良司(東京大学大学院教育学研究科教授)
趣旨2003年に障害学会の設立総会が開かれてから、20年が経つ。この間、日本の障害学は、従来の障害研究のパラダイムを超える新たな実践的・理論的な知を生み出してきた。その中核となってきた理論的・認識論的なフレームワークが「障害の社会モデル(social model of disability)」であったことについて、概ね異論はないだろう。そして、今なお「社会モデル」の政策論的・運動論的・学術的な意義は失効していないように見える。
ただし、この「社会モデル」はM.オリバーが1983年にその概念を提起してから40年が経過した現在、学術的な観点からはその限界や難点が厳しく論難され、実践的な観点からは新たな「モデル」の提示が要請されてもいる。率直に言えば、世界的には「過去の遺物」と捉えられるものになりつつあるといっても過言ではない。私たちはこの「日本」と「世界」のギャップをどのように理解すべきだろうか?
その答えに迫る鍵は、「社会モデル」が提起されてから20年後に障害学会が設立されたという、日本の「後続性」にあるのかもしれない。この「20年のずれ」が何をもたらしたかについては、少なくとも2つの方向性の解釈がありうる。ひとつは、単純な「遅れ」が生じている可能性である。日本における「社会モデル」の理解は、英語圏のそれに追いついておらず、それゆえにいまだ「時代遅れ」の考え方に固執してしまっているということだ。もうひとつは、「社会モデル」自体に「進化」が生じている可能性である。英語圏から遅れる形で「社会モデル」を輸入した日本においては、既にその段階でなされていた様々な「社会モデル」批判を視野におさめた「社会モデル」受容が進んだとも考えられる。だとすれば、英語圏で捨て去られようとしている古典的バージョンの「社会モデル」と、日本で命脈を保っているように見える「社会モデル」とは似て非なるものである可能性は否定できない。
この後者の可能性を踏まえれば、日本の歴史的・社会的・学術的文脈に照らして「今、ここ」の社会モデルの意義と課題を検討し、今後の障害学の発展に対する有用性を見定めることには、英語圏の議論の焼き直しとは異なる固有の意味があるはずだ。本シンポジウムでは、以上の問題意識を踏まえ、法学、哲学、クィアスタディーズの立場から障害問題に関する理論的探究を続けている3人の専門家をお迎えし、「社会モデル」に対する評価を軸に、今後の障害学の発展に寄与する理論的・実践的基盤について議論を深めたい。(太字は引用者による)
このシンポジウムの紹介で興味深いのは、【(障害の社会モデルが)世界的には「過去の遺物」と捉えられるものになりつつあるといっても過言ではない】と日本障害学会が言ってしまっているということ。実際のシンポジウムでも緊張した議論が展開された。
ぼくはコーディネータの星加さんが「障害学は、何のために、どのようなものとして存在する(べき)か――その基本的な問いへの応答はあまりにも深められていない」 そして、学会が「微温的な仲間内の集まりで、行儀よく住み分けをして、相互不干渉を決め込んでいるようですらある」という『障害学のリハビリテーション』で投げかけた問いについて、質問したところ、「これを出発点」にという教科書的な返答(私の主観)があった。ほんとうにそうなれば面白いと思う。
で、興味深かったパネリストの辰巳さんの論文を検索して探したところ、以下が出てきた。
2000 年代以後の障害学における理論的展開/転回
―「言葉」と「物」、あるいは「理論」と「実践」の狭間で―
辰己 一輝
http://kyosei.hus.osaka-u.ac.jp/wp-content/uploads/2021/03/b6165b7815a6035f0dea771c14016e24.pdf
障害学から批判的障害学への転換という話は興味深い。しかし、それ以上に興味深いのが、結語の【現代の障害学が取り組み続けてきた問題を「言説と身体」・「理論と実践」という二分法をいかに乗り越えるか、という観点から総括した】という部分。最初から読み始めようとしたが、2~4節は難しいので【二分法をいかに乗り越えるか、という観点から総括】という部分から読んでみた。ここだけ読んでも十分に面白い。それから、2~4節に戻って読んでみたが、やっぱり難しいので読み飛ばした(笑)。最後に少しだけ感想を書く。
論文要旨
本論文は、今まで国内で周知されてこなかった2000年代以降の障害学の理論的動向の紹介を試みた。そのために本論文は、第二節で「批判的障害学(CDS)」と呼ばれる、障害学内で新たに生じた学際的研究の諸特徴を整理することから出発した。続く二つの節で、本論文はCDS以後の障害学の展開の一端を跡付けた。第三節では、クィア理論と障害学とが交差することで生じた「クリップ・セオリー」と呼ばれる一連の研究について概説した。第四節では、社会だけではなく身体の変化可能性を直接記述しようと試みる、障害に対する唯物論的アプローチについて概説した。最後に、現代の障害学が取り組み続けてきた問題を「言説と身体」・「理論と実践」という二分法をいかに乗り越えるか、という観点から総括した。
冒頭の文章は以下
1. はじめに:国内における障害学受容の現在
昨今、海外の「障害学 Disability Studies」と呼ばれる研究領域において、一般に「ポスト構造主義」や「ポストモダン」と大まかに名指される思想を積極的に取り入れながら、従来の障害学を批判的に刷新することを試みる一連の動きが、英米圏を中心に現れてきている。その問題意識を一言で表 ならば、いわゆる「近代」を支える諸前提(「人権」概念、諸個人の自律性 autonomy、資本主義的「労働」を至上とした価値基準)に則った仕方で障害者の権利を要求するのに留まらず、その際に立脚されている諸前提そのも のに疑いをかけ、「近代」的ではない別の政治の可能性を探究すること、とひとまずはまとめることができる。その潮流は、未だ日本国内においてほとんど紹介がなされていない。本稿では、その潮流の内実をできる限り克明に描き出すことを目指す。(以下、太字はすべて引用者による)
このように書き始めて、「しかし、本論に入る前に、そもそもなぜ国内におい て今まで紹介がなされてこなかったのか」という問いを立て、以下のように考察する。
その理由について筆者の見解を述べるならば、(・・中略・・)複数の要因が考えられるが、一つ根本的な要因を挙げるとすると、障害研究を発展させていくためには古典的な障害学における道具立てで十分事足りており、(少なくとも現状は)それ以上「理論」から何かを得る必要はない、むしろ現場における「実践」の方を重視すべきである、という認識があると思われる。
(長い省略)
日本の障害学も、おおよそこの「社会モデル」を中心として展開されてきたと言って差し支えない。言い換えるならば、障害学の思考は「社会モデル」という古典的枠組みをいかに洗練させていくのかに注力されており、それ 以後に海外で登場した諸理論を輸入しなくとも、国内の障害研究としては 独自の発展を続けてきたといえる。 ・・
しかし、「国内の障害学者たちがポスト構造主義やポストモダンの思想 を単純に無視しているわけではない」として、以下のように立岩の論考を紹介する。
『不如意の身体』(2018)第四章の一部で、近代とポストモダンとの関係について以下のよう な整理を行っている。
~
第一に、ポストモダンが語られた前世紀から今の世紀にかけて基本的な変化は 起こっていないと私は考えている。つまり、近代を自己所有権(self-ownership)の時代・能力主義の時代(the age of “ableism”=A)とするなら、その時代は続いている。だが、同時に、常に、別の原理・現実 B は併存している。A の時代の 後に B が来る、来てほしい、来るかもしれない、と考える必要はない。常に二つ(以上)の間の抗争がある、それに社会運動も、またときに学問も関わっているのだと考えることである。B は社会に現に存在する契機むしろ社会の基底であり、また A を批判し続ける位置でもある。それをポストモダンと呼びたければ、そう呼んでもかまわない。そして B は、ポストモダンの思想と一定の親和性を有するものではある。私も以前いくらかは読んだ。ただ、その思想・言説がなければ成立しないものでもなかったことも言えるとも思う。私はむしろ障害を巡る社会運動とその言葉から、B を受け取ったと思う。(そして「post」と呼ぶ必要もないだろうから、私はその言葉を使ってこなかった。)(立岩 2018:100)
そして、著者は以下のように仮説を立てる。
本稿では、立岩のこのような整理を踏まえて、障害学の展開を考えるための一つの対立項を仮説として提示してみたいと思う。それは、様々なテクストや言説の吟味に基づく普遍的な「理論」を志向するのか、当事者たちが生きる「現場」に根差す仕方で言葉を紡ぎだす「実践」を志向するのか、という、理論/実践の二項対立である。この対立は、障害というテーマに限らず何事かを研究する上ですべての人が直面しうる学問研究上のジレンマであると思われるが、このような対立図式を念頭に置くことで、障害学の展開をある程度一貫した仕方で描くことが可能になるのではないか、と筆者は考えている。この二項対立を起点に本稿の立場を述べるならば、本稿はまさしく、ポストモダン的な思想・言説、すなわち「理論」の側から立岩の言う「現実 B」を思考することを目指す論者たちが海外に多数存在することを示そうとしている。そもそも「運動」や「実践」から言葉を抽出することと「理論」の側からそうすることとは、必ずしも排他的な関係に存するわけではないはずである。本稿の目的は、上述した理論/実践という対立項を手掛かりとしながら、そのような思想の潮流が確かに存在する点を明らかにすることである
そして、2節に移っていく。2節の冒頭は以下
2. 批判的障害学(CDS)の登場
本節では、2000 年代以降の障害学において出現した批判的障害学 Critical Disability Studies(以下 CDS と表記)あるいは批判的な障害理論 Critical Disability Theory と呼ばれる新たな潮流について概説する(4)。この潮流に属するとされる研究は多岐にわたっており、それらに対して一元的な説明を与えることは困難だが、ここではその大まかな傾向性と言えるものを、以下の六つの論点に要約して説明する。
ここから4節までは、いろいろ面倒なので飛ばす。興味がある人は読んでもらえばいい。
ちなみに、3節の冒頭と4節の冒頭は以下
3. クリップ・セオリー:障害学とクィア理論の領域横断的遭遇本節では、2000年代の障害学の歩みにおいて決定的な影響をもたらしたといえる、「クリップ・セオリーCrip Theory」と呼ばれる立場について概観する(11)。CDS を構成する立場はこの理論一枚岩では決してないし、紙幅の都合上、CDS から派生したすべての分野に触れることは叶わないが、この理論には、前節で提示した 6 つの特徴のいずれもが顕著に現れていることから、本理論を紹介することは、CDS の動向を跡付ける上での一つの足掛かりになると思われる。
4.障害学における「存在論的転回」:ポスト構造主義からポス トヒューマンへ
本節では、CDS の流れを汲みつつとりわけ 2010 年代以後に台頭してきた、障害学の新たな展開/転回について概観する。ここでは、その「転回」についてまとまった記述を行っている Michael Feely の研究を導きの糸としながら論を進めていく。
で、最初に書いたようにこれらを飛ばして、
おわりに:「言葉」と「物」、「理論」と「実践」との間で揺れる障害学
障害学はその誕生から今日に至るまで、「言葉」と「物」、「言説」と「身体」・「物質」といった二項対立の間で絶えず揺れ動き続けてきたように思われる。個人的・医学的「身体」の問題としてしか扱われてこなかった障害を社会的・文化的「言説」として扱う視点を切り開いた「社会モデル」と、それに対して「インペアメント」の身体的経験を軽視すべきでないと問題提起したジェニー・モリスらの動き、ポスト構造主義を経由して障害への「言説」からのアプローチを洗練させたCDSに対して、当事者の生活世界を見落としてしまうのではないかと疑問を呈する批判者たち、そして、先達の議論の批判意識を受け継ぎながら改めて「物」としての身体へのアクセスを試みる現代の障害学者たち。障害学の展開は、「言葉」と「物」の間を往還するエネルギーによって駆動されてきたといっても過言ではないと思われる。そしてそのことは、障害学の展開/転回を「言葉」から「物」へという一方向の動きとして理解することの困難さを示してもいる。クリップ・セオリーが単純な社会構築主義ではなく、そこにテクノロジーや自然環境といった「物」への着目を包含していたこと、あるいは、「存在論的転回」以後の論者たちが決して「言説」への注意を手放さなかったことからもわかるように、障害学は「言葉」と「物」の間に立ち、それらを双方向的に扱えるモデルを常に探求している。そこではもはや、「言葉」か「物」かという二者択一それ自体が瓦解しているともいえる。
現代の障害学における「言葉」と「物」の間での苦闘は、同時に、「理論」と「実践」との間での苦闘として、すなわち、障害に関するあらゆる状況に適用可能な普遍的「言葉」としての理論構築と、様々な現場における個別具体的な運動実践との間の苦闘としても理解しうるのではないか。そして最終的にその苦闘は、両者の二者択一そのものを疑問に付すのではないか。障害学は、(その「学」としての透明性を絶えず自己批判しながら)その「理論」としての性格を徹底することで、逆説的にも「実践」を掬い取ろうとし、「理論的実践/実践的理論」とでも呼べるような言語をかろうじて創り出さなければならないという大きな課題に直面している。(上記、引用文の強調はすべて引用者による)
ここでも、障害学の地平から、アカデミズム全体に通底する理論と実践の緊張関係が浮かび上がる。そう、障害学は障害に関する学問ではなく、障害を切り口に世界を切り取るツールなのだと、再び思った。
ぼくがずっとアカデミズムに対して抱いてきた「アカデミズム糞」という違和感が少し正当化されたようにも感じたりしたのだが、よく読むとそうでもないかもしれない(笑)。
障害学の役割として、それはアカデミズムの一翼で理論を追い求めるものではあるが、その枠にとどめるのではなく、実践との緊張関係に置かなければならない。そういう意味で、理論か実践かという二者択一を超えることが求められている。
ともあれ、辰巳さんに感謝。
この記事へのコメント