『壊れた脳と生きる』メモ

壊れた脳と生きる
─高次機能障害「名もなき苦しみ」の理解と支援

鈴木 大介 著 , 鈴木 匡子 著 ちくまプリマー新書


  • 41歳で脳梗塞を発症し、高次脳機能障害が残った大介さん。何に不自由なのか見えにくい障害は、援助職さんにも十分に理解されていない。どうしたら当事者さんの苦しみを受け止め、前に進む支援ができるのか。専門医であるきょう子先生と、とことん考え抜きます。
  • はじめに 支援職と当事者の歩み寄りを求めて
    第1章 人生を左右するお困りごと
    第2章 名もなき苦しみに、名前をください!
    第3章 自己理解の支え
    第4章 あなたの隣の当事者さん―支援の仕方を考えよう
    当事者を代表してのお願い―対談を終えて
    おわりに 「個性」に合わせた支援をめざして
~~以上、出版社のホームページから~~

~~以下、メモ~~

最初に読書メーターに書いたメモ
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大切な情報がたくさん入っている。しかし、きょう子先生、制度がダメな点とかに対する踏み込みがとても甘いように感じた。結語近くにあるように、医療も含めたワンチームとか、医師が入る例とかあまりに少ない。また、「医療職はチームで対応するのでそこにいろんな人が入って」(201頁)というのだが、本人不在のことが多すぎるのではないか? そのあたりも掘って欲しい。確かに高次脳の場合、事故や病気直後にすべての治療ミーティングに本人が入るのは厳しいものもあるかも、でも入れそうなときも。
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読み終えて、秀逸でわかりやすいイラストの作者の名前を探したが、なかなか見つからず、相当してから、目次の最後に「イラストレーション=川口澄子」とあるのを発見。もっと目立つ著者名の横になってもいいのではないかと思った。


11頁で大介さんは当事者の側からの伝わらなさと接する側からの「??」について書いている。自分に関して言えば、接する側は「??」というよりも、伝わっていないことに気がついていないことが多いような気がする。


そして、これまで足りなかったものは明白で、それはプロと当事者の歩み寄りだという。14頁
そこに挑戦するのがこの本、ということになる。


心を病む原因は、高次脳機能障害が苦しいことじゃなくて、その苦しさを理解してもらえないこと。25頁


以下は高次脳機能障害の階層性に関するきょう子先生の説明(29頁)

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①、一番土台の「基盤となる機能」

 意識がしっかりあるか、注意機能は? 情緒的な安定は?

②、その上に「基本的神経機能」 運動、感覚、視覚・・・

③、さらにその上に「個々の高次脳機能」 言語、記憶、計算・・・・

④、一番上は色々な機能を「統合する機能」

これらすべてで、日常生活を可能にしている。

一番下の、注意機能、意識がどのレベルにあるかが大切。ここがグラグラしていると、その上に載っている高次脳機能もうまく働かない。

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「高次脳機能障害者」とのつきあいがもう10年を超えるんだけど、高次があれば低次があるのかと検索してみた。すると、「低次脳機能」という言葉を使って、説明しているサイトがある。はしもとクリニック経堂https://www.keiman.co.jp/942
このクリニックのホームページによると、低次脳機能とは

一番下に、呼吸や循環の制御、

その上が感覚・覚醒、

次が運動・姿勢、

さらに摂食・嚥下とあり、

ここまでが低次脳機能とされていて

この上に高次脳機能が位置づけられ

リハビリの原則は低次脳から高次脳へと書かれている。

「脳が壊れた」という話をする場合に、さらにその前提に「低次」の脳機能が働いているかどうかが問題となる、ということを言っているようにも思える。
 この説明はわかりやすくするために、そうとう無理してるような気もする。
これらの機能を「低次」と呼んでいいのかどうか、気になるところ。とりわけ「感覚や覚醒」。これはきょう子先生がいう②にあたるのではないか?
 しかし、上記のクリニックの説明ときょう子先生の説明は階層構造で説明しているという部分で似ている。




話をこの本のことに戻す。



きょう子先生はこの階層の話に続いて、脳が働かないときに、脳の空き容量がどのくらいあるかが関係するという。空き容量が足りなくなると、出来ていたことも出来なくなると。30頁~


次の説明は高次脳機能障害の人が「セット転換」ができないことについて。大介さんは嫌な記憶が引き剝がせず、それに支配されてしまうというのに対して、このセット転換という言葉で説明する。34頁~


大介さんが援助職の人に言ってもらいたい言葉
障害特性を理解したうえでの、「こういうことが苦手なのだから、失敗しても当たり前のことですよ」
とのこと。39頁


42頁できょう子先生は休職は取れるだけ最大限取るようにと伝えているとのこと。確かに、あとで延長というより、印象はいいかもしれない。ただ、当事者はなかなか納得しにくいかも。


また、44頁では、高次脳機能障害になって仕事を開始するにあたって、ジョブコーチに支援してもらって徐々に職場になじむステップが必要だというのだが、ジョブコーチの支援が必要なのは当事者以上に、職場の方ではないかと思う。両方に支援があったほうがいいのは言うまでもないが、職場への支援という視点が忘れられがちで、そこにポイントがあるように感じている。また、高次脳機能障害者が職場に入る支援が出来るジョブコーチが全国に何人いるののだろう。いたとしても、ごく少ないのではないか? というわけで、このアドバイスはどれだけ現実的なのかなぁと思った。


STに「話せない」と訴えているのに「上手に話せてますよ」と言われて、そういう相手には心を閉ざすしかなかった、とのこと。50頁~ 病前の能力を尊重して、ちゃんと知ったうえで言って欲しいという主張。


出来るのに出来ないことにされていることと、出来ないのに、それくらいのこと出来るでしょと言われる、その両方とも地獄のような対応 52頁


認知リハにはマニュアルは作れない、作っても個体差が大きいので使えないときょう子先生。 109頁


感情の障害には2種類、脳の破損によって、ブレーキが利かなくなる障害と、出来なくなったとことに気づいて、感情が落ち込む障害 110頁


高次脳機能障害は苦手や嫌いが強く出る症状だと思うという大介さんに、病前は我慢して処理していたものが、障害で我慢出来なくなったのではないかときょう子先生。115頁


運動障害がなければ、体を動かすことで覚醒度は上がる。(きょう子先生)120頁

自治体が作る高次脳のリーフに腑に落ちるものがないと大介さん 144頁~
 箇条書きに「子どもっぽくなる」とか「忘れっぽくなる」とあるが、家族にとって困るというトーンで書かれていて、当事者が苦しみを抱えているということがほとんど書かれていない。
 もっとも耐えられないのが、「子どもっぽくなる」「依存的になる」という紋切り型の描写。依存的になるのは、自らの障害を理解したからで、好ましいことではないかとも。
 それに対して、きょう子先生は「依存という言葉には、ほんとうはできるんだけど人に頼ってしまうというイメージを含んでいませんか」と返す。 

『依存』という言葉が論議になるのは、ここだけではない。熊谷さんたちが主張している「自立とは依存の多様性だ」という表現も、議論を呼んでいるし。


180頁ではきょう子先生が病気の伝え方について話している。相手を見ながら自信を無くさないように伝えること。病気の告知に知識と経験と技術が必要というのは、他でも読んだ。ただ事実を伝えるのではなく、本人がなんらかの希望を見いだせるように伝えることが問われている。


195頁~は1章で語られたネガティブな感情がすべてを支配し、他のことが考えられない状態について、再び対話がある。196頁のイラストが分かりやすい。そして、その状態がずっと続くわけではないということを知ることが大事だと書かれている 197頁


200頁のイラスト、長いスパンで出来ることが増えていることの大切さが書かれている。ともあれ、この本のイラスト、ポイントポイントで、とても効果的に配置されていてわかりやすい。だから、最初に書いたように著者のコーナーにイラストレータの名前があってもいいんじゃないかと思ったのだった。


210頁~は当事者会のことが語られているが、もうひとつ当事者会のリアリティが描き切れていないような気がした。二人は実際、どれくらいの当事者会に参加したことがあるのかと思った。ぼくは大田区のそれに可能な限り参加している。うまく言語化できないのだけど、そこにはもっと大切な何かがあり、そのコアの部分が語られていないように感じた。


221頁~は再び当事者目線で高次脳機能障害に関するリーフレットの必要性が語られる。多くのリーフレットは家族の困りごとが書かれているが、本人の困りごとが書かれていないという。確かにそうかもしれない。
 そして、そのリーフレットに加えて、退院後の困りごとに関するリストが欲しいとのこと。

「高次脳機能障害という言葉を使わずに、個々の症状で説明する」(きょう子先生)229頁
 これを受けて大介さんは、自分は最初に高次脳機能障害だと言ってもらってよかったという経験を語った上で、その言葉を使うかどうか、相手(当事者や家族)を見て判断することが必要だということですよね、と確認。
 さらにそれを受けてきょう子先生が「現象に名前が付くと、枠組みが与えられて落ち着くということはありますね」と対応。230頁

そして、それを受けて231頁で大介さんは病前の障害に関するリテラシーを見て、リテラシーが極端に低い人には症状から伝え、一定のリテラシーを持ち合わせている人には出来る限り障害の理解を進める方向で支えて欲しいというのがぼくの希望です、という。


243頁できょう子先生は障害を認識したい気持ちと否認したい気持ちはおそらく同時にあるので、客観的に障害を見せてくれる医師などの第三者と、否認したい気持ちを受け止めてくれる身近な人がいて、その間を行き来しながら、徐々にそれを理解し、受容していくプロセスが必要な気がするという。


お酒を飲むと話しやすいということもある。250頁


女性は仕事、子育て、家事とすべてに全力投球はできないから、必要なものに優先順位をつけてやってきた、というきょう子先生に対して、大介さんは「そういうことに気づく機会がないから男はダメ」だという。264頁
 「大変なときは外食をするとか掃除はしないとか、あとは外注できる部分は外注するとか」ときょう子先生。265頁


「特に大事なのは、つまずいた時に自分自身の根性や我慢や努力で何とかしようとするのでは癖をやめましょうって伝えること」大介さん 270頁


大介さん
 いろんな支援職の人と出会って、苦しいと開示すれば分かってくれる、分かってくれないにしても配慮してくれる方々もいて、これはちゃんと苦しいって言えた方が戦略的だぞ、と考えられるようになった。・・・
 そう考えると支援職の方々にお願いしたいのは、「泣き言を言えた方が楽になるぞ」「自分で乗り超えようっていうのは不利だぞ」と当事者が思える、パラダイムシフトのような体験をさせてくださいってこと 274頁
 それを提供できるのがプロの腕の見せ所だときょう子先生 275頁


あとがきに相当する部分で、大介さんは「当事者を代表してのお願い」というタイトルで、きょう子先生は「個性」にあわせた支援をめざしてという文章を書いている。

ここで大介さんはわかりにくい「軽度」の人への支援について、そして想像力を働かせてほしいということを書いている。

また、きょう子先生は「やっぱり」よりも「そうだったのか!」が多かったと。経験の多そうな彼女がそう言ってるところがすごいと思った。



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