『「社会」を扱う新たなモード』の紹介2(リベンジ)(ほんの紹介67回目)

9月のたこの木通信の「ほんの紹介」

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7月に紹介(https://tu-ta.seesaa.net/article/500678455.html )した「社会」を扱う新たなモード ~「障害の社会モデル」の使い方(生活書院)の続きっていうか、前回のは紹介としてだめだったので、リベンジをはかる。とは言え、返り討ちにあいそうな予感。飯野さんは「はじめに」に以下 ように書いている。

本書は、「社会モデル」であるためには、障害を「社会的」なものとして扱うだけではなく、そうした営み自体が埋め込まれている権力関係にも注意を払う必要がある、と主張する。なぜなら、マイノリティが直面しやすい問題を「社会的」なものとして扱おうとする時にも、マジョリティ‐ マイノリティ間の不均衡な権力関係は大きな影響を与え、マジョリティにとって有利にマイノリティにとって不利に働きがちだからである。

このため、これまで「個人的」とみなされてきた問題を「社会的」なものとして扱うだけでは不十分である。むしろ、「個人的」だとされてきた問題を「社会的」に扱おうとする只中において、「社会」の範囲をある時には小さく、別の時には大きく見積ることで、いまの この社会の偏りを隠微かつ巧妙に維持しようとする権力関係の動きをとらえなければならない。それは、マイノリティが直面している問題を一見解決するかのように見える動きの中にもマジョリティ優位の権力関係が機能しており、その結果、問題解決の範囲を不当に狭めたり、問題解決に責任をもつべき主体をあいまいにしたりしていることを見抜き、ごまかされたり騙されたりしないための実践である。こうした実践は、多様性の包摂が国や地方自治体、企業の目標として掲げられ、マイノリティに対して一件「やさしく」「フレンドリー」施策が登場している中、障害以外の領域においても重要となっている。本書では、そうした実践に必要となる思考の方法や形式を、「社会」を使う新たなモードとして提案したい。(5-6頁・強調、引用者)

 この本を紹介するにあたって、まず、ここを引用すべきだったのだと思う。例えば、行政が『共に生きる』『共生社会の実現』と主張するときに、そこに権力関係がきっちりとあることがどれだけ意識されてきただろうか? インクルージョンが必要というとき、それは、ただ包摂されていればいいという話ではなく、そこには権力関係の中での排除があり、排除を正当化してきた社会の論理があり、それへの抵抗としての『インクルージョン』が求められていると言えるのではないか? そのような認識がないから、文部科学省は排除・分離を前提とした『インクルーシブ教育システム』とかいう逆転した奇怪なシステムを生み出したりするのかもしれない。

 そして、注目したいのが、上記の文章の【マイノリティに対して一件「やさしく」「フレンドリー」施策が登場している中、障害以外の領域においても重要となっている】という部分。世の中で使われ始めた「障害の社会モデル」が矮小化されていることを見ていくことから、障害にかかわる事柄だけでなく、さまざまなマイノリティに関する施策の中でこの権力関係の隠ぺいが試みられてきたということが白日の下にさらされ、 『障害の社会モデル』という障害を切り口にした概念を考察していくことで、さまざまなマイノリティに関する問題が浮かび上がってくる。

女性に対して、外国人に対して、LGBTQの人たちに対して、融和的な政策は様々あり、それらは社会の問題だから、社会が解決すべき問題だとされるが、多くの政策では権力関係は意識されておらず、温情として融和的な政策が採用されていると解釈される余地が多いものが多数存在するのではないか? 

 同時に政策が融和的だからダメだと全面否定する態度にも問題がある。マイノリティの問題を考えるときに、権力関係や差別の問題を持ち出すと忌避が起こりやすい。その政策が融和的だからと拒否するだけではなく、その融和的な政策を入り口に使うという戦術はあり得る。しかし、そのことを意識することを忘れたら、社会モデルの根底にパターナリズムが入り込む。(続くかな)

~~掲載原稿、ここまで~~

続いていません(涙)。

この本の読書メモも序章までしかアップロードしてない。
https://tu-ta.seesaa.net/article/499622971.html
ここに差別研での飯野さんの報告のときの、いろいろ不十分なメモも掲載している。

続きの読書メモは書きかけのまま放置したままだ。なんとかしたいな






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