映画『月』に関する試写から1か月後の感想(2度の追記あり)

以下、「津久井やまゆり園事件を考え続ける会」のメーリングリストに書いた文章の転載。
雑誌『創』の篠田さんが、映画『月』のサイトのコラムを紹介してくれたので、それに返信しました。
最後に追記

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篠田さん、みなさん

篠田さん、紹介ありがとうございました。

篠田さんのおかげで、この映画を試写で見せていただいてから、ず~っとモヤモヤしています。
このモヤモヤ、どう考えたらいいのだろうと思いつつ、言葉にならずに1か月が経ちました。

**さんの上映すべきでないという意見も読ませていただきました。
https://eiga.com/movie/99730/review/03114141/

そこで、ぼくもこの映画を見て感じたことが1カ月を経て、やっと少しだけ文字に出来そうな気がしてきました。

どうして、こんなにモヤモヤするのか、ひっかかり続けていました。映画を見て、1カ月くらい経て、映画のでデティールを忘れた頃に感じたのは、あの映画で障害者の生がネガティブにしか描かれていなかったからではないかということ。映画が公開されて、さまざまな言説が紹介されて、その感は強まっているのかもしれません。

この映画にも、もしかしたら、障害者の生をポジティブに描かれていた部分があったのかもしれませんが、1カ月を経て、まったく印象に残っていません。

確かにいまも存在している人権が尊重されない障害者入所施設の中で障害者のことが、他者にはネガティブにしか、見えないということはあるかもしれないとは思いますし、この映画で、そのことが客観的に描かれていたと言えるかもしれません。
しかし、それだけでいいのだろうかと思うのです。
日本が守るべき国連障害者権利条約19条では以下のように記載されています。
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第十九条 自立した生活及び地域社会への包容

 この条約の締約国は、全ての障害者が他の者と平等の選択の機会をもって地域社会で生活する平等の権利を有することを認めるものとし、障害者が、この権利を完全に享受し、並びに地域社会に完全に包容され、及び参加することを容易にするための効果的かつ適当な措置をとる。この措置には、次のことを確保することによるものを含む。

  • (a) 障害者が、他の者との平等を基礎として、居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わないこと。
  • (b) 地域社会における生活及び地域社会への包容を支援し、並びに地域社会からの孤立及び隔離を防止するために必要な在宅サービス、居住サービスその他の地域社会支援サービス(個別の支援を含む。)を障害者が利用する機会を有すること。
  • (c) 一般住民向けの地域社会サービス及び施設が、障害者にとって他の者との平等を基礎として利用可能であり、かつ、障害者のニーズに対応していること。
    https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000899.html
    ~~~

また、この条約に添えられた文章には以下のように記載されています。
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(c) 自立生活施設:自立した生活と地域社会への包容はいずれも、あらゆる種類の居住型施設とは別の生活の場に言及したものである。それは、特定の建物や環境における生活「だけ」を問題にしているのではなく、何よりもまず、特定の生活や生活施設を強制した結果、個人の選択と自律が失われることを問題としている。100人を超える入居者を抱えた大規模施設も、入居者が5~8人のより小規模なグループホームも、また個人の自宅でさえ、施設を特徴付ける別の要素として施設収容が挙げられる場合、自立生活施設と呼ぶことはできない。施設収容の状況は、規模、名称及び組織によって異なる可能性があるが、以下のような一定の決定要素がある。すなわち、他の者とのアシスタントの強制的な共有、誰から援助を受けなければならないかを決めるに当たり、影響力が発揮できないか、限られていること、地域社会における自立した生活からの孤立と隔離、日常的な決定をコントロールできないこと、誰と生活するかを選択できないこと、個人の意思と選好に関わらず、日課を厳格に守らなければならないこと、特定の権限を持つ者の下で、ある集団が同じ場所で同じ活動をすること、サービス提供における家父長的アプローチ、生活様式の監督、さらには、同じ環境の下で生活している障害のある人の数が、たいていは不釣り合いであることなどである。施設という環境において、障害のある人に一定程度の選択とコントロールが認められている場合もあるが、これらの選択は特定の生活分野に限られており、施設の隔離的性格を変えるものではない。脱施設化政策には、それゆえ、構造改革の実施が必要であり、それは施設環境の閉鎖に留まらない。大規模又は小規模なグループホームは、特に子どもにとって危険である。子どもには、家族とともに成長するというニーズに代わるものはない。「家庭のような」施設であっても、やはり施設で、家族によるケアに代わるものではないのだ。
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/rights/rightafter/crpd_gc5_2017_living_independently.html
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どんなに重い障害があっても、上記のような施設的な環境ではなく、同世代の他者と同様の生活を送る権利を障害者は有しており、それが保障されなければならないと権利条約が謳っているだけではなく、日本という国家として、この権利条約を受け容れ、批准しています。そして、昨年、行われた国連での日本に対する審査で、施設的環境で暮らす人を減らす努力が不十分だと指摘されています。

現実問題として、上記の権利条約の説明の文章に書かれているような施設からの離脱をすぐに全員が実現できるわけではないいでしょうが、欧米には脱施設を明確に表明し、ほぼ実現している地域も少なくありません。

問題はそれを迅速に実現しようとする意志と、そこに向けた実現可能なロードマップを描き、実行していくことだと思います。

あ、映画の話から少し寄り道しすぎました。

重い知的障害のある人、そのように思える人が、上記のような施設的な環境をぬけだし、生き生きと暮らしていける方法があり、現にそのように暮らしている障害者がいて、その姿は映画『道草』などの映画や、多くの書籍で描かれています。津久井やまゆり園事件の被害者の親で、前の家族会の代表だった尾野さんはその映画や、監督の宍戸さんと出会って大きな変化を遂げています。それまで、尾野さんは施設はいいいところで、なぜ、それを否定するのか、と主張しいていたのですが、その尾野さんの息子さんが施設を出て、支援者をつけた一人暮らしをすでに始めています。当事者の尾野一矢さんの暮らしは「尾野一矢日記」としてフェイスブックで公開されています。https://www.facebook.com/onokazuyanikki

本来、そのように生きていけるし、そうあるべきだということを映画『月』を見た人に知って欲しいと感じたのでした。この映画では、確かに障害者入所施設の特徴的な一面が描かれており、それを否定する内容とも受け取れるのですが、そうではない世界があり、そうなければならないというのが国連の条約で謳われ、ほとんどと言っても過言ではないくらいの国がこの条約を受け容れているという現実が一方にあるのです。

しかし、その条約で上記のように障害者入所施設が否定されているということが、いまだに多くの人に知られていない現実もあります。
だからこそ、映画に描かれたような(現実にも存在する)障害者施設ではない、
あるべき像がすでに明確に規定されており、その実現が求められているだけでなく、それを実現するための制度はすでにあるし、実現している人もいるということもわかるようにしてほしかったと思うのでした。

ぼくは、この映画を上映すべきではないとまでは思いませんが、繰り返しになりますが、施設や施設的ではない暮らしの姿がすでにあるのです。それが世界中で求められ、すでに条約で規定され、日本も国家として求められているということを、この映画を見た人に知って欲しいと思ったのでした。

ちなみに、ぼくは「知的障害のある人の自立生活について考える会」という会のメンバーでもあるのですが、その会では、成人した知的障害者が
どのように、上記にあがかれたような施設以外の暮らしを実現しているか、どうしたら実現できるかという情報を共有しています。https://www.facebook.com/jirituseikatu

も上記を考えるヒントになると思います。


とりあえず、思いついたことを書きなぐってみました。
あとで読み返して、書き直そうと思います。


~~追記~~
これを書いた少し後に読んだ『対人支援のダイアローグ』の巻末の対談で高木俊介さんが「不確実さに耐えるってやつ。僕は「もやもやを持ちこたえる」と訳すのが一番いいと思うの」(233頁)と言っていて、それを受けて竹端寛さんが「もやもやダイアローグ」を推奨していた。「もやもやってすごく大事なような気がして、それはどっちともつかない自分の中で課題だと思い、かつこれをやれば正しいという「正解」のないものなんですね」と言う。

この映画を見てもやもやしいていて、言葉にならないものが少し言葉になったのだけど、それでももやもやは残っていて、変に無理やりすっきりさせたりせずに、もやもやを抱えて、もやもやを考え続けて、もやもやし続けること。

それが出来るということがネガティブケイパビリティとも呼ばれたりするのだろうと思った。
~~追記ココまで~~


2度目の追記
この映画「月」に関して、さまざまな場所でさまざまな議論が展開されています。
興味深かったのが、フェイスブックでの佐藤幹夫さんの投稿に対する岡部耕典さんのレスポンスとその後のやりとり。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0BhFoHmzMXsLn6zPcVsi4zid3ZZ1DcAuQHfS2TgS2j5cezD7txartvc9Ck9hoLrHwl&id=100012989953415

映画「福田村事件」の共同脚本の一人の井上淳一さんの評
https://www.facebook.com/junichi.inoue.35/posts/pfbid0Q4Yi7fT1E3DjwxYBapsT9CdVVNCJUz4LtjG7krcsX65Rxy1HMPpKP7gADY4u2Udgl

【FUCK①】生活支援員が観た映画「月」評~前編~
https://note.com/tokyonitro/n/n278f1ebb7950



で、いまのところの結論を書いてしまえば、映画の専門家じゃないだけじゃなくて、そんなにたくさんの映画も見ていない僕は、ある映画がいい映画かどうかなんてわからない。あるのは好きな映画と好きじゃない映画、そして嫌いな映画。

この映画は嫌だったんだけど、こんな風に映画について議論になるのは、悪いことじゃないと思う。
「見ません」という声もあるんだけど、どう評価するにせよ、自分の目で見て、どう感じたかっていうのが大切なんじゃないかと思うんだけど、どうだろう?

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