『対人支援のダイアローグ』メモ
結語として書いたことを冒頭に
現状の精神療法の歪みを照らし出す鏡としてのODというような話も興味深いのだけど、ぼくには民主主義のベースにあるはずの対話、それを実現するためにODについて考え、学ぶことが一助になるという話がとても興味深かった。
そんなことに関心がある人にはぜひ読んで欲しい。巻末の座談会から読むのもいいかも。
『対人支援のダイアローグ』高木俊介著 金剛出版
目立たないサブタイトルは「オープンダイアローグ、未来語りのダイアローグ、そして民主主義」
版元(金剛出版)のホームページ https://www.kongoshuppan.co.jp/book/b610220.html から
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この本の内容
現代社会は,対人支援の現場においても,協働作業が難しい状況にあり,障害者支援システムは大転換の時代にある。
本書で展開されるのは,精神科治療のためのオープンダイアローグと対人支援組織や当事者―支援者関係のための未来語りのダイアローグを統合するための実践的な試みである。
ふたつのダイアローグでは,支援者に高度な精神療法的配慮とソーシャルネットワークを集める視点が求められる。著者は,共同体の再生を目指す,ふたつのダイアローグの技法的側面と治療哲学をバフチンの「ダイアローグの思想」を引用しながら有効な治療戦略としてわかりやすく解説する。
巻末には,未来語りのダイアローグの研修を共にした実践者、竹端寛氏・舘澤謙蔵氏とのダイアローグの真髄に触れた座談会を収録した。当事者・家族、そして治療者の悩みをダイアローグし続ける心理的支援を目指す新しい臨床的試み。(太字は引用者)
ぼくはこの本を上記の内容説明のようには読めなくて、最初に書いた感想のように民主主義とダイアローグをつなげるところが面白かった。だから、高木さんはこの内容紹介について、どう思っているのか、聞いてみた。返答はどんな風に読まれてもOKとか。そして、出版社は精神・心理系の本が得意な出版社、とのこと。は確かに上記の内容紹介ようなことも書かれてはいるんだけど、この本には、もっとデカい話があって、それが面白かったんだけどなぁ。
出版社としては、この方向で内容紹介したほうが本か売れると判断したのかなぁ。その系譜の出版社ということだし。
目次
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□第Ⅰ部 オープンダイアローグ、未来語りのダイアローグ,そしてトラウマ・オープンダイアローグは日本の精神医療の扉を開くか
・「奇跡の果実」は実るのか
――日本にオープンダイアローグを取り入れるために・今、ダイアローグを学ぶ意味
――「ダイアローグの思想」と「新しい共同体」・多職種が連携するためにはダイアローグが必要
――未来語りのダイアローグを中心に・ネットワークの生成と対話ミーティング
――未来語りのダイアローグを中心に・オープンダイアローグをACTに取り入れる
・ダイアローグと多職種連携、そしてアサーション
――多職種連携のための場をつくる・「トラウマの時代」の対人支援とオープンダイアローグ
□第Ⅱ部 エッセイ
・デカルトしてみた宇宙人
・人と大地、傷と回復
・水俣の傷、写真家の傷
――映画『MINAMATA』に寄せて・虐待は連鎖、しない
□第Ⅲ部 神田橋精神療法とオープンダイアローグ
・神田橋條治『精神科診断面接のコツ』を再読する
・神田橋條治『精神療法面接のコツ』を再読する
――オープンダイアローグへの道□第Ⅳ部 座談会
・対人支援のダイアローグ
――ダイアローグの実践と精神医療改革、そして真の民主主義へ
/高木俊介・竹端寛・舘澤謙蔵
直後に読書メーターに書いたメモ
高木さんがいままで書いたものと対談から出来ているが、いい本だと思う。OD ODのことをそれなりに知っている人は対談から読むのが入りやすいかも。 高木さん、学生時代から活動家だったのだろうなぁと思わせる部分も多い。ぼくより二つ上だけど、ほぼ同じ時代の学生。70年代の終わりから80年代には日本にもまだ学生運動が残っていた。もちろん、10年前と比べたら相当に小さくなっていたけど。その志を持ち続けているのだろうなと勝手に想像した。読書メモ書きかけ。メモしたい部分は多い。
以下、付箋に沿ってメモ
高木さんは「対話的であるためには」として、以下のように書く。
対話的であるためには、多くの経験と修練、感情的エネルギーと思索、そしてなによりも対話的であろうとする意志の持続がいる。28頁
そうかもしれないと思うと同時に、こんなことを言ってたら、いつまでたっても誰も対話的になんかなれないじゃないかとも思う。対話的でありたいとは思う。なるべくその意志を持続させたいとも思う。そこから生まれる経験は確かに大切だろう。で、とりあえず、対話的であろうとする意志の持続だけあれば、それでいいんじゃないいかと思うんだけど、どうなのだろう。
修練していないぼくの願望なんだけど。でも、どうして、ただ対話的であるということがこんなにややこしいのかというのは、ODに関する他の本でも感じた話でもある。
この本、もう少し、本を読み進めてみようと思う。何かヒントは見つかるかと期待しつつ。
続けて読んでみたら、この話は出てきた。
専門性についての話は56頁からの部分にあった。フィンランド西ラップランドの実践で、ODを行うスタッフへ専門性を高めるためのかなり厳しいトレーニングの紹介がなされている。同時に、ODでは専門性という「鎧」を外すことが求められ、それを外す困難が書かれる。また、技法としてのODは専門的なトレーニングを必要とするが、詩学としてのODはそうでもないという話(47頁)でもある。この話はメモの該当部分でもう少し書こう。
そして、対話的でありたいと思うぼくがいつでも対話的だとは限らないという現実。っていうか「たいてい対話的じゃないじゃん」っていう評価もあるかも。その隙間を埋めるための【多くの経験と修練、感情的エネルギーと思索】だったりするのかもしれない、昔読んだような読んでないような本を思い出した。『永続革命論』(読んだつもりだけだったような・・)。対話的であるための永続自分革命が必要なのかも。
高木さん、この本の冒頭の文章(オープンダイアローグは日本の精神医療の扉を開くか)の結語部分でこんな風に書いている。
このようにして、ダイアローグがもつ思想や哲学そのものを社会の全体に広げていきたい。移植 しようとしているものが、日本社会という土壌で根腐れしてしまわないように。ODの実践が、い つのまにかこの国の因習的な精神医療に取り込まれて矮小化してしまわないように。
ダイアローグという思想と実践を、辛抱強く、しっかりと植え付けていく。それは、精神病院を中心とした現在の精神医療体制への挑戦であり、闘争だ。そしてそれはとりもなおさず、この国の社会、文化、政治への挑戦でもある。
そんな夢を、僕は見ている。もちろん、僕たちだけでなく、日本全国には多くのダイアローグに 向けた試みが立ち上がっている。ODやADへの関心は、今も熱く広がり続けている。民主主義も 正義も根付きそうにない泥沼のようなこの国で、ようやく人々は目覚めつつあるのかもしれない。29-30頁
ほんとに大切な話だとおもう。でも、ほんとに目覚めつつあるかなぁ? ここは少し高木さんのアジテーションっぽいところかもしれない(笑)。
ODをどのように日本に入れるかということについて、高木さんは以下のように書く。
三、「ODの詩学」を日本で学ぶ、実践する
このようなODを、そのままの形で現在の日本で取り入れることは到底無理であるように思える。二四時間以内の即時対応といい、患者の家にチームで出向くことといい、システムのもっとも基本的な部分を行うことすら、今の日本の医療・福祉のシステムの中では困難である。ソーシャルネットワークを引き入れるということに至っては、今の日本の精神医療は入院医療が中心であり、それは逆に治療のためにソーシャルネットワークから隔離することを意味している。
その困難に挫けずに、私たちがODという「奇跡の果実」を手に入れるためには、手の届くところにある要素のひとつひとつを丁寧になぞっていくしかない。そのような場所にある果実のひとつは、「ODの詩学」と呼ばれているもの、ODに技法のようにして組み込まれた精神療法の数々である。幸い、私たちには先人たちが研鑽を重ねてきた、非常に丁寧できめ細やかで、かつ私たちの文化によくフィットするように彫琢された個人精神療法の技法がある。家族療法やナラティブセラピーがODの基礎になっていることはよく知られている。本稿では、筆者が傾倒してきた神田橋條治の対話精神療法的対話からODをみてみよう。神田橋が精神療法的対話についてもっとも重視するのは、「雰囲気」と「流れ」である。このような精神療法が全うされるためには、患者―治療者が面する診察室の場だけではなく、それを囲むより大きな環境が意識されないといけない。このように、支援する者とされる者を中心として、ソーシャルネットワークが広がり、さらにその外の世界を常に意識するという構図は、ODが複数の治療者を要してソーシャルネットワークをそこに招き入れ、その間に社会的な包摂関係の構築をめざすというODの構造そのものだといってよい。
ODもまた、場に生み出される「雰囲気」や「流れ」を重視する。例えば、患者が激しい感情に揺らされ自信を失っている状況で「多くのネットワークミーティングで危機的な状況をくぐり抜けてきた私たちの経験は、ミーティングの場に居合わせるだけでそこに滲み出してくる。チームはそこにいるということで、自信と共感の雰囲気を醸し出す」のである。治療者がいかにその場で交わされている対話の自然のリズムに自分たちの発話と応答をあわせていくのかに細心の注意を向けるODミーティングも、「流れ」の重視に他ならない。
ODのもうひとつの、従来の精神医学からみると驚くべき斬新さは、対話にいどむにあたって事前の打ち合わせをして方針を立てることをしない、さらには患者のいないところでその患者についての話をしないということである。この徹底した透明性は、多くの従来の医療に馴染んできた治療者を戸惑わせる。だが、これに対しても神田橋は「正直正太郎療法」などと呼んで、「治療者の思考過程を可能な限りガラス張りにする」ことが非常に大切であり、このことが「抱え環境の強化のコツ」であるという。・・・36-38p
この「抱え環境」がわからなくて調べた。これのことだろうか?
Winnicott(1960b/1977)は,生まれたばかりの乳幼児の傍らには,乳幼児に同一化することで,乳幼児が欲求不満に出会う前に,速やかにその欲求を満たすことが出来る養育者がいると想定している。Winnicott は,乳幼児に同一化する養育者の機能を「母親の原初的とらわれ」(Winnicott,1963a/1977)
と述べた。そして,このような状態の乳幼児について「絶対的依存」(Winnicott,1963a/1977)の状態と名付けた。
Winnicott は,このような母親について「抱える環境」(Winnicott,1960a/1977)や,「環境としての母親」(Winnicott,1963b/1977)とも表現している。そこには「絶対的な依存」の状態にある乳幼児にとって母親が対象ではない,というアイデアが含まれている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/yeiwa/15/0/15_66/_pdf の2頁から
ともあれ、ここで高木さんは「神田橋條治の対話精神療法的対話」とODの類似について書く。確かに似ている面は多い。 人がメンタルの病に陥るとき人間関係がうまくいっていない環境というのが多いと思う。孤立していたり、価値のない存在だという扱いを受けていたり、死ぬほど忙しかったり、そんな環境。すごく単純化してしまうと、ODも神田橋療法も、そんな風にうまくいっていない関係性からの脱出という点で共通しているのではないだろうか? それを森田ゆりさん流のエンパワメントのプロセスと呼ぶことができるかもしれない。 ここで触れられている透明性の話は微妙な面もあるかもしれない。当事者の理解のレベルとの関係によって、ただ言えばいいというのではなく、ここに書かれているように「治療者の思考過程を可能な限りガラス張りにする」場合に、それを理解できる言葉で伝える努力というのが大切になってくるのだと思う。「ただ伝えればいいという話ではない」というところに技術が必要なのかもしれない。理解に応じた伝え方をしなければ話は空転する。
今、ダイアローグを学ぶ意味――「ダイアローグの思想」と「新しい共同体」
2種類のODの混同(47頁)
1,フィンランドで行われている特殊な精神医療システムとしての「OD」
2,「オープンな態度で行うダイアローグ」(詩学としてのOD)
受容する側にはこれらをしっかり区別することが重要。
メモの最初の方にも書いた専門性の話。
以下のように書いた。専門性についての話は56頁からの部分にあった。フィンランド西ラップランドの実践で、ODを行うスタッフへ専門性を高めるためのかなり厳しいトレーニングの紹介がなされている。同時に、ODでは専門性という「鎧」を外すことが求められ、それを外す困難が書かれる。
この専門性の話は「ODについてのふたつの誤解」という節に書かれている。
その2つとは
誤解A、ODは専門家が専門性を捨てて当事者と対等に話し合うもの
誤解B、ODは薬を使わないで統合失調症を治す治療である
Aについて
ODでは実際には専門家の専門性はかえって厳しい。その専門性を身につけた上で対話の時にそれを外すことが求められる。
対話は誰でも出来るはず。話を聞く用意さえあれば。
だから2つのODの2は誰にでも可能で大切なものだが、1をそのままの形で日本に導入するのは困難だ。それが「2種類のODの混同」という話でもあると言えるのではないか。
Bについて
ここにも2つの意味で誤解だと書かれる。(58頁~)
B―1 薬を使うかどうかも本人を入れた対話の中で決めるのであって薬を使わないわけではない。しかし、このことによって薬の使用量は驚くほど減る。
B—2 統合失調症の治療において薬は必要不可欠であると現在の精神科治療ではまったく疑いがないかのように言われているが、実はこのこと自体がドグマ。薬なしで寛解することはあり、問題はその寛解が維持できるかどうか。研究成果を見る限り、ODを行ったときのほうが回復が持続している。59頁
この文章の5節のタイトルが【五 ODと「新しい共同体」】
高木さんは「ODの成果がとてつもなく素晴らしいものに見えるのはなぜか、という問いに
「一言でいえば、ODは精神病や統合失調症をはじめとする精神障害をもつ人たちを共同体に包摂するということにあるのだと思う」と書く。60頁
その話を途上国での統合失調症の予後の良さと結びつける。統合失調症であるとされる人を受け容れるコミュニティがそこにあるという面は大きいかも。それが近代化の度合いが進むのに反比例して減っているようにも感じる。
ODによって形成された共同体(コミュニティ)が持続するものである必要があるはず。そういう意味でも単に急性期の治療法ではないと思う。こんな風にも書かれている。
だが、共同体というのは親密にコミュニケーションできる人たちの集まりであるとともに、そこから逸脱する人びとを排除することで成り立っている。だから、自由を求める人類の進歩は、つねに共同体からの解放をめざしてきた。現代社会は、そこからの解放を達成した面と、その反作用として個人のアトム化、孤立化を進めたという両面をもっている。その現代社会の負の面に注目して共同体の復権を求めるとき、多くの人びとは家族にその原型を求め、共同体をそのような〈原家族〉を拡張したものとしてイメージする。社会共同体自体が、原家族を同心円状に拡張したものとなるのである。
しかし、現代の問題は、そのような家族自体が大きな葛藤を抱えており、社会と家族の間に挟まれる個人にストレスを与えるものとなることにある。ODの実践の強みは、家族療法にも精通した専門家として現代の家族が抱えるそのような葛藤に焦点を当てて、さまざまな問題とかかわることができることにある。そして、そのような家族や拡大家族とのあいだに、専門家や市民のネットワークを持ち込むことで、現代的なネットワークの互助の関係を家族関係の中にも持ち込むのである。その結果あらわれる「新たな共同体」は、原家族の共同性と市民の社会的共同性が相似形となりながら重なり合う構造であり、一種のフラクタル構造をつくりあげる。人のつながりが疎遠になっていた現代社会が現家族のもつ親密な共同性を注入され、反対に原家族には社会的共同性を鏡とすることで、その中で起こる拘束や葛藤をゆるめることができるのだ。 61—62
フラクタル構造がなんだかわからなかったが、新たな共同体が求められていることはわかった。
この文章に続く63~64頁のお文章も良かったので抜き書き
障害者を私たちの社会に包摂すると言う時、このように私たちの社会がダイアローグによってつながる新しい共同体を内包するものへと変化することが必要である。そのダイアローグは、私たちと障害をもつ人たちとの間をつなぐものでもある。そうして私たちの社会自身が変化するものでなければ、「包摂」は私たちの旧来の社会にふさわしい有能な障害者だけを受け入れるものでしかないだろう。包摂と言いながら、自分たちのレベルに達しない者を排除することを前提としてしまうのだ。新しい共同体のための、新しい理解、新しい言葉をダイアローグによって創造していかなくてはならない。
ODは、社会や医療によって「問題」として同定されるもの(病気や症状、逸脱行動、家族の機能不全など)に一方的に焦点を合わせるのではなく、自由に互いの語りを聴くことで〈対話〉を実践する方法である。このために必要なのは、当事者にとっても専門家にとっても、そしてかかわるすべての人にとっても、予期せぬものへの自由な構えである。不確実性にみちた世界と社会の中で、その不確実性を持ちこたえることで、自由で多様な視点が生まれる。これが可能となったとき、ODは、精神障害を抱える当事者・家族、そして精神障害をもつ人たちへの支援を志す者にとって喜ばしいものであるだけでなく、この世界そのものを豊穣化していくものとなるだろう。63-64頁
さらに、それこそがODを学び挑戦することの意義であり、世界を変えるための種子であると高木さんは書く。少し気恥ずかしいような気もするが、その通りだと思う。
多職種が連携するためにはダイアローグが必要――未来語りのダイアローグを中心に
この文章の冒頭部分でODがこれまで単に治療の対象としてきた当事者を尊重すべき他者として、当事者の持つネットワークの中で対話を対話を基本にして治癒に導く、そのことに当事者が救いを感じる、と書かれている。65頁
続いて高木さんらが訳した『オープンダイアローグ』という本の英語のタイトルのことが書かれる。 ”Dialogical Meeting in Social Networks”
それを高木さんは「さまざまな社会的つながりの中で対話的につながり続けること」と訳す。
この「さまざまな社会的つながりの中で対話的に出会い続けること」
三井さよさんがたこの木の本で書いている「かかわり続ける」という話とつながるんだろう。
そして、「(『オープンダイアローグ』の)著者たちから受け取らなければならないのは、ODというひとつの方法ではなく、その根底にある精神、思想であり、さらにはその精神を社会的なつながりの中で生かす文化をつくりだすことであることが見えてくる」(67—68頁)と書く。
68頁からは「未来語りのダイアローグ」(Anticipation Dialogue)の説明になる。【あくまでも当事者のニーズが中心で、それ以外のさまざまな「意図」は脇に置かれる】(72頁)と書かれる。中心にすべきは「当事者のニーズ」というのが気になる。中心にすべきものを「ニーズ」と呼んでいいのかどうか。ニーズとウォンツをどう、誰が見分けるか、微妙な話だと思う。
そのADのトレーニングの中で講師がもっとも力を込めて語ったのが、「社会全体を民主主義的なものにしていこう」というメッセージ(73頁)だったとのこと。
それぞれの組織のヒエラルキーから自由になって対話することができる環境をどう形成するかが課題となる。ヒエラルキーの頂点にいる人が一人でそのような場を作ることは困難で、そのような場を強制し決定するという逆説が生じる。だから「私の経験では、少なくとも組織の中のヒエラルキーの位置が違う二人で始まることが重要なポイントである」(75頁)という。高木さんはそのように書くのだが、トップに立つ人が民主的な場を作るという強靭な意思をもてば、かなりのことは出来そうな気もする。
ヒエラルキーを解消するためにどうしたらよいかをフィンランドから来た現場スタッフに聞いた答えは「ヒエラルキーについてのダイアローグをし続けること」という答えが返ってきた(76頁)とのこと。
ネットワークの生成と対話ミーティング――未来語りのダイアローグを中心に
この文章の第三節のタイトルは「ADと場の概念」(90頁~)
「場の力」の話でもある。場の力の話を最初に読んだのは向谷地さんの本だったかもしれない。 https://tu-ta.seesaa.net/article/201107article_12.html
「従来のカンファレンスにはない自由さと自然に生じる協働性の感覚」と表現されている。
これが出来るかできないかについてふたつの要因があるとされる。
1,ADの対話では当事者のニーズが中心で、それ以外のさまざまな意図はわきに置かれるから。専門家の視点とか解決策はわきに置かなければならない。
2,すべての関係者が対話の場に直面する。だから、いっしょにいる人の言動に影響されながら対話するから。
第四節のタイトルは「ADと中動態の世界」
ダイアローグでは何かをすることが目的ではなく、対話自体が目的で、治癒などのそれ以外のものは対話に付随してでてくるものとされる。そういう意味では「何かをする」ことではなく「なっている」という中動態の話だと言えるかもしれない。
高木さんはこんな風に書く。
ADのミーティングの場で生じることは、このような「なる」感覚であり、そこには問題を同定してそれを解決「する」という専門家がまとっている姿勢は脱ぎ捨てられている。95頁
何かをするのではなく、場の力によって、自然に「なる」ということ≒中動態
支援チームは当事者のニーズに沿った新たなネットワークにごく自然の勢いで「なっている」。(中略)ADの持つこのようなネットワーク形成の可能性は、我々が「場の力」を信じる時にさらに「なり」やすく、中動態的な世界観を体得することでより発展させることができるのではないだろうか。96頁
オープンダイアローグをACTに取り入れる
・・・
ダイアローグと多職種連携、そしてアサーション――多職種連携のための場をつくる
ここで高木さんは漱石の草枕の有名な「智に働けば・・」というフレーズを「精神療法的現代語訳」する。
「分析的理解ではどうも話が硬くなってギスギスする。マインドフルネスをやってふわっとしたら世間の風に流された。アンガーコントロールで怒らずにいたら不満がくすぶってやっかいだ。とかくに人間関係の網である人の世は住みにくい」114-115
「トラウマの時代」の対人支援とオープンダイアローグ
ここで著者は「相模原障害者殺傷事件」に関して『生きている! 殺すな』での高橋慎一の文章の「現代福祉社会のシステムには、支援者自身が暴力的になってしまう契機がある」という主張を引用する。
・・・。実際、僕らがADの創始者であるトム・アーンキル氏を京都に招いて集中 トレーニングをした時も、彼がもっとも力をこめて語ったのは民主主義を守り育てようという真摯なメッセージだった。
そのような強い意志、組織やシステムの中で個人の自由と平等を守り育てようという民主主義的な思想のないまま、多職種連携を用いた対人支援チームをつくるとどうなるか。結果は見えている。 従来の組織の中にあったヒエラルキー、力関係が、チームの統率力、リーダーシップの名の下に堂々と持ち込まれるのだ。このことは、従来の精神病院や大きな施設の中で何かのプロジェクトを立ち上げたり個別支援チームをつくったりしようとした経験を思い浮かべれば、誰にでも思い当たるところがあるだろう。たまに、意欲的な、悪く言えばちょっと跳ねっ返りのコメディカルスタッフがいて・・・例えば医師の方針と対立した時を想像してみよう。彼、彼女は、短気な医師の逆鱗に触れたとして、当然のように丁寧にチームから外されるだけだろう。116-117頁
□第Ⅱ部 エッセイ
・デカルトしてみた宇宙人
・人と大地、傷と回復
・水俣の傷、写真家の傷――映画『MINAMATA』に寄せて
・虐待は連鎖、しない
この「虐待は連鎖しない」というメッセージは大切だと思った。
□第Ⅲ部 神田橋精神療法とオープンダイアローグ
・神田橋條治『精神科診断面接のコツ』を再読する
・神田橋條治『精神療法面接のコツ』を再読する――オープンダイアローグへの道
172頁の図は見た瞬間、どうなんだろうと思った。
173頁のODに関する図と対比され、ほとんど同じだとされるのだが。
まず、172頁の図は
円の一番外側にダイアローグの思想や実践があって、一番コアにODのart、次にODのsystem、その外側にODのネットワーク(ソーシャルネットワーク)がある円筒の図形。普通はコアに思想があると思うのだが、これは逆になっている。
一番コアがアートで次にシステムがありソーシャルネットワーク、思想と実践、これ、読み流しがちだが、難しい話ではないか?
神田橋さんのアートとも呼びうるような面接とODのアート、相当、違うはず。
でも、この部分がとても興味深いのでテキストを抜き出してみた。
神田橋が精神療法的対話についてもっとも重視するのは、「雰囲気」と「流れ」である。逆に、「雰囲気」がふさわしくなく、「流れ」が妨げられるなら、そこにどのように正しい精神療法の技法が使われていようと、それは他者を支援する関係にはなり得ない。このような流れや雰囲気は、精神療法家が意図して操作できるものではない。彼ができるのは、今目の前にある私とあなたの関係だけではなく、その外にある「雰囲気」と「流れ」を常に感じていることである。こうして、患者治療者が対する場はそれを囲む大きな環境とともにあることになる。これをあらわしたのが、図2である(「コツ」第五章)。
この文章の最後に神田橋の「精神療法実務の要諦」はそのままODの要諦であるという。社会システムを架け直すことで「新しい共同体」を生まんとする、ということ。
□第Ⅳ部 座談会
高木さんは、竹端さんのトレーニングの報告を読むなかで、自分が変わることが社会を変えることの基礎にならなければならないと研修の中で確信に変わっていく様子がわかった、という。191頁
竹端さんは他者との「水平の対話」と自分の中で「いま・ここ」で湧き上がるものを他者にぶつけるような「垂直の対話」に言及する。いままで、専門家や専門職として自主規制し「いま・ここ」で感じたことを言えなかったが、ADのトレーニングのなかで、大学教員だからとか、精神医療改革の社会運動を大切にしているからとか、いろんな社会的役割でがちがちに固められていた「鎧」がほどけてきた、という。(193頁) そして、「ダイアローグって結局、技法じゃなくて人間だよね」という白木孝二さんの話が腑に落ちた、と。195
そして、そこに「場の力」があったと3者が声をそろえる。196頁
竹端・・。ODは、カリスマではなく、その人の人間性と繋がっているか、が大事なんですよ。カリスマにならなければ、できないのではなくて、人がもともと持っている自分らしさというか、自分との垂直の対話をして自分の軸をちゃんと持った上で相手の軸と対話することができたら、そのとき相手や場とつながるんだと思うんですね。それは急性期だと一番役立つかもしれない。
・・・
(略)対話する主体として、これまでのありようを変える必要はあるんだけど、何かに変容する・成長するというよりも、それこそ小さい子どもが持っている、社会化する中で蓋をして抑圧してきた「本来持つ自分自身の軸」を取り戻すこと、その軸をちゃんと持って相手の話をじっくり伺い、丁寧に対話することの重要性です。・・・・203頁
この部分、森田ゆりさんが紹介している「エンパワメント」ととても重なっていると思った。
舘澤
AD、参加して欲しい人に、この仕組みや質問がユニークである理由をあらかじめ説明しておくことが大切。206
竹端 ・・・ダイアローグにおける大事なポイントは、当日ではなく主催者と事前の打ち合わせをする段階で「誰かが問題だ」と思っているけど、そう考える「自分 自身の心配事」が最大化していると認識し直すこと。その上で、「相手が問題だ」と矢印を自分の外側に向けるのではなく、「私は相手との関わりの中でどのような心配や不安が高まっているのだろうか」と矢印を自分自身に向け直すわけです。事前準備のそれが一番難しいんだろうと思うんです、どんなときも。209頁
213頁では「当事者抜きに話をするな」が一番大事だと竹端さんが言い、それが前提で話が進む。
そして舘澤さんは以下のように言う。
支援の人や専門職の人が、患者さんの話をきかずに、専門的な知識からだけで見立て、その判断に基づいて話し合いの場を設定してしまっているということはやりがちで・・・自戒をこめて話しますが。
確かにやりがちかも
そして、舘澤さんはこんな風に続ける。
だから、OD、ADで大事に思うのは、当事者である患者さんが話し合いに参加することであって、当事者がよいことをしゃべってくれるとか、いいことを言ってくれるとかそんな期待はいらないということ。・・・。当事者がその場にいてくれることでその周囲の人の言うことや言い方が変わる可能性が生まれます。支援する側に、当事者を目の前にしてともに考えていくというスタンスがあるかないかは、ダイアローグにとってたいへん重要な意味を持ちます。215頁
竹端さんは以下のようにもいう。
ぜひダイアローグの未来に向けて提起したほうがいいと思うのは、「診察や治療計画を作るとはなにか?」という既成概念を変える必要があるということです。現状では診察は5分か10分で・・・、治療計画は本人に聞き取りをしたうえで、後で専門職がパソコンでフォーマットに基づいて・・。
けれども、本来精神科においての診察や治療計画は、「本人やご家族にちゃんと話を聞く中でみんなで考えていくものである」ということを、そのものとして認め、制度として診療報酬なりに適合させるようにしないと、じっくり話を聞けない。その前提がないから、ずっと3分診療で済まされるし、精神医療の質が向上しない最大の要因の一つでもある。・・・219頁
それを受けて、高木さん
・・・。
その間違いだらけでしかありえない実践の中に、ODの理念に照らし合わせて守るべきところを少しでも入れ込んでいくのが、今できることだと思う。220頁
とのこと。
また、舘澤さんは223頁で現場でのミーティングの中にダイアローグのための余白を作ることを提起し、以下のようにいう。
ダイアローグのために余白を作ろうとすることは自分たちがどういう支援をしよとしているのか、何を大事に対人援助の仕事をしているのか、という自問につながります。
垂直的な会議はたくさんあるのに、水平的な話し合いの場がなく、支援者の葛藤がないがしろにされている。という話もある。224-225頁
確かにいろんな現場で、そうなっていると思う。そういう場をちゃんと作れるかどうかが場が力を持てるかどうかにつながっているのだろう。「場の力」というのはそういうことが出来る場になってることだとも言えるかもしれない。
228頁で竹端さんは精神医療改革の待ったなしの課題として、強制入院を減らし、地域支援の量と質を増やすことと同時に、車の両輪として大切なのが精神科の支援の質の問題を挙げて、以下のようにいう。
問題行動・困難事例といわれるものに対して、放置をしたり精神病院に強制入院させて「解決のふり」をするのではなく、その人と周囲の相互作用の悪循環に支援チームが関わり、ダイアローグしながらその悪循環を変えていくことができるのか。これは、強制入院を減らすのと同じレベルで優先順位の高いこと。
確かに車の両輪のように、どちらもないと、それは成立しない話だとぼく(鶴田)も思う。
これを受けて、高木さんは「今は、全部逆だもんね」という。入院期間を短くして起きたのは「回転ドア現象」。大変な人が支援を受けずに放置。それに対して支援の質をどう上げるかと言えば、看護師は認定とか専門とかの資格を取れ、医師はエビデンスのしっかりした薬物治療をしましょう、そっちの方向ばかり、という。
232頁から始まる「もやもやを持ちこたえる」という節で高木さんは対人支援を志す人の傷つきや挫折に触れて、「そういう人たちがダイアローグという形を取り入れていく中で救われる、自分の中のもやもやにちゃんと向き合える。ODの言葉で言えば、もやもやを持ちこたえていける」という。そして、「不確実さに耐えるってやつ。僕は『もやもやを持ちこたえる』と訳すのが一番いいと思うの」と。(233頁)
これ、ネガティブケイパビリティとも呼ばれたりするのだろうと思った。
そして、興味深かったのが、対人支援でODを使う前に、支援者の組織の中でダイアローグをちゃんとやるのが対人支援でダイアローグをやるための素地になるという話(237頁)。確かに、こういうことが出来ていない人が、対人支援でダイアローグって難しいのかもしれないと思った。対人支援の現場ではもやもやすることは沢山あるのだから、そのもやもやをダイアローグすることが大切なのではないかと思った。
以下のダイアローグに関する個人と組織の変化の話も興味深かった。
ダイアローグから精神医療改革へ
高木 だよね。今の話をずっと聞いていて、だんだん組織のダイアローグの話になったじゃないですか。聞きながら、僕の中では一番最初の疑問だったんですが、竹端さんが組織改革より今は社会を変えるために自分が変わることですと言っていたんですよね。
僕はそのときに、自分が変わるのに忙しかったら社会が変えられないじゃないか、たいていの人は自分を変えるのに忙しくて社会に興味がなくなっているじゃないと思ってたわけだけど、ダイアローグを通して少し見えてきたのは、まずはダイアローグの姿勢というものが自分の中にできることで自分が変わっていく。それは本当は非常に難しいところだし、僕らが五年前にやった研修から五年間かけてようやくじわじわと分かりかけてきたようなところだと思うんですよね。
でも、そういうものが分かりかけていくと、今度は、自分の身の回りの小さなシステムを変えなければダイアローグができない。でも、ダイアローグができるようになればその小さな組織も変わるし、もう少し上のレベルでの変化も見えてくる、目指せるようになってくる。その積み上げなのかなという感じ。
そこで、ダイアローグと精神医療改革というのがようやく結び付く。その間を埋めていくのはすごく困難なことだけど、それを埋めていく作業が精神医療の改革につながる。それが、フィンランドでケロブダス病院が実現したようなことを日本でやっていけるようになる道筋なんだろうな。最初に竹端さんが挫折した国レベルを変えることはいつになるか分からないけれども、ダイアローグでそういう自分の身の回りの小さな組織を変えていく中で、今度は国レベルに飛び出す力のある人が出てくるかもしれない。
舘澤 組織においてトップダウンの決定だけでやっぱり組織は変わりにくいですよね。
高木 トップダウンでは変わらない。
舘澤 組織のトップや管理職がいまの現状がこうだからみんな変わろうと一方的にメッセージを出し、対話を呼びかけても、呼びかけられたほうは反応しにくいですよね。むしろ、その呼びかけに対して抵抗や警戒心をもおぼえてしまうでしょう。238-239頁
(中略)
竹端 ・・・。僕が「社会を変える前に自分が変わらないといけない」と思っている最大の理由は、「社会が変われ」と言ってるときは、どこかで「自分は悪くない」と思っているんですよね。でも、誰が悪いのかを糾弾しあうのではなく、「私のアプローチの変化によってあなたとの関係がどう変わるか」を探るのが、たぶんダイアローグのアプローチの基本だと思うんですね。やっぱりそれを愚直にやっていくしかないんじゃないかな。
高木 ・・・。個人や身の回りの声が届く変化というのがどう社会の変化につながっていくのかというのはまだまだ見えないけれども、以前トップダウンを期待してシステムを変えようとしたときよりはずっと見晴らしはよくなった気がするね。
道は長いというのが分かってもどかしいけど、見晴らしはいい。241-242頁
竹端さんは、「社会を変える前に自分を変えろ」というのだが、自分を変えるか、社会を変えるかという二つ、どちらが先という話ではないと思う。別のアプローチで同時にすすめる、あるいは両方を組み合わせて進めるべきものではないかと思うが、どうなのだろう。高木さんは控えめに、個人の変化が社会の変化につながるかどうか、見えないが見晴らしはよくなるという。もう少し突っ込んで聞いてみたいところではある。
そもそも、個人を超えて、構造がもたらす悪がある。構造に応じて個人は役割を果たし、それがさまざまな禍をもたらす。戦争や環境破壊はほとんどそのように起きてきた。それに抗う時に、「まず自分が変われ」という話ではないはず。もちろん、社会変革を担う主体が自らを問い続け変わることの必要性を認めないわけではない。20世紀の社会主義の失敗は、そこが不在だったというのも大きな原因ではある。しかし、「まず自分が変われ」というのではなく、構造がもたらす害悪への闘いのプロセスに自らの存在や課題を問うということを組み込むことが必要なのであって、先に自分が変われという話ではないはず。
上記の話に続けて「萃点(すいてん)」の話になる。竹端さんは社会運動の失敗はトップダウンで結束してやることが必要と思っていたが、中心が無数にある「萃点性」の必要性を解く。それを取り戻すのが、変動する人間関係のダイナミズムを動かしていく上で大事だという主張。さらにこの萃点の話を受けて、高木さんは「民主主義とは傷ついた人の声」であり、みんなが持っている小さな傷つき、その傷を汲み取り合い、聞き合うのがダイアローグであり民主主義だという。
そんな集団を基礎に社会を作っていく、「民主主義というのは傷ついたもの同士の語り合いであるみたいな感じ、なかなかt難しいけどね」(241頁)
という。
美しいというか、こうあって欲しいと思える民主主義のイメージではある。確かに、こんな組織を作っていきたいと思うし、小さな場所での可能性はあると信じたい。試行錯誤の中で、それを求めるプロセスこそが大切なのではないか。
その高木さんの話を受けて、竹端さんはあるべきリーダーのイメージをこんな風にいう。
トラウマのメガネで組織内の課題を眺めた上で、一人一人の傷つきについて安心して語れるような組織的基盤を保証するリーダー・・・リーダーに求められるのはそういう「傷ついた声がそのものとして出せるような組織作り」をどうできるのか、それを安心して聞けるような素地をどうつくれるのかということだと思います。(244頁)
これを受けて、リーダーが自らのヒエラルヒーの弊害についてダイアローグを続けなければならないこと、そのリーダーたちの対話が足りないこと、リーダーのピアサポートの必要、そもそもリーダはいるのか、対話をせき止めてしまっているのがリーダーではないかという。
最後に「傷ついた民主主義」みたいな話、ダイアローグによって社会が変わっていくときの目指す先という意味でももっと深めたい、という話で座談会は終わる。
「あとがきにかえて」で高木さんはソーシャルネットワークの重要性について書く。それは「親子・家族、友人、近隣、学校、職場」。ODの創設者たちの最初の本の原題は『ソーシャルネットワークにおける対話ミーティング』であり、【著者らによれば、近現代社会の特徴はこのソーシャルネットワークの機能不全が顕著になったことにあるという】(248頁)
ODもADもこのような現代社会に対する認識が背景にある、と書かれている。
そして、ODやADにい関して、高木さんは以下のように説明する。
その背景にある現代社会の認識を理解しないい限り、ODは精神病患者の疎外は¥をやはり特殊なものとして扱ってしまい、ADは専門的支援の失敗の責をその技術のまずさのみに帰して終わってしまうだろう。
それではADやODの意味が半減されるというか、ダメなのだと思う。
それに続けてこんな風に書かれている。少し長いが引用
現代の精神医学は精神病を脳の病変にのみ還元し、そこで想定される脳の化学的機能に対して薬物療法を行い、機能を修復させることに重点を置いている。ほんとうは、私たちはみなそれぞれ自分独自の脳神経系の多様性を抱え、自分の身体を含めたさまざまな環境やそれ以上に複雑に広がる人間関係の中で、それぞれの脳神経機能に見合った形でストレスを処理してきている。そのことは健常者と言われる人と精神病者とラベリングされる人の間に何の差もない。精神病者とラベリングされる人は、たまたま彼の脳神経機能の処理過程で幻覚や妄想という形で反応しやすいだけである。別の人は単なるイライラや怒りっぽさ、あるいは退却として反応しているかもしれない。ODは、互いに理解しあえる言葉をダイアローグによってつくりあげることで、両者の間に新しい現実を作り上げる。できあがった新しい現実の中で、精神病者の言葉は彼の特殊な脳の産物として共同の現実から疎外されることはない。
精神病者と彼をめぐるソーシャルネットワークの中で、ODによって生まれる新しい現実は、彼を取り巻くネットワークそのものを変容させる。ネットワークはそこから異質な人間、違うパースペクティブをもった人間を排除するのではなく、ネットワーク自身が変わるのである。これを積み上げていけば、ネットワークは社会の全体に近づいていき、社会はネットワークとともに変化する。ODは、精神病者を医学的観点によって治癒させるのではなく、彼が安心して過ごし、彼もまた周囲の人々との共同の現実を受け入れていけるような新しい共同体を準備するのである。そのとき、ODはすでに精神医学を超えている。
精神医学の中にあって、その精神医学を易々と超えるODは、いずれ社会のダイアローグそのものとなる。あえて言えば〈精神病者すら〉包摂するほどにダイアローグが成熟した社会は、他の誰にとっても安心できる生きやすい社会であろう。そして、そのような社会は、現代の私たちが慢性的に抱かざるを得なくなってしまっている流動性と不確実性に対する強力な抵抗の基盤となる社会である。それは新しい共同体を希望する。
3・11以後の、そしてトランプ以後、コロナ以後の社会はますます管理化されすべてが監視され、流動化しながら閉ざされようとしている。社会がモノローグ化しているのである。ダイアローグは、そのような社会を打開する、内側からの、日々の私たちの生活からの変革を夢見させてくれる。
夢?
だが、私たち精神医療や心理療法、障害者援助に携わる者が、 そして、排除され無視されてきた 人々が望んできたそのような夢は、実は私たちの日々交わす言葉によって作り上げていく現実であると、ダイアローグの思想は語りかけてくる。249-251頁
現状の精神療法の歪みを照らし出す鏡としてのODというような話も興味深いのだけど、ぼくには民主主義のベースにあるはずの対話、それを実現するためにODについて考え、学ぶことが一助になるという話がとても興味深かった。
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