障害の社会モデル、世界的には「過去の遺物」?(本じゃなくて論文の「ほん紹介」68回目)
2023年10月に掲載されたたこの木通信の原稿。
ちなみにたこの木通信、みんなに読んでもらって、会員になって欲しいとのことで、最近のものはダウンロードサイト https://takonoki2023.seesaa.net/ のパスワードが外してあるそうです。
このテーマに深く関連した研究会につい昨日(12月2日)に行ってきたので、そのことも最後に少し加えます。
まずは原稿。
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障害の社会モデル、世界的には「過去の遺物」?
(本じゃなくて論文の「ほん紹介」68回目)
先月の続きは書けなかったけれども、ちょっとだけ関連した話。表題は9月に行われた障害学会のシンポジウムの趣旨文にあった言葉から。少し長めに引用してみる。
2003年に障害学会の設立総会が開かれてから、20年が経つ。この間、日本の障害学は、従来の障害研究のパラダイムを超える新たな実践的・理論的な知を生み出してきた。その中核となってきた理論的・認識論的なフレームワークが「障害の社会モデル(social model of disability)」であったことについて、概ね異論はないだろう。そして、今なお「社会モデル」の政策論的・運動論的・学術的な意義は失効していないように見える。
ただし、この「社会モデル」はM.オリバーが1983年にその概念を提起してから40年が経過した現在、学術的な観点からはその限界や難点が厳しく論難され、実践的な観点からは新たな「モデル」の提示が要請されてもいる。率直に言えば、世界的には「過去の遺物」と捉えられるものになりつつあるといっても過言ではない。私たちはこの「日本」と「世界」のギャップをどのように理解すべきだろうか?
(中略)
・・・。英語圏で捨て去られようとしている古典的バージョンの「社会モデル」と、日本で命脈を保っているように見える「社会モデル」とは似て非なるものである可能性は否定できない。
先月紹介した( https://tu-ta.seesaa.net/article/500996965.html )本の著者の飯野さんや星加さんも登場し「社会モデル」を再考するこのシンポジウム。ここに登場したパネリストの辰巳一輝さんの『2000 年代以後の障害学における理論的展開/転回』という文章がWEBで公開されていたので読んだ。面白い。まず、なぜ日本と世界のギャップがあるのか、という話について、こんな風に説明されている。
一つ根本的な要因を挙げるとすると、障害研究を発展させていくためには古典的な障害学における道具立てで十分事足りており、(少なくとも現状は)それ以上「理論」から何かを得る必要はない、むしろ現場における「実践」の方を重視すべきである、という認識 が存在しているからだという。
そして、上記の障害学会の案内文にあるような英語圏での従来の障害学を批判的に刷新する理論の説明があり、その問題意識が以下のように表されている。
いわゆる「近代」を支える諸前提(「人権」概念、諸個人の自律性autonomy、資本主義的「労働」を至上とした価値基準)・・・そのものに疑いをかけ、「近代」的ではない別の政治の可能性を探究すること
そして、その従来の障害学を批判的に刷新したとされる批判的障害学 Critical Disability Studies(以下 CDS と表記)と呼ばれる新たな潮流についての説明がある。この論文ではCDSの6つの特徴が紹介されている。
その最初に上げられているのが。「既存の障害学が立脚してきた諸前提や枠組みに対する批判的再考」という話だ。それは古典的な障害学におけるインペアメント/ディスアビリティという切り分けや個人モデル/社会モデルといった二分法そのものに対する疑義であり、
CDS は、私たちが(社会的に構築されたディスアビリティとは区別して)「自然 natural」で不変の事実とみなしてきたインペアメントさえもが、実は社会的・文化的な背景から構成されたものであり、歴史的にみれば「近代」以降の産物に過ぎない
という。
以前、この連載で社会モデルが破綻しているのだから、『障害学は終わった』と主張する本(『障害社会学という視座』)を紹介したが、英語圏の障害学はその社会モデルが破綻しているということを前提に、次のステップに進んでいたのだった。で、CDSの二つ目の特徴は批判を可能にする道具の話
CDS は、現象学からポスト構造主義に至るまでの 20 世紀以後の(主に大陸の)哲学の知見を障害研究へと積極的に導入
とのこと。ここで紙幅が尽きた。この論文で面白いのが、理論と実践というこれまでの二項対立を超えるという話なんだが。(続けられるかどうか不明)
~~原稿、ここまで~~
で、最初に紹介した研究会、タイトルは以下。
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