徐京植さんのこと(追記あり)
徐京植さんが亡くなったとのこと。
https://digital.asahi.com/articles/ASRDM6G0TRDMUCVL04J.html
https://digital.asahi.com/articles/ASRDM6G0TRDMUCVL04J.html
これから、追悼の文章が書かれることになるのだろう。誰が書くのかな?
ぼくは丸木美術館で行われた鄭周河写真展「奪われた野にも春はくるか」
https://www.tokyoartbeat.com/events/-/2013%2F22B3
の関係で何回か同席させてもらった記憶がある。
また、花崎皋平さんとの論争もあった。
こんなコメントが残っていた。
1-5 花崎と徐京植の論争
この論争に関する太田昌国さんの評価
http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2002/hantom.html
評 徐京植著『半難民の位置から:戦後責任論争と在日朝鮮人』(影書房、2800円)
花崎皋平著『<共生>への触発:脱植民地・多文化・倫理をめぐって』(みすず書房、2800円)
「季刊ピープルズ・プラン」第19号(2002年夏)掲載
ぼくはここの太田さんの評価にとても納得したが、花崎さんが言っていることが「徐京植さんの言い方は、それじゃ抑圧してる側のピープルにはちゃんと伝わらないと思うよ」ということなら、そういいたい気持ちはわかるような気がする。しかし、当然にも差別されている人が差別している側に配慮しなければならないということの歪みをどう考えたらいいのか、という課題はある。
これは2005年にアップロードしてる。~~
徐京植さんと同席したときに、ちゃんとこの話を聞く勇気がなかったのだと思う。。
『ディアスポラ紀行』の読書メモも残っていた。
https://tu-ta.seesaa.net/article/200805article_8.html
ここではこんなことを書いていた。
徐京植さんと同席したときに、ちゃんとこの話を聞く勇気がなかったのだと思う。。
『ディアスポラ紀行』の読書メモも残っていた。
https://tu-ta.seesaa.net/article/200805article_8.html
ここではこんなことを書いていた。
正直に書くと、徐京植さんの折れそうなぐらいまっすぐなところはちょっと苦手だ。そう、こんな風に「苦手」と言ってしまえる側にぼくが生きていることには自覚的である必要があるんだと思うけれども、でも苦手なものは苦手。花崎さんとの論争でも正しさは徐京植さんのほうにあるように思う。だけど、その正しさの前にたじろいでしまうぼくはいる。
そう、彼が折れそうなぐらいにまっすぐに正しいと感じるその折れそうなところがこの本を読むと少し理解できたような気になる。
これらは直接出会って話す前の印象。直接会って、ずいぶん印象は変わった。
ちょっと見は貫禄のある昭和の親父。でも連れ合いには弱い、ディアスポラ紀行にあるようなセンシティヴィティはほとんど感じられないけど、垣間見えることもある。
そんな感じだった。
いまでも、花崎さんとの論争のことを聞きだす能力や根性はないけど、そのことはちゃんと聞いてみたかった、とも思う。
翌日の追記
これらは直接出会って話す前の印象。直接会って、ずいぶん印象は変わった。
ちょっと見は貫禄のある昭和の親父。でも連れ合いには弱い、ディアスポラ紀行にあるようなセンシティヴィティはほとんど感じられないけど、垣間見えることもある。
そんな感じだった。
いまでも、花崎さんとの論争のことを聞きだす能力や根性はないけど、そのことはちゃんと聞いてみたかった、とも思う。
翌日の追記
思いだしたのは、40年以上前の学生の頃のこと。金大中事件があり、彼の救出運動や、以前からの韓国民主化運動連帯の運動が盛り上がった時期があった。以前からの韓国民主化運動連帯の運動に連なるぼくたちのスローガンは「金大中氏を救え」ではなく「金大中氏らを救え」と「ら」の字が含まれていた。その「ら」の中にソキョンシクさんの兄弟も含まれていたのだった。
徐京植さんが亡くなったのは残念で追悼するのだけど、彼の追悼で「安らかに」というのは、少し違うような気がした。
徐京植さんが亡くなったのは残念で追悼するのだけど、彼の追悼で「安らかに」というのは、少し違うような気がした。
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