2024年、新しい年を迎えた挨拶。状況に絶望しつつ、楽しく生きるということ。
あけましておめでとうございます
というのに、どうしても躊躇してしまうのは今年で65歳になるというのに、いつまでも大人げない自分の性格の影響は大きいのかもしれませんが、やはり、世界が「おめでとう」と素直に言えるような状況にないことが大きいと思うのです。
ウクライナでの戦争が終わる気配もないまま、パレスチナでも多くの人が殺され続けています。
SDGsとか言いながら、二酸化炭素を減らすことよりも経済成長を追い求めるメインストリーム。
電気を大量に使って生産する野菜工場がSDGsだというコンビニのCM。セブンイレブンでしたっけ?
リサイクルボックスがあるからと、まだ着れる服を処分させて、新しい服を買わせるSDGs。これはユニクロ。
職員が一生懸命やっても150円に満たない工賃で働かせて、平気な大企業、これはバイセルテクノロジー。
(以下、追記;最初に300円と書いたのですが、訂正しました。で、説明を加えます。バイセルが作業所に出している切手をシートに貼る仕事があるのですが切手で1枚0.3円1シート50枚で15円。最初に切手を仕分けてからシートに貼るまでの作業、障害がない人がやっても1時間10枚できればいいほう。バイセルテクノロジーにそちらで1時間に何枚できるのか、コンプライアンスの問題としてどうなのかと問いかけたら、1時間15シート(225円)でコンプライアンスの問題はないとのこと)
というのに、どうしても躊躇してしまうのは今年で65歳になるというのに、いつまでも大人げない自分の性格の影響は大きいのかもしれませんが、やはり、世界が「おめでとう」と素直に言えるような状況にないことが大きいと思うのです。
ウクライナでの戦争が終わる気配もないまま、パレスチナでも多くの人が殺され続けています。
SDGsとか言いながら、二酸化炭素を減らすことよりも経済成長を追い求めるメインストリーム。
電気を大量に使って生産する野菜工場がSDGsだというコンビニのCM。セブンイレブンでしたっけ?
リサイクルボックスがあるからと、まだ着れる服を処分させて、新しい服を買わせるSDGs。これはユニクロ。
職員が一生懸命やっても150円に満たない工賃で働かせて、平気な大企業、これはバイセルテクノロジー。
(以下、追記;最初に300円と書いたのですが、訂正しました。で、説明を加えます。バイセルが作業所に出している切手をシートに貼る仕事があるのですが切手で1枚0.3円1シート50枚で15円。最初に切手を仕分けてからシートに貼るまでの作業、障害がない人がやっても1時間10枚できればいいほう。バイセルテクノロジーにそちらで1時間に何枚できるのか、コンプライアンスの問題としてどうなのかと問いかけたら、1時間15シート(225円)でコンプライアンスの問題はないとのこと)
これ以上、福祉にかけるお金がないと、そこにかける予算は最低限の自然増に応える分にも足らない状況、そんななかでヘルパーがいなくなってるのに、他方で人殺しの武器を買うお金はどんどん増やすという政府。
戦争を国際紛争の解決の手段として選択しないという憲法を定めたはずなのに、敵基地を攻撃する能力が必要だとして、琉球弧(南西の島々)にミサイルを配置し、沖縄に犠牲を押し付け、そこで示された意志を無視し続けるだけでなく、多くの専門家が出来ないと言っている埋め立て基地建設を、自治権を強奪してまで進めることを強要するこの国の司法と行政。
そんな中で「あけましておめでとう」って素直に言えないのは、そんなにおかしいことでもないんじゃないかと思うのです。
もちろん、そんな状況の中でも、なんとかしようとメインストリームに対抗している人は知っているし、ぼくもその一人でありたいと思います。メインストリームを変えたいと願う人は増えているかもしれませんが、その増え方で戦争や環境破壊はいつになれば止まるのか、そんな風に状況が絶望的であるということは、はっきり認識する必要があるのではないかと思います。
絶望的な状況であるということは認識しながら、それでも一筋のかすかなひかりを探し、次世代につなげていこうという気持ちが大切なのかもしいれないと思ったりします。
民主主義のベースにあるのは多数決や選挙ではなく、対話であるはず。面倒でも時間をかけて対話を重ねること、わかりあえないと思える相手にも対話をあきらめないこと、それが小さな小さな個の部分から、自分の家族、自分の職場、住んでる地域、区市町村、国、そして地球サイズにまで必要とされているように感じています。
対話を拒否して、人の話を聞こうとしないという態度が、家族も職場も、地域も、国も。地球も壊していっているように思えてなりません。
戦争を国際紛争の解決の手段として選択しないという憲法を定めたはずなのに、敵基地を攻撃する能力が必要だとして、琉球弧(南西の島々)にミサイルを配置し、沖縄に犠牲を押し付け、そこで示された意志を無視し続けるだけでなく、多くの専門家が出来ないと言っている埋め立て基地建設を、自治権を強奪してまで進めることを強要するこの国の司法と行政。
そんな中で「あけましておめでとう」って素直に言えないのは、そんなにおかしいことでもないんじゃないかと思うのです。
もちろん、そんな状況の中でも、なんとかしようとメインストリームに対抗している人は知っているし、ぼくもその一人でありたいと思います。メインストリームを変えたいと願う人は増えているかもしれませんが、その増え方で戦争や環境破壊はいつになれば止まるのか、そんな風に状況が絶望的であるということは、はっきり認識する必要があるのではないかと思います。
絶望的な状況であるということは認識しながら、それでも一筋のかすかなひかりを探し、次世代につなげていこうという気持ちが大切なのかもしいれないと思ったりします。
民主主義のベースにあるのは多数決や選挙ではなく、対話であるはず。面倒でも時間をかけて対話を重ねること、わかりあえないと思える相手にも対話をあきらめないこと、それが小さな小さな個の部分から、自分の家族、自分の職場、住んでる地域、区市町村、国、そして地球サイズにまで必要とされているように感じています。
対話を拒否して、人の話を聞こうとしないという態度が、家族も職場も、地域も、国も。地球も壊していっているように思えてなりません。
今年の3月で1984年から働いていた東京コロニー大田福祉工場を去ることになります。こんなに長く働いたのに、大田福祉工場や東京コロニーという場所でさえ呼びかけてもなかなか応えてもらえない、対話する空気をちゃんと作れていないことに忸怩たる思いは消えせんが、そんな言葉を残して去るしかないような状況です。
暗いことばかり書いてしまいましたが、こんな絶望的な状況を認識しながら、それでも日々を出来るだけ楽しく、笑いながら過ごすという、とても矛盾しているように見える態度も、また必要とされているのだと思います。
怒ったり、悲しくて泣いたりすることは必要だと思うものの、そんな感情に支配されて生きていくのはつらいです。
日常に小さな楽しみや美しさを見つけることは、そんなに難しい話ではないはず。社会運動の中にもそれは求められていると思います。
状況への客観的な絶望と、日常や社会運動での楽しさや美しさや達成感、その両方が必要なのではないか、困難な状況でこそ、笑いや楽しさを失わずに、今年も生きていきたいと思うのでした。
今年芋、よろしくお願いします。
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