『超人ナイチンゲール』メモ

読書メーターに書いたメモをほぼそのままコピペ。なので、いつも以上に断片的。



図書館でちょっとの順番待ちの後、借りて快適に読みい始めたのだけど、最初の方にある神秘主義の説明のところで、ぐっとスピードが落ちた、というかほぼ止まった。とりわけ「未来の永遠」とか「過去の永遠」とかのところで(39頁)。「いま」はおそらく永遠に「いま」であり、永遠に更新し続けている。それなら、わかるんだけど、「未来の永遠」とか「過去の永遠」って何だろう? 続きを読むとわかるかなぁ? で、「懐かしい未来」まで出てくるんだけど、やっぱりよくわかんなかった。で、栗原くんが書いてるように彼女が本当に脱病院とか、ほんとかなぁと思いつつ。


そうそう、この【〈ポスト資本主義アナキズム〉ってな〜んだ 〜新春わくわくトーク〜 神長恒一・栗原康】https://store.kinokuniya.co.jp/event/1705980713/ っていうイベントに行って、超久しぶりに栗原くんに会ったのだった。100円のビールの店で二次会にも参加。ナイチンゲールを読もうと思ったのは、その前だったか、後だった忘れたけど。このところ、ちょっと有名になった栗原くんは2008年洞爺湖サミットの頃に出会ってた栗原くんと、ぼくの印象ではほとんど変わっていなくて、「いいやつ」な感じ。ぼくの記憶ではたぶんそれ以降は会ってないので、16年ぶりか。21世紀が始まったばかりの頃はattacで同席していたはず。


シモーヌ・ヴェイユの引用も興味深かった。
「マルクスが宗教に与えた民衆の阿片という名は、革命がその本性をあらわにするときには、革命にふさわしいものでありえた。だが、民衆の阿片という名は本来的に革命に当てはまる。革命への希望はつねに麻薬である。」
栗原くんの表現を借りると「革命Disり」。


111頁ナイチンゲールの小説「カサンドラ」からの引用。
「この因習に満ちた社会は男性が女性たちのためにつくったもの。そして女性もこれを受け入れてきた。この社会では、女性はなにも所有してはならず、猫かぶりの道化芝居を演じなくてはいけない。そして女性には情熱などないと嘘をつく。自分にも嘘をついているのだから、娘たちにほかに言いようがない」
これを19世紀半ばに書いているってことがすごいと思う。

カール・マルクスが書いた新聞記事の紹介もいい。
「必要な補給品が目と鼻の先にあるのに、その場には誰一人、自分の責任で緊急の必要に応じ、しきたりを破って行動する気概のあるものはいなあかった。それをあえてやった人物が、ミス・ナイチンゲールだ。彼女は必要なものが倉庫にあることを確認すると、何人かの屈強な男を連れて、女王陛下の倉庫に押し入り、強奪した」169-171頁
(途中の1頁分の大きな挿絵もいい)。

『看護覚え書』の冒頭部分からの引用、ナイチンゲールによる病気の定義。
「すべての病気は、その経過のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は回復過程であって、必ずしも苦痛をともなうものではないのである。つまり病気とは、毒されたり衰えたりする過程を癒そうとする自然の努力のあらわれであり、それは何週間も何カ月、ときには何年も前から始まっていて、このように進んできた以前からの過程の、そのときどきの結果として現れたのが病気という現象である」182頁。
えっと思わず声を出したくなるような定義。

「毒されたり衰えたりする過程」が病気だと思っていた。そうではなくて、それに抗って、回復しようとする過程が病気だとのこと。そんな風に見ていくと、確かに違う風景が見えるかもしれない。 で、ここから続く栗原くんによる解説の文章がさらに面白い。ジェームス・スコットの論をおそらくかなりい荒っぽく、でも面白く紹介し(ぼくは読んでないから知らないけど、彼は「文明を捨てろ」と言ってるとのこと。)その上で、この病気を自然が回復するという自然に物資手的な意味だけでなく思想的な意味をこめていたと思う、と書く。

ナイチンゲールは【看護が自然な行為で、利益や正義のためではなく、誰に命じられたわけでもないのに、ときに無意味だとわかっているのに、それでも絶対的な力で動かされる行為であり、看護にわけなどいらない、それが自然の働きだというのを同様に、健康/病気、正常/異常、医師/患者、というような二項対立でものごとをとらえないこの見方が病気観にもつながっている】と栗原くんは書く。

あ、忘れてた。その説明の前に、専門家がコントロールするのではなくセルフコントロールだと言っているわけでもないという注意喚起があって、『ケアのロジック』の話に移る。そこで糖尿病を例にした説明が栗原くん流に要約して書かれているのだが、この要約された文章、ぼくには読み取れなかった。そもそもここで否定されている「選択のロジック」は、コントロールを前提とし、よりよい知識と薬と機材をもっていれば、よりよい身体はつくりだせる、キープできると思っている。しかし、糖尿病はコントロールできないのだから、そんなものでコントロールするのではなく、病院に行って診てもらえ、とか書かれている。それがケアのロジックと言われても困る感じはあるのだが、ここの例で何を言いたかったのか、ぼくにはわからない。「選択のロジック vs ケアのロジック」というのがこの節の小見出しなのだが、説明をまとめてある部分には、その二つに加えて、「近代医療のロジック」というのが、入ってきている。頭が悪いぼくにもわかるように書いて欲しいぞ>栗原くん。

ともあれ、このすぐ後にモルの話がこんな風に書かれている。「ケアのロジック」がだいじ。治らない病気。身体は予測不可能で気まぐれ。よりよい選択肢はない。だが、それでも何かしようとして試行錯誤する。あれでもない、これでもないといいながら未知の領域に踏み込んでいく。コントロールを求めずに動く。で、モルいわく。「ケアすることは、死すべき運命を持った身体に波長をあわせ、尊重し、慈しみ、楽しみさえすることなのだ」 って、こんな風に書かれているんだが、やっぱりわからない。189頁  重度知的障害者の支援で「予測不可能で気まぐれ。よりよい選択肢はない。だが、それでも何かしようとして試行錯誤する。あれでもない、これでもないといいながら未知の領域に踏み込んでいく」というのは重なる部分は多いかも。ただ、「よりよい選択肢はない」という部分には違和感が残る。求めるということは、あるというのが前提なので、「よりよい選択肢はない」と言われてしまうと、そこだけは違うと思う。

3つのロジックの説明。

 1、近代医療のロジック:上からの支配、専門家のコントロール。 
 2、選択のロジック:自律、患者のセルフコントロール。 
 3、ケアのロジック:自然、コントロールをもとめない、波長をあわせる。 188頁



こんなことも書かれている。  「懐かしい未来、たしかナイチンゲールは、永遠の過去が永遠の未来と合致していく、という表現をつかっていたとおもう。なぜという問いなしに生きる。ひとだすけに根拠はいらないのだ」219~220頁。 やっぱり、わからない。 ところで、この「懐かしい未来」という表現を栗原さんはどこから持ってきたのだろう。ヘレナ・ノーバーグ・ホッジからか? それとも音楽からか、あるいはまったく関係ないのか、気になるところ。


それから興味深いのがナイチンゲールが看護師の国家資格化に反対したということ。247~248頁 「ただ人を救いたい、支配のない共同の生をつくれるかどううか。ケアは繊細なのだ」 「そんな厄介なものを点数ではかれるわけがない。ともになたらきいながら、ゆっくり身体でおぼえてゆくしかないのである」「看護師の国家登録制度は、看護にとって最もだいじなものを破壊しようとしている」。このときは反対運動がまきおこって、看護師の登録制度は阻止され、それが始まったのはナイチンゲールの没後、とのこと。(続く


障害者介助の資格問題とも少し似ているように感じる。社会福祉士の国家資格の問題にはもっと通じる。ヘルパーの資格のような最低限の知識の有無を問う、講習を受ければほぼ誰でも取得できるような資格の必要性に対しては肯定的な感じもしないわけではない。しかし、社会福祉士って、いったいなんだろうと思う(ぼくの名刺にも記載されてるけど)。7年くらい前に資格をとったときの試験問題の無意味さは忘れられない。その制度を誰がどこでいつ作ったかを覚えることにどんな意味があるんだろう。と同時に国家資格化がもたらす危険とか、そんなことが試験で問われることはない。障害者権利条約に関して、日本に対して国別審査が行われ、そこで多くの問題が指摘されたが、その多くを日本政府がネグレクトしていることなどが試験の問題になることもなさそう。「ソーシャルワーク」を考えるとき、そのあたりの課題を考えることは不可欠だと思うのだけど。



249頁から書かれている話も面白かった。病気にならないためのアドバイスを求められたナイチンゲールは公衆衛生のいろはを教えて感謝される。そこから、各地域に専門家ではない、ある程度の知識をもった「ヘルスコミッショナー」の配置の有効性に気づく、という話。中国の裸足の医者とか、キューバの医療の話にもつながるのではないか。そこから栗原くんは「脱病院化」という思想につなげて、ナイチンゲールの思想をそう呼ぶ。そこまで言ってしまっていいのかと思う。とりわけ栗原くんに。まあ、面白いけど(笑)。


イリッチの脱病院・脱施設を読んでなくて、中身を知らないんだけど、違うことが前提でつながることもありそう。疲れたから、そろそろメモは終わり。いま、大田区の図書館のサイトで見たら、3冊あるんだけど、待ってる人が23人もいる。早く返さなきゃ。統計と神秘主義と関係を書いた部分の怪しさとかにも触れたいような気はしたんだけど。 そうそうメモを書き終える頃に、腰が低くて、いつもニコニコしてる栗原くんの顔が浮かんできた。このはちゃめちゃな文体とリアルの栗原くんのギャップも楽しかった。ま、彼のことは表面しか知らないけど。


いいま、気づいたんだけど、この読書メモも栗原くんの文体に影響されてるかも、と思えてきた。


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