「いちばん助けが必要な人たちを助けること」(シューマッハ著『『スモール・イズ・ビューティフル』から)

いちばん助けが必要な人たちを助けること


鷲田さんは3月30日の「折々のことば」(3042) https://digital.asahi.com/articles/DA3S15899889.html でシューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』を引用して、以下のように解説します。

半世紀前、貧困層と富裕層への社会の二極化を憂えた英国の経済学者は、地方社会の疲弊にまず眼(め)を向けた。そして経済指標より、人々の雇用機会と内容を充実させる必要を訴えた。この必要はその後昂(こう)じる一方だったが、グローバルな要因が複雑に絡むようになり、それを透視することもさらに難しくなった。

確かに「グローバルな要因が複雑に絡む」社会では、誰が「いちばん助けが必要な人たち」なのか見分けるのは難しいかもしれません。

しかし、ここはそんなに難しく考えるべきなのでしょうか? ぼくには、そのようには思えません。 とりあえず見えている「いちばん助けが必要な人たちを助けること」が求められていると思います。

国内でも、国外でも。政府も個人もさまざまなグループも、見える範囲で「いちばん助けが必要な(と思える)人たちを助けること」のために手も頭も動かすことが求められているのではないでしょうか。

鷲田さんは「経済指標より、人々の雇用機会と内容を充実させる必要を訴えた。この必要はその後昂じる一方だった」と過去形で書きますが、いまも、間違いなく、「経済指標より、人々の雇用機会と内容を充実させる必要」は高まり続けているはず。だから、ここは誤解を招かないように「この必要はその後、昂じる一方なのだが」と書くべきではなかったかと思うのでした。

いまもメインストリームの社会では「人々の雇用機会と内容の充実よりも経済指標が優先させる政策がまかり通っています。原発が止められないという問題も、ガザを支援してイスラエルに強く制裁できない問題もそれを示しているのではないかと思えてなりません。

半世紀以上も、このシューマッハが書いたことが実現できていない社会のありようを問われています。そして、見の前にいる「いちばん助けが必要な(と思える)人たちを助けること」ができる社会をめざすこと、また、僕自身が、そのように動けるようになりたいと思うのでした。

「それを透視することもさらに難しくなった」と嘆く前に。

P.S.
「鷲田さんも基本的にはそのように考えているのではないか」とも思うのですが、誤解を生みかねない表現だと感じたのでした。

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20年くらい前にこのような話を書いています。

必要なものを必要な人へ、現状の破滅的な社会の生命力を超えて
https://tu-ta.seesaa.net/article/200706article_15.html





https://tu-ta.seesaa.net/article/200706article_15.html

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