記憶継承を誰が担うのかということ
4月1日の朝日新聞の「折々ことば」で、また立ち止まる。
記憶継承とは、本質的に、“当事者”ではない者たちが担うべきものではないか。 (瀬尾夏美)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15901106.html
随想「声を運ぶ船」(「世界」3月号)から、とのこと。
この文章を読んでみたくなった。まだ読んでいない。
鷲田さんの短い説明を読んだだけの段階での感想。
最初に「本質的に」ちょっとひっかかる。誰が担うか、というときに「本質的に」と言えるのかどうか。
そして、この内容。
【本質的に、“当事者”ではない者たちが担うべきもの】かどうかは議論が分かれるところだと思う。
体験したものは声を出せないことが多いのは、トラウマの環状島モデルを持ち出すまでもないだろう。さらに体験は1世代限定だ。そういう言意味では【“当事者”ではない者たちが担う】大切さは間違いない。
しかし同時に体験していないものが、体験したものの声を奪ってきたということも少なからずあったのではないか? 体験していないものが想像したストーリーに乗せられ、都合のいい部分だけ切り取られた「記憶継承」に陥る危険もあるだろう。
丸木俊・位里の『原爆の図』など、いくつかの社会的なテーマを扱った絵画連作も【“当事者”ではない者たち】の絵であるが、当事者が描いた絵も多数ある。
ここでも大切なのは時間をかけた対話なのではないか。体験した人の声を、ときに声にならない声をゆっくり時間をかけて聴き取ろう。急いだり、急がせたりするのは、たぶんよくない。 聞かれる人との親密な関係が必要な場合も多いかもしれない。そんな対話をベースにした記憶継承が必要なのだと思う。
この折々のことばの解説で鷲田さんは
「13年経って被災の中心にいた人も少しずつ減ってゆく中、苦しい記憶を反芻し続ける被災者の辛さも、被災地外の人が語る時のひけめもぜんぶ包み込んだ上で、記憶をつなぐ新たな協働の形を模索する」
と書いている。その通りだと思った。やっぱり随想本体を読んでみよう。
P.S.
「折々のことば」ファンなんだけど、毎日読んでるわけじゃなくて、たまにまとめて読んでいる。こういうときWEB版の新聞は便利。
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