『彼は早稲田で死んだ』という映画の宣伝から考えた『暴力の行使』や『殺すな!』ということ

ぼくのフェイスブックにはゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』 http://gewalt-no-mori.com/#modal の宣伝がたくさん流れてくる。指向が読み取られているのだと思う。

その流れてくる宣伝をきっかけにコメント欄に書こうとしたのだけど、長くなったので、こっちに掲載。

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書籍版の『彼は早稲田で死んだ』にナマケモノ俱楽部の代表の辻さんのインタビューが掲載されています。

この事件当時、彼は革マル派のメンバーで自治会のけっこう怖い活動家だったとのこと。

彼がインタビューに応じて、それが刊行されることを認めた勇気は、他の元革マル派の活動家が持ち得なかったもので、そこは彼の真摯さが表現されていると思いました。

しかし、そのインタビューを読む限りでは、身近で起きた内ゲバ(少なくとも彼が親しかった活動家が関与しているはず)でノンセクトの活動家が殺されたことや、それがどんな意味を持っていたのか、といったことにちゃんと向き合えているのだろうかという疑問も残りました。

彼は革マル派を離れて渡米し、そこで鶴見俊輔と出会ったことで変わったという話をどこかで読むか聞くかした、おぼろげな記憶があります。

彼は帰国後、スローであることや、弱くあることを主張する運動を展開し、その思想についても書き記していいます。その彼が活動家の死まで招いた自らの「暴力」の経験と正面から向き合い、「暴力」について語ることを期待しています。そこから見えてくることは多々あるのではないかと思うのです。


ぼく自身は80年代の前半、内ゲバ反対を標榜する党派の影響下の活動家でした。三里塚闘争の方針をめぐって、中核派と対立し、中核派から「せん滅」の対象だというビラを配られたこともありました(保管しておけばよかった)。そして、その頃は自分のアパートに帰って寝ることさえできませんでした。知り合いが襲撃され、足を切断するという被害もありました。

そんな経験があるので、ほんとうに内ゲバは許せないと当時から強く感じていました。たから、いまでも中核派や革マル派は大嫌いです。解放派はほとんどなくなってしまったように見えますが。

しかし80年代の当時、ぼく自身、権力に対する『暴力』の行使はあるという立場でした。内ゲバやテロリズムには反対しつつ、ゲバルトはOKというような・・・。そんなスタンスを取っていたことの意味を、いま再び、ちゃんと考える必要があるのだと考えています。とはいうものの、その作業は遅々として進んでいませんが。

・強大な軍事力を持つ権力とどう向き合うのか?
・国家間の殺し合い、暴力=軍事力の行使=戦争をどう考えるのか。

・侵略された側の抵抗のための暴力の行使をどう見るのか?

・民主主義と暴力の行使の関係をどう捉えるのか?

・大衆的実力闘争と暴力の関係は?

・権力を掌握し、暴力を手にしたとたんに、その権力が専制政治に変化する事例の多さというか、ほとんどすべてそうなっていないか?
それらの問いは単純に答えが出るような話ではないだろうと思います。

ただ、とりあえず『殺すな!』というスローガンを置いてみたいと考えています。どんな場合においても。

同時に『殺すな!』を貫徹することの困難にも目を背けるべきではないと考えます。


とりわけ、酷い虐殺が続いているにもかかわらず、主要国と言われるどの国からもイスラエルに対する経済制裁をというような声が聴こえてこないパレスチナで、どのような抵抗があり得るのか、ハマースに代表される勢力の抵抗をどう考えるのか、ハマースの戦術や彼らの行動を批判することは容易ですが、その批判に隠されているものも、見ていく必要があるでしょう。

繰り返しになりますが、そのように複雑で簡単には答えが出ない状況を認識し、自らが背負ってきた暴力性をも自覚した上で、それでも『殺すな!』というスローガンを仮説として立てて、その原則の下で、具体的にどのようなことを主張しえるのか、ということを考え続けたいと思っています。

とても、困難な道で、それを前提に社会変革を構想することは、針の穴に大きなものを通すような困難さを伴うものだという自覚も必要だと思います。

もっと言えば、9条国家、日本国憲法9条の精神を生きるというのはそういうことなのではないかとも考えています。



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