『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ目次

先日の「折々のことば」(朝日新聞)で『スモール イズ ビューティフル』から紹介されたのを受けて、それへの違和感をブログに書いた。https://tu-ta.seesaa.net/article/502850661.html

そして、『スモール イズ ビューティフル』の読書メモが残っていないか、探してみた。でも、『スモール イズ ビューティフル』は読書メモを残す前に読んだ本だったので、メモが残っていない(推測)。ただ、『スモール イズ ビューティフル再論』の読書メモは9本も残っていたので、ここに目次を作って置く。

ちなみに、出版社(講談社)のサイト https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151025 の内容紹介は以下

内容紹介

『スモール イズ ビューティフル再論』ちょっとメモ その1
https://tu-ta.seesaa.net/article/200801article_10.html
この本での引用の引用の引用

環境悪化が提起する問題は一義的には技術的問題ではない。もしそうなら、技術の先進社会でそれがもっとも深刻な形で起こるはずがなかったろう。原因は科学的ないしは技術的能力不足や科学教育の不十分、情報不足とか訓練された人員の不足、あるいは調査研究資金の不足のいずれでもない。原因は現代社会の生活様式にあり、それはまた現代世界の基礎的信条――いうなればその形而上学によるものである。

『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その2
https://tu-ta.seesaa.net/article/200801article_13.html

ダイアナ・シューマッハーによる序文から引用
シューマッハが本書で論じている問題の大部分は、残念ながら現在も存在するどころか、この20年間の間に悪化しているのである。
 必要な知識と道徳的な勇気を身につけて、現在の危機の打開策を見出し、あらゆるレベルで平和を築きあげるのが、新世代の任務である。変革という課題を担う個々人、同じ「案内図」を使う気のある個々人が手を組むことが重要である。『グッド・ワーク』のなかで、シューマッハーは次のように述べている。
 私は意気消沈などしていない。私の手ではよりよい世界へわれわれの船を送りこむ風は起こせない。だが、帆をあげるぐらいはできるから、やがて吹く風をつかまえることはできる。23p

『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その3
https://tu-ta.seesaa.net/article/200802article_2.html

~~部分引用~~
シューマッハが40年以上前のビルマで見た物質主義にそんなに犯されていない暮らしは、たぶん都市部では変わっているだろう。しかし、広範な農村部ではまだ残っている部分もあるかもしれない。このあたりのことがどうなのか、ということがかなり気になる。イヴァン・イリッチは西欧の価値観が支配する近代を経過する必要のない地域がまだたくさんあると30年くらい前には書いていた。現在、どこまでそう言えるのか。西欧的な近代的価値観を回避して、新しい時代を展望することのできる地域がまだ残っているといえるのかどうか。

シューマッハはこのエッセイでは経済学の方法論の論議ではなく、「基本的な問題をとりあげて、それを現代経済学から見た場合と、仏教経済学から見た場合とで、どのように違うか眺めてみよう」とする。
~~引用ここまで~~

『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その3補足(16年後の追記あり)
https://tu-ta.seesaa.net/article/200802article_3.html

==16年後の追記==
ここでの「仕事」の原文はおそらく「ワーク」(原著にあたってはいない)。このワークを「仕事」と訳す注が必要なのではないかと感じた。「ワーク」には「作品」というような意味もある。だから、「人間性はおもにワークを通じて培われる」という話であり、このワークは食べるための労働だけでなく、その人の生きる力を発揮できる場所という風に広く捉えたいと思った。もちろん、主要な意味は通常の労働と解すべきだろうが、一般的な意味で言われる「ワーク」につけない(就労できない)人もまた、「人間性はおもにワークを通じて培われる」と考えたい。
~~追記ココまで~~
原著の著者の方のシューマッハや訳者が、いわゆる「仕事ができる人」のことしか、視野になかったのは時代的な制約とも言えるかもしれないし、いまでも、そのような言説は多い。しかし、ここから50年を経て、いわゆる「仕事」が出来ない障害者を考慮に入れる必要については、より一般的になってきたと言えるだろう。

『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その4
https://tu-ta.seesaa.net/article/200802article_4.html

~~部分引用~~
「仏教経済学の基調は簡素と非暴力」
「経済学者の観点からみて、仏教徒の生活がすばらしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである」 55p
 こんな風に見られる仏教徒が世界にはどれくらい残っているかと考える。60年代のビルマではこのように見えたのだろうか。
 しかし、仏教徒に限らず第三世界の農民の質素で豊かな暮らしは侵食されつつあるとはいえ、まだ少なくない地域で残っているようにも思うが、実際のところはどうなんだろう。
~~引用ここまで~~

『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その5
https://tu-ta.seesaa.net/article/200806article_1.html

~~部分引用~~
59pはエネルギーについての記述。
「現代経済学では、その方法論がカネで表した価格によってすべてのものを同一化し、数量化するものである以上、再生可能の物質と再生不能の物質を区別しない」と書き、現代経済学を批判する。これが書かれてから、ちょうど40年経過した現代の経済学がどんなものか、ぼくは知らないのだが、やはり主流派経済学って、こんなもんじゃないのだろうか?
~~引用ここまで~~


『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その6
https://tu-ta.seesaa.net/article/200806article_3.html

~~部分引用~~
面白いと思ったのは、シューマッハは必ず「小さいことがいい」と思っていたわけではないということ。
こんな風に書かれている。
現下の状況にあって私が必要だと信じているバランスの回復とは、さかんな巨大主義の偶像化と戦うことを意味している(もし反対方向での偶像化――つまり大規模組織はすべて悪魔の仕業だとされるならば、その反対側を推さなくてはならない)。
これに続けて、「どんな活動にも、それにふさわしい規模がある」と書いている。それをより分けることが必要だと。
~~引用ここまで~~

『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その7
https://tu-ta.seesaa.net/article/200806article_4.html

~~部分引用~~
ここで、シューマッハは人間組織の規模について書く。
 組織が大きくなるにつれて、その成員が道徳的存在として自由に行動するのがむずかしくなり、次のような言葉を発する機会が増える。「申し訳ありません。自分のしていることが正しくないのはわかってますが、それが指示なのです。」とか、「その規則を実施するために私は給料をもらっているのです」とか、「あなたのご意見に賛成です。あなたは問題を上層部か国会議員にもちこむことができるでしょう」

 その結果、大規模組織は往々にしてきわめて行儀がわるく、反道徳的で、愚劣でかつ人間性にもとる行動にはしるが、それは組織内部の人間の性格によるものでなく、ただ組織が巨大さの重みを引きずっているからなのである。 83-84p
~~引用ここまで~~

『スモール イズ ビューティフル再論』読書メモ その8
https://tu-ta.seesaa.net/article/200806article_6.html

「歪んだ仕事からは正気の社会は生まれない」
~~部分引用~~
以下の文章を読むと鉄を削ったり印刷したりというような仕事に創造性を見つけることと、そこで生み出されてるものの価値のギャップをどう考えたらいいのか、という問題をつきつけられる。
「より大きく、より早く、より豊かに」というのが人間の仕事を歪め、その結果、ある法王が述べたとおり、「工場から死せる物が改良されて世に出てくるが、一方そこにいる人間は腐敗し、堕落しており」、しかも環境悪化と地球の再生不可能資源の急速な枯渇を招いているのを知るとき、それが依然としてわれわれが考えうるただ一つの発展路線なのであろうか。  101p
~~引用ここまで~~

おまけ

必要なものを必要な人へ、現状の破滅的な社会の生命力を超えて
https://tu-ta.seesaa.net/article/200706article_15.html

~~冒頭部分~~
ふと思った、シューマッハは30年以上前にスモール・イズ・ビューティフルの中で、現在の社会のありようを明確に批判している。そう言えば、それより前にカンジーが。あるいはポランニーが。
 しかし、社会はその方向への変化を見せているようには思えない。強靭な資本主義の生命力というふうにいうべきだろうか。確かに新自由主義への批判の声は日本の外では小さくないようだ。
 どうして、必要な人が必要なものを受け取れるというシステムへの変換がなされずに、利潤を獲得するための欲望が基本的に社会を支配しているかのようなシステムが続くのだろう。片方でただ生存するために必要な最低限の食事やケアや治療が受けられずに死んでいく人がいる。もう一方で飽食したあとに体重をコントロールするための移動しないランニングや自転車の機械がある。「ダイエット」のための巨大な産業があり、大量の食べ物が捨てられていく。
~~ここまで~~

ここから17年が過ぎ、書かれてから約半世紀が経過して、現状の課題の認識については、気候危機の認識の広まりとともに少しは広がったかもしれないが、メインストリームに根本的な変化を期待することは出来ない現状がある。確かに、メインストリームの側も地球の持続可能性について言及したり、意識したりするようになった。それも大きな変化ではあるが、実態に根本的な変化が起きているようには思えない。現状の破滅的な社会の生命力 こそが問題で、そこを超える方法はいまだ見出すことが出来ていないのではないかと考えざるを得ない。

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