障害は「あいだ」にある。個人の側でも社会の側でもないのではないか?(「ほんの紹介」73回目)

2014年3月の「たこの木通信」に送った原稿。たこの木通信のB5の1頁分に収まらなかった部分も掲載。
この話はもう少しちゃんと考えて、まとめてみたいと思う。

いつもは掲載したタイトルをそのままブログのタイトルにするが、今回は変更した。

~~以下、原稿~~

「あいだ」について『「かかわり」の社会学』から(その2)

(「ほんの紹介」73回目)


 先月に続けて、取りあげるのは三井さんの「知的障害・自閉の人たちと「かかわり」の社会学―多摩とたこの木クラブを研究する―」。前回、最後に以下のように書いた。

 【問題は「あいだ」にある】という話を(10頁)書きたかったのだけど、紙幅が尽きた。そもそも障害は個人の側でも社会の側でもなく「あいだにある」のではないか・・・。

 今回はここについて書く。9~10頁にはこんなことが書かれている。以下、要約。

捉えかえしは反省に見えるかもしれないが、そうではない。捉えかえしによって前に認識していたものと異なるものとして「かかわり」が捉えかえされても支援者は自分の無能さを激しく責めない。反省という形で捉えると、問題をすべて自分に回収してしまうが、問題は「あいだ」に起きたこととして捉える。それは「一気に解決を目指すことで無理が生じることを意識しているのだろう」

という。

 「あいだ」の話と「一気に解決を目指すことの無理を意識すること」の話がつながっているが、この間に何か説明が必要だと思う。その二つをぼくは結びつけることができない。

 ともあれ、【問題は「あいだ」に起きたこととして捉える】というのはとても大切なことだと思った。当事者と支援者との関係で発生した問題を支援者だけの問題として回収するのはよくないし、もちろん当事者だけに回収してしまうのもよくない。「あいだ」に起きているからだ。

 この三井さんの【問題は「あいだ」に起きたこととして捉える】という話から、「障害」の社会モデルの捉え方を見直す必要があるのではないかと思えてきた。障害(≒出来ないこと)を個人モデルで捉える場合、いつも問題は当事者に回収されていた。それを否定する文脈で障害の社会モデルは生まれた。そして、出来なくさせる社会の側に障害の原因があるのだ、という主張をしてきた。社会の側に課題があるという捉え方の重要性は今も少しも減っていない。

 例えば、障害者が障害者であると公的機関が認定する仕組みである障害者手帳の仕組み。そこでの障害者認定はほぼ障害の医療・個人モデルで行われる。障害支援区分認定も同様。また、いまでも障害者の就労支援と言えば、本人のスキルの向上がメインで、障害者が働けるように働く場所を変えていくという視点は弱い。そういう意味で障害を社会モデルで捉える視点の重要性は減っていないどころか、ますます重要性を増している。そう考えると、「障害はどこにあるか」という素朴な質問に「障害は社会の側にある」と応えたくなる。しかし、そのように言い切ってしまうと、当事者が抜け落ちることがありそう。だから障害を社会モデルでとらえることの重要性を十分に認識したうえで、「障害はどこにあるか?」という素朴な質問には、「障害は当事者と、その当事者を取り巻く環境のあいたにある」と応えたい。そのことと障害の社会モデルは 相反しない、という以上に障害の社会モデルというベースの上に、「障害は当事者と環境のあいだにある」という言説が成立する。そんな風に、三井さんの言説から「あいだ」のことを考えた。

 出来ないことがあるとき、障害者個人が「出来ない」とされてきた社会モデル以前の従来のあり方(個人モデル・医療モデル)から、障害は個人の側でも、社会の側でもない、その間に存在しているという視点への転換こそが社会モデルだと理解することが必要なのではないか、と思えてきた。

 「障害は個人と社会との相互作用」という言い方も同じことを言っているのかもしれないが、「あいだ」に起きていると言った方がわかりやすい。確かに、「出来なくさせている社会」は存在する。そういう意味で「障害は社会の側にある」ということも可能だし、そのように言うことで問題は明確になる。なんらかのことが出来ない(≒障害)ということをその人と環境との間のコンフリクトと見ることが出来るとしたら、それは個人の側でも社会の側でもない、その「あいだ」に存在すると言える。そのように捉えることで、医療やリハビリで軽減する障害のことも理解しやすくなる。  

~~原稿、ここまで~~

この原稿の続きは以下(未完だけど)

 そして、ユニークフェイスなどの障害も把握しやすくなると考えた。障害の社会モデルという視点をしっかり維持しながら、障害はどこにあるかと問われたら、それは「あいだ」にあると応える。そこに矛盾はないと思う。

 しつこい感じだが、もう少し説明を続けよう。ほとんどの障害(≒出来ないこと)は社会が変わることによって解消する。誰かが代わりにやってくれる仕組みがあれば解消できることは多い。しかし、解消できない障害(≒出来ないこと)はある。代わりにやってもらうことでは解消できない障害はある。

 また、障害(≒できないこと)があるがゆえに見えることがあると思う。障害者というだけで否定的な状況に満ちている社会の存在を前提にいうのだが、障害(≒できないこと)があるがゆえに見えることがあるというような障害ゆえの豊穣な広がりを含めて、障害について捉えてみたいと思った。そう考えたとき、「社会が生み出しているから、社会が変わることによって解消する」という部分からはみ出した、少ないかもしれないが、捨てるわけにはいかない領域のことも同時に考えたいと思った。

 それらのことから、障害は本人と社会の「あいだ」(接点の部分)にあると捉えることで見えてくる地平があると感じた。そのように社会に解消させたくない部分を含めて、「障害」について考えるときにも、【「あいだ」にある】という考え方は有効なのではないか?


似たようなことを考えている人は少なくないだろうし、先行研究も沢山ありそうな気がするのですが、とりあえず、そんなことを考えたという記録を残しておこうと思いました。先行研究や似ている言説をご存じの方に、その存在を教えていただければ幸いです。



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