いちばん助けが必要な人たちを助けること(「ほんの紹介」74回目)

2024年4月に「たこの木通信」に送った原稿を少し手直ししました。やっぱり「本の紹介」にはほど遠い「ほんの紹介」です。

いちばん助けが必要な人たちを助けること

(「ほんの紹介」74回目)

 朝日新聞連載の鷲田清一さんの「折々のことば」が好きです。毎日読んでるわけじゃなくて、たまにまとめて読んでるだけですが(こういうときWEB新聞は便利)。鷲田さんは3月30日の「折々のことば」でシューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』を引用して、表題に書いた「いちばん助けが必要な人たちを助けること」ということばを紹介し、以下のように解説します。

 半世紀前、貧困層と富裕層への社会の二極化を憂えた英国の経済学者は、地方社会の疲弊にまず眼を向けた。そして経済指標より、人々の雇用機会と内容を充実させる必要を訴えた。この必要はその後昂じる一方だったが、グローバルな要因が複雑に絡むようになり、それを透視することもさらに難しくなった。

 シューマッハがこの『スモール・イズ・ビューティフル』を出版したのが1973年、もう半世紀以上も前の話です。シューマッハは必要なものが必要な人のところに届かず、富める人がどんどん豊かになる社会に警告を発したわけですが、状況は半世紀を経てひどくなる一方です。

 鷲田さんが、この解説で書いているように、確かに「グローバルな要因が複雑に絡む」社会では、誰が「いちばん助けが必要な人たち」なのかを見分けるのは難しいかもしれません。だけど、大切なのは、そこではないのではないかと言いたくなりました。

 ここはそんなに難しく考えるべきなのでしょうか? ぼくには、そのようには思えません。そこで誰がいちばん助けが必要かと思い悩んで止まってしまうのではなく、とりあえず見えている「いちばん助けが必要な(と思える)人たちを助けること」が求められていると思うのです。国内でも、国外でも。政府も個人もさまざまなグループも、見える範囲で「いちばん助けが必要な(と思える)人たちを助けること」のために手も足も頭も動かすことが求められています。

 シューマッハが経済指標より、人々の雇用機会と内容を充実させる必要を訴えました。鷲田さんは「この必要はその後昂じる一方だった」と過去形で書きますが、いまも、間違いなく、「経済指標より、人々の雇用機会と内容を充実させる必要」は現在も高まり続けているはずです。だから、ここは誤解を招かないように過去形ではなく現在進行形で書くべきではなかったかと思うのです。

 いまも日本のメインストリームでは「人々の雇用機会と内容の充実よりも経済指標が優先させる政策」や社会保障よりも軍備増強が優先せれる政策がまかり通っています。原発が止められないという問題も、ガザを支援してイスラエルに強く制裁できない問題もそれを示しているのではないかと思えてなりません。

 そして、ガザでは必要な人に必要なものが届かず、人が殺され続けています宇。

 半世紀以上も前に、シューマッハが書いたことが実現できていない社会のありようが問われてます。しかし、状況はさらに悪化。そういう意味では、人のいのちよりお金を優先する資本主義の生命力、すごいです。もう、いくら抵抗してもムダなんじゃないかと思えるくらいに。

 優先順位を変えようというシューマッハの主張はシンプルです。しかし、どのようにそっちの方向に社会を変えることが出来るのかという話はありません。あったとしても半世紀も実現できないままです。最近流行のSDGsでは、誰一人取り残さないために根本的な変化が求められているはずなのに、巷のSDGsは根本的な変化を拒否しているようにさえ見えます。

 とりあえず、見の前にいる「いちばん助けが必要な(と思える)人たちを助けること」ができる社会をめざすこと、また、僕自身が、そのように動けるようになりたいと思うのでした。「それを透視することもさらに難しくなった」と嘆く前に。

P.S.「鷲田さんも基本的にはそのように考えているのではないか」とも思うのですが、透視できなくても動こう、と書き加えたくなったのです。 

P.S.2 シューマッハは『スモール・イズ・ビューティフル』よりも『スモール・イズ・ビューティフル再論』がぼくには読みやすかったです。



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