三井さんの『「かかわり」の社会学』から (「ほんの紹介」72回目)
先月号の通信によると、横田さんが連続講座を企画し協力者を募集しているとのこと。(補足:2回目以降もあるので2024年7月現在も募集中)
この本の帯のめだつ文章は以下
ただ異なる
存在を
歓待せよ
というだけでは
どうにもならない
ことがある……
確かにそのとおりではある。それは考えられなければならない課題だし、だからこそ、こんな分厚い本にもなる。そして、この通信の読者なら、この、それだけではどうにもならないことをどうしていくのか、という部分こそ深堀したいところかもしれない。それに対して「でもね」とぼくは思う。でも、まず異なる存在を歓待したい。そこがいまだにあまりにも欠落してるから。だから、この帯の文章にならって、ぼくが書くとこうなる(かな)。
ただ異なる
存在を
歓待したい
と、まず言いたい。
しかし、その上で、そういうだけでは
どうにもならないことは
確かにある……
他者と暮らしを共有すると、存在の異なりは、嫌でも降りかかってきて、摩擦が発生し、ときにそれは喧嘩にも発展する。そうなると異なる存在を歓待するとか言っている場合じゃなくなるのは必然。「あ~、こいつ面倒くさい」とか思ったりする。その他者がパートナーや家族であれば、一般的にはなんとかなる場合も多い。それが障害当事者と支援者という関係の場合、支援者から当事者への否定的な感情にどう対処するかというのは一つの課題で、そんなとき、とりあえず頭で「異なる存在を歓待しよう」とかいうフレーズがあることを思い出してみるのはどうかと思った。でも、あんまり効果はないかなぁ(笑)。
こんな本の帯の話で半分使ってしまったが、ぼくとしては「歓待」について考えるのはそれなりに大切なことだと思う。残り少ないスペースで、この本の目的について触れたい。
三井さんは最初のページの最後に、この本の目的が(たこの木クラブにかかわる)「ネットワークが何を目指してきたのか、何をなしてきたのかを明らかにすること」(3頁)だと書いている。しかし、本当の目的(彼女が言いたいこと)は、それを超えたところにある。たこの木にかかわるネットワークから見えてきた、やりとりをみんなで続ける中での試行錯誤(エラー&トライアル)することの大切さ。そんな関係の継続と試行錯誤が普遍的に必要なのだ。そのようにまえがきの結語部分には書いてある(と思う)。
たこの木にかかわる前、三井さんにとって知的障害や自閉の人は「支援」や「福祉」の対象だったが、たこの木で、それとは違う姿を見出す。(彼女や彼が)「どうのということを超えて、自分の身の回りや社会のありようを問い直させられる、ひどく新鮮で面白いものだった」(4頁)とのこと。そこから見えてきた「多様な人とともに生きる社会を構想していくためのひとつの道」(17頁)が示されている。それは「福祉」などの枠に限らない、とのこと。
三井さんはそう名乗っていないが、これは障害学だと思う。障害学もまた、医療や福祉という切り口でしか語られてこなかった障害者を、別の視点で捉え、「障害」(ここでは知的障害や自閉)を切り口にして、社会のありようを問い直す学問として出てきたからだ。
感銘を受けた【問題は「あいだ」にある】という話を(10頁)書きたかったのだけど、紙幅が尽きた。そもそも障害は個人の側でも社会の側でもなく「あいだにある」のではないかとこれを読んで感じたのだった。
~~~原稿ここまで~~~
最後に書いた【問題は「あいだ」にある】という話はこの翌月のたこの木通信に書いた。 https://tu-ta.seesaa.net/article/503088966.html に掲載している。
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