『コモンの「自治」論』メモ

この本(も)、今年度(2024年)、PARC自由学校の「フィアレス・シティへの道」という講座に刺激されて読んだ。
https://www.parcfs.org/2024-01/

以下、サイトから
著者は

斎藤幸平 松本卓也 白井聡 松村圭一郎 岸本聡子 木村あや 藤原辰史 
という顔ぶれ。

以下の説明文がある。

『人新世の「資本論」』、次なる実践へ!
斎藤幸平、渾身のプロジェクト

戦争、インフレ、気候危機。資本主義がもたらした環境危機や貧困格差で、「人新世」の複合危機が始まった。国々も人々も生存をかけて過剰に競争をし、そのせいでさらに分断が拡がっている。崖っぷちの資本主義と民主主義。この危機を乗り越えるには、破壊された「コモン」(共有財・公共財)を再生し、その管理に市民が参画していくなかで、「自治」の力を育てていくしかない。『人新世の「資本論」』の斎藤幸平をはじめ、時代を背負う気鋭の論客や実務家が集結。危機のさなかに、未来を拓く実践の書。


以下、読書メーター https://bookmeter.com/reviews/122066830 に書いたもの、コピペ。
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図書館で借りたものの、読めないうちに返さなければいけなくなり、斜め読み。興味深い著者のラインナップ。

第2章:資本主義で「自治」は可能か?──店がともに生きる拠点になるで松村圭一郎さんは、面倒な「自由」とか「自治」を手放して、誰かに統治をお任せする傾向があるのではないかと自問したうえで、文化人類学的には、その傾向に歯止めをかける希望がないわけではないという。そこで例として、岡山の小さな本屋や古着屋の話が出れきる。資本主義的な商品交換の場である「店」のなかでも「贈与」的な行為が行われている。居場所としての店という機能がある。行政における自治とは異なる、こんな小さな場から自治を(続く


続き)意識する。それがこの社会をよい方向に変えていくための必要なことではないかと松村さんは書く。確かにそれも面白いと思った。続くコラム【「自治」の現場から】で藤原辰史さんが紹介している「京都三条ラジオカフェ」の話も興味深かった。

 岸本聡子さんが書いている第3章のタイトルは【〈コモン〉と〈ケア〉のミュニシパリズムへ】というもの。パリにおける水道の再公有化を【市民営化】でもあるという。また、【国家と資本を恐れないフィアレス・シティ】の話もある。

 そして、ミュニシパリズムの話へ。【ミュニシパリズムは、厳密に定義する用語というよりも、日々、耕されている運動】という表現に我が意を得た。しかし、このこの座りの悪いカタカナ言葉ではない表現が求められてられているようにも思う。

 そして岸本さんがコロナ禍をきっかけに気づいたのが〈ケア〉の視点であり、いままでの活動の中でかかわりが薄かった部分でもあると書かれている。バルセロナでケアワーカーを雇用し、ケアをコモンとして提供していくという例が紹介される。コモンとケアの結節点に地方自治の原点があると岸本さんは主張する。

 続いて紹介されるのがチリ・サンチアゴのレコルタ区における薬局の公営化の話、公営化することで薬代が7割下がった家庭もあるとか。チリでの地域の取り組みを国家レベルに広げていく例も書かれる。そして、彼女が区長になった杉並の話。参加型予算の説明の後、小さな金額だが2024年からそれが実現されるという。また、「上からでもなく、下からだけでもない」取り組みとして紹介されるのがボローニャの「都市コモンズの維持と再生のための、市民と都市とのあいだの協働に関する条例」。例えば古い蔵などを住民が使えるカフェなどのミーティング・スペースに転換することを、市民と共同でやっていき、400もの事例があるとのこと。小さな出来ることから始めていき、「ここからなら変われるかも」という小さな自信を積み重ねていくのがミュニシパリズムだという杉並のカフェ店主の歌が紹介される。youtubeで聞ける。https://www.youtube.com/watch?v=eT37Bn2ElU0 「どうせ無力」とあきらめずに小さな一歩を踏み出し自信をつけることの大切さ、そこからやがて大きなうねりを生み出すことに間違いないのです。と岸本さん。だったらいいなと思う。

 で、ぼくにとって、新鮮で一番興味深かったのが、【第5章:精神医療とその周辺から「自治」を考える(松本卓也)】。ちなみに松本さんは【おわりに:どろくさく、面倒で、ややこしい「自治」のために】という文章も書いている。その精神医療の話だが、反精神医療ではなく、半精神医療だという。現状の劣悪で悲惨な精神医療の現場の話もさらっと書かれてはいる。もっとしっかり書いて欲しいという思いも残ったが。

 ともあれ、その「自治」からいちばん遠いものの一つではないかと思われる精神医療の場から「自治」が描かれている。そのなかでバザーリアも批判されている。精神病院(=社会的疎外)をなくすだけでは「精神病的疎外」は残ってしまうと松本さんは主張する。1953年にフランスのラ・ポルド病院を開設したジャン・ウリの批判が引用されている。イタリアの精神医療の現在について、その二つの疎外を混同すると、「民間クリニック、家族会、拘束器具の新聞広告、自殺、ホームレス化、さらには統合失調患者の人々が行方不明になるといった事態が増える」 この現在はいつの地点なのか、反論はないのかが気になるところ。


07/24 06:02
 ここらで尽きてきた。この先で松本さんは「べてるの家」の「自分のことは自分だけで決めるな」というのを援用して、「自治」を語る。忘れてたけど、大事な話で、確かにこれは、自治やコモンにつながる話かもしれない。これ、微妙な話でもある。ここでは自分だけで考えていると、煮詰まる、というような説明があり、確かにその通りなのだが、最終的には自分のことは自分で決めたいし、そうするしかない。コモンというかコミュニティに決定をゆだねる弊害というのはこれまでもあったのではないか? そのあたりのこともちゃんと考えたい。
07/24 07:13

 反精神医療ではなく、半精神医療をというような取り組みについて松本さんは「ポスト68年」の思想と呼び、その代表として、木村敏と中井久夫を紹介する。もう疲れたので紹介はやめるが、現実問題として、反精神医療も半精神医療もメインストリームからは遠く、精神医療がいまでも大方ひどいままなのではないか? 半精神医療への改革のほうが確かに現実的で実効性があるようにも思えるが、それでも状況は動いていない、という部分を考える必要があるのだと思う。これはコモンに関する小さなことから始めようという主張、全体に通じるかも。小さな具体的に出来ることを積み重ねる大切さはいうまでもないし、そんな風にしか出来ない。しかし、そんな動きを重ねても、メインストリームは揺るがないように思えてしょうがない。レベッカ・ソルニットは『暗闇の中の希望』を語り、それはぼくも大好きな本ではあるが・・・。希望を語りたいと思うのだが、絶望的な状況の重さに押しつぶされそうになる。
07/24 07:34
 バザーリアを批判したウリの話に戻ろう。精神病的疎外を改善するために社会的疎外を利用してもよい、その社会的に疎外された場を、一種の避難場所として使うことで、精神的疎外からの回復をめざす、これがウリがやろうとしたことだと書かれている。日本の精神医療の状況を考えると、そんな言い訳がたくさん使われて、現状を変えることが困難になることも考えられる。確かに適正な避難場所が必要な状況はあるだろう。

 しかし、それが日本で精神科病院の役割なのかどうか、微妙だと思う。同時に地域ごとに精神医療センターのようなものが出来ても、今の精神病院のようなものにならない保証はない。そうではない、ここで書かれているような「自治」が可能になるような、地域ごとのセンター的な場所があればいいのかもしれない。それはもしかしたら、精神医療に特化した場所でなくてもいいかもしれない。

 ウリの言う制度的精神療法ほは、具体的には例えばラ・ボルド病院では、閉鎖病棟はなく、さまざまなクラブに自由に参加しアトリエで活動し、バラバラになった自分の身体像を再構築し、何かを「〈言う〉こと」ができるようにな」りそのことが重要で、それがなければクラブやアトリエは閉鎖されるとして『精神病院と社会のはざまで』に書かれているエピソードが紹介される。壺がきれいに作れるようになってしまって、作品だけが重要になり、人間が不在になって、主観性が発揮される場ではなくなるので、アトリエを一度閉じるという。また、ラ・ボルド病院では医師や看護師の新人のためのオリエンテーションは患者が担当するとのこと。面白い取り組みでそれがヒエラルキーを揺るがすだろうということは理解できるが、その場所が社会から隔絶された場所になってしまう危惧はないのだろうか?


 68年的な「反」ではなく「半」が具体的な変革につながっていくというのは耳障りがいいし、確かに具体的な改善や改良は進むと思う。それが必要な場合は少なくないだろう。しかし、それは構造そのものを温存させることにもつながりかねない。構造そのものを変えていくという展望をなくしたとき、それは現存する社会から隔離された精神医療体制の温存にもつながってしまうのではないか? この先で「べてるの家」を持ち上げる形での紹介があるのだが、先日亡くなった山本眞理さんが「べてるの家」を批判していたのは、そういうことだったのかも。07/24 09:22

【第6章:食と農から始まる「自治」──権藤成卿自治論の批判の先に】を藤原辰史さんが書いている。この権藤成卿自治論に食と農をめぐる「自治」の可能性を論じる材料があり、同時に、その自治論が陥りがちな罠がどこにあるのかを示しているという。これって、もしかしたら『参政党』がこの罠にはまっているんじゃないかと、中身を読む前に感じた。  丸山眞男は「権藤なしに日本の軍国主義化は語れない」と批判したとのこと。 藤原さんは権藤の言説の肯定的な側面に言及した後、そこに「身体性」を伴った言葉がないことを批判し、梁瀬義亮(ぎりょう)を持ち上げる。疲れたので、あとは略。

【第7章:「自治」の力を耕す、〈コモン〉の現場】で、ここを書いた斎藤幸平さんは「リーダーフルな運動について書いている。リーダーが大勢いる組織の必要性。これはブラック・ライヴズ・マター運動の創設者のひとりだったアリシア・ガーザの思想で『世界を動かす変革の力』という著書で、そんな組織の必要性を提唱しているという。 さらに紹介されるのがカストリアディアスの「自律論」。「彼によれば強制のないなかで物事を決めるというだけでは自律的自治にはならない(・・・」「むしろ、既存の規範を絶えず問い質しながら積極的に自己制限を行うこと。それも個々人バラバラにではなく、ルール化という立法行為によって人々が「集団的」に規制していくこと重要」、「それが既成事実化すると、他律につながるが、他律化を恐れて、あらゆる立法や制度化を拒否する態度は誤り」であり、他律化を恐れず私たちは絶えず問い返し、知や規則を自律的に作り続ける必要があるとカストリディアスは訴えている、とのこと。 しかし、そんな風に問い続けることなんて、市井の市民であるぼくにできるかなぁと思う。


 さらに斎藤幸平さんは2章の松村さんの問題提起を援用して、〈コモン〉によって経済が民主化することが政治の民主化を生む、と書く。政治が変わることで経済が民主化するという「政治主義的な」モデルの正反対に、〈コモン〉の領域か変わる(広げる?)ことによって、政治も変わるという戦略であり、ネグりたちの政治戦略でもあり、自分も支持するとのこと。〈コモン〉の領域を広げていくという戦略に異論はないが、だから政治を後回しにしていいという話でもないと思う。〈コモン〉の領域を広げつつ、政治はそれとして変革していくべく、必要で可能な努力を続ける必要があるのだと思う。結語として、斎藤さんは【「自治」は〈コモン〉の再生に関与していく民主的なプロジェクト】であると主張し、「〈コモン〉の自治」こそが「希望なき時代の希望」なのだと閉める。
07/24 10:29

 【おわりに:どろくさく、面倒で、ややこしい「自治」のために】(このタイトル好きだ)の末尾で松本卓也さんは「〈コモン〉という言葉を、「自治」というさまざまな歴史と記憶を持つ言葉につなぐ本書の試みが〈コモン〉の思想をより具体的な実践において捉えなおすためのヒントになれば、幸いである」とこの本を閉じる。 とても面白い本だった。

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