『鶴見俊輔 混沌の哲学』メモ +抜き書き

岩波書店のサイトにある本の内容紹介は以下
戦後日本を代表する知識人・鶴見俊輔は、民主主義と平和主義を社会に根づかせる積極的な役割を果たした人と目されながら、一方でそれらに対する懐疑を抱き続けていた。日常性に根ざす思考に可能性を見いだし、「新しい知」のあり方を模索し続けた鶴見が、彼方に見ていたものは何だったのか。その豊饒なる思想世界の解読に、「いのち」をめぐって問いを積み重ねてきた著者が挑む。


以下、読書メーターに書きなぐったものと、2頁分、データ化したものを掲載。




PP研戦後研のテキストということで図書館で借りた。鳥取の菜の花診療所の徳永進と鶴見俊輔の関係をこの本で初めて知った。この徳永のべ平連のスタンスに対する問題提起も興味深いし、開高健との関係を描く3章「反戦と好戦のあいだ」も興味深かった。返却する関係でところどころ飛ばし読み。
鶴見俊輔がしばしば参照していると書かれているのが守田志郎著『小さな部落』。著者の死後、『日本の村』と改題され、朝日選書に。面識のなかった俊輔が序文執筆。そこに、もう一つの民主主義の可能性。(41頁)
07/25 00:58

キリスト教も、イスラム教も、マルクス主義もウーマンリブも全学連も、その立場は You are wrong. であり、相手に向かって自己の揺るぎない正当性を主張する。そうした立場に同調しないこと、 I am wrong. を貫くことが自らの基本的立場であると鶴見は言う」49頁
07/25 01:03

『第三章 反戦と好戦のあいだ』で開高健との関係を論じた部分がとても興味深かった。天野さんと松井さん(ペンネーム水島)による吉川勇一さんへのインタビュー https://www.jca.apc.org/beheiren/UndouKeiken23Yoshikawa.pdf が援用されているが、そこには不自然な欠落もありそう。このあたりの話は高草木さんにも聞いてみたいところ。この本の半年後に鶴見俊輔を扱った松井さんの『流されながら抵抗する社会運動』が出ている。高草木さんはこの本をどう読んだのでしょう?
07/25 01:12

順番は前後するが第一章4節に鳥取の菜の花診療所の徳永進の話が掲載されている。ここでべ平連が抱えていた欠落について、徳永が学生時代に主張したことの話が描かれている。60頁に引用されている徳永の文章。書き写そうか、思案中。

07/25 06:44

60頁から61頁データ化した。
(末尾に掲載)
07/25 07:40

124頁で小田実の開高への追悼文を引用する。そこには「どうして彼は「ベトナム」を離れてしまったのか。「私の戦争」をやめてしまったのか」と書かれていて、それに関して、高草木さんは叱咤する小田やべ平連の側に問題はなかったのか、と問う。確かに今考えると、問題はたくさんあったと思う。しかし、小田がここで書いたのはそれとは別の話ではないか? ベトナム戦争をめぐって、小田やべ平連を批判する形(明示的ではないかもしれないが)でべ平連を去った開高だからこそ書けるものがあったのではないかと小田は言いたかったのではないか
07/26 09:27

この同じページから言及されているインタビューは3つ前のコメントに書いたURLで読める。このインタビューについて、高草木さんは「肝心な問題がすり抜けられてしまった感がある」と書くのだが、40頁もあるこのインタビュー、前半はこのテーマで語られていて、ぼくには「すり抜けている」ようには読めなかった。他にはないボリュームと内容で、この問題に向き合っていて、だからこそ、高草木さんもこれを援用したのではないかと思う。このインタビューの中で「水島」が引用している部分など、鶴見俊輔を語る上でも重要なものが使われていない。07/26 09:5

137頁でも、開高健問題は共同行動の論理の問題ではないと繰り返されるのだが、前出のインタビューをひとつながりのまとまったものとして読むのではなく、開高問題は開高問題として、共同行動の論理の問題はそれとして、分けて読んだほうが理解しやすいと思う。高草木さんはその連続性に目が行き過ぎて、何か見間違っているのではないかと思った。
07/26 09:57

146頁~では古山高麗雄の「反戦屋」批判という小見出しで、反戦運動の浅さについての記述がある。的を得た批判で、反戦運動にかかわるものへの警鐘として読むべき点は多い。それへの鶴見俊輔の共感やまなざしに関してもそういうことはあるだろうと思って読んだ。しかし、この本のサブタイトルの「アカデミズムを超えて」という視点から、では高草木さんはそれにどう応答するのか、というのを強く感じた。それらの批判を経て、高草木さん自身はどうふるまうのか、そういう意味では高草木さんがアカデミズムにとどまり続けている問題があると感じ
07/26 10:07

163頁~のアジア女性基金に関する記述で川本さんの鶴見への批判が援用され、それを高草木さんは「当たり前すぎて若干陳腐にも感じられるほど、まっとうである」と評価している。「陳腐にも感じられるほど」という表現がなぜ必要だったのか気になる。川本さんへの親愛からか、それとも何か批判せずにはいられないアカデミシャンの傾向か(笑)
07/26 10:15

167頁の鶴見俊輔にとって、結果ではなく議論のプロセスが、そこで議論が百出するような言論状況をつくることが重要であり、それを自分の使命と考えていたのではないか、というあたり、面白いと思った。ほんとうかどうかはわからないが。ちなみに、べ平連の時代にどれだけちゃんと意見が違う人の意見をリスペクトするような議論が出来ていたのか知らないが、推測すると、そういう場はそんなに多くなかったと思う。そして、それは半世紀以上を経たいまも、出来ていない
07/26 10:21

メモに疲れてきたので、4章の天皇制の話のメモはパス。鶴見俊輔の不思議な天皇観。どこから生まれてきたのだろう?
07/26 10:28

275頁で高草木さんは、日本がGDPで1968年には世界第二位になるような大国になって、半国家とか準国家いう概念で国家権力を制限することが難しくなったと書いているのを読んで、ふと思ったのだが、例えばGDPの1~2%を軍隊や自衛隊に使うのではなく、戦争を終わらせる方向で、戦争で被害にあっている人を救援するために使うと決めたら、半国家でも世界的に認められるようになるのではないか?
07/26 10:57

とりあえず、読書メモ、ここまで。
07/26 11:01





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60-61頁 データ化

第一部 反戦の思想と行動

第1章 1969年8月・大阪城公園

60-61頁 データ化



小中が抱いた「ハンセン氏病患者の最大の苦悩は、病そのものよりも、そのことによる周囲の人間の差別の問題と思えた」という感想も、あまりにも軽々しく聞こえてしまう。

 若き日の徳永の論考「「反戦のための万国博」総括ワークキャンプ方法論序説」(『しゃべる』三号、一九六九年)は、「ぼくが大切にしたいのは、『私』と『対象』との間に生じる緊張(連帯・つながり)を生む方法論です」という文章で始まる。「交流の家」建設に見られるような、ツルハシや一輪車を使った手づくりの労働や、何であれ、らい患者と同じ無駄な時間を共有したという意識の重要性について述べている。抽象的・普遍的な理念からではなく、具体的な問題への取り組みからしか、何かが生まれることはないという問題意識は、そのままベ平連に対する批判意識としても現われる。

 もともと徳永たちが、「らいの家」を反博会場につくったのは、「反戦」を叫ぶためではなかった。「らい」という問題から「反戦」の理念を導くことなどできなかった。しかし、「らいの家」が反博会場に造営されたことの意味はあったと徳永は考える。

「戦争は現に「反戦」を乗り越えてあるわけで「反戦」を理念から思想へ実体化していくことこそ今の日本の「反戦運動」に必要ではないかと思うのです。予定されてた8月11日〔最終日〕のデモ以外になすすべを知らず、水からあがったカッパさながらであった各ベ平連はその限界をみせたように思うのです。「反戦」とおよそ関係なく思われた「らいの家」が、いくらかでも「反戦」に有効であったのは、……「ワークキャンプ」的方法論による、つまり「私」と「対象」を様々な手づくりによる、両者の主体を誘発し、自己拘束の可能性を深める方法論に根源をもった「反戦」と全くつながらない「らいを病む人たちのハガキ」の中に、あまりにもといえばいえる初歩的な「反戦」への原型があったのではないかと思うのです。」
[徳永、二〇一四]

 「反戦」の問題も、生身の人間の生の声を聞くところから始めなければ、上澄みを掬っただけのスローガンになってしまう。徹底的な差別を受けるハンセン病患者が、戦力の一コマとなることによって辛うじて差別から解放されるという生の声を前にして、「反戦屋」たちはいったいどんな理念で対抗することができるのだろうか。それ以前に、ベトナム反戦を唱える人たちは、ベトナム民衆とどのような関係性をもち、彼らと痛みを共有することができているのだろうか。「反戦」を上滑りの、時

流に乗ったトレンドとして叫ぶことの陥穽を徳永は見ていた。周囲の熱狂をよそに、周回遅れのような風情で、「らいの家」テントの番人を務めている徳永のその資質を鶴見は見抜いていたのだろう。*

*吉本隆明は、「六〇年代にあの人〔鶴見俊輔]は、小田実や開高健らとベ平連を作って平和運動をおこなった。その時も、そこに平和主義の人間だけでなく、幼稚であっても戦時中に本気でアジアを解放するのだと言っていた若者たちが加わらないとダメですよと僕はからかった」〔吉本、二〇〇八、116 -117頁〕とインタビューで述べている。この吉本の「からかい」は、同年代で肝胆相照らす仲だったとも言える鶴見の思いを端的に表わしていたと考えることもできる。


戦争とハンセン病

 「戦争はおもしろかった。戦場だけが私をくらい〉から解放してくれた」と書いた人は、どんな戦争体験をしたのだろう。戦争がハンセン病を差別から解放するという契機は具体的にあったのだろうか。




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