入所施設の是非を正面から考えてみようと思った。

 「津久井やまゆり園事件を考え続ける会」での議論をきっかけに、入所施設のことをちゃんと考えたいと思った。「是か非か」と問われたら、「非」だと思う。しかし、それだけでは言い尽くせない話がある。

 基本は障害者権利条約にあるように、本人が望む場所で地域生活する権利があり、「誰と生活するかを選択する機会」があり、「特定の生活施設で生活する義務を負わない」という話だと思う。

 施設入所者は、少しずつ減っているとはいえ、いまだに多くの人が入所施設で暮らさざるを得ない状況にあり、権利条約の国別審査の総括所見にあるように、施設から地域へという動きはにぶい。地域には、いま、入所施設に住んでいる人をちゃんと受け入れるだけの資源が整っておらず、それをしっかりと整えようとする意志が国にも地方自治体にもあるようには思えない。

 それに加えて、グループホームも確かに、ほとんどの場合、「誰と生活するかを選択する機会」はなく、「特定の生活施設」と言わざるを得ないのも間違いはない。ここにも微妙な問題が多く含まれ、とりあえず、何十人もの人が暮らす入所施設よりも、全体として本人が望む場所で地域生活できるようになる可能性は少し高くなるのは間違いないし、一人暮らしではない親密な人間関係がある空間を望む当事者もいるだろう。同時に「これなら入所施設のほうがまだまし」というグループホームもあると聞いた。

 とはいえ、原則としては、(あくまで「原則としては」と弱弱しく言うしかないのだが)、「誰と生活するかを選択する機会」があり、「特定の生活施設で生活する義務を負わない」暮らしを無理なく実現できるようにしなければならない、と思う。

 同時に、地域にそれを実現する資源があるようには思えず、それを十分に整える状況にしていこうという政治的な意思もあるようには思えない現状がある。そんななかで施設を追われ、苦しんでいる人がいるという児玉真美さんの声にはちゃんと耳を傾けるべきだと思う(ここに関しては児玉さんへのインタビュー記事を最後に引用する)。彼女のことばを借りると【相模原の事件で多くの人が説いておられる「地域移行」とは似て非なる「地域移行」が、急速に進行している問題】があるらしい。これも小さな問題ではない。

 また、津久井やまゆり園で丁寧な意思決定支援を行ったら、いま施設で暮らす全員が地域に戻って暮らしたいという結果になったという。このような丁寧な取り組みが全国で行われる必要がある。

 親が支援できなくなり、行ったこともない遠く離れた地域にある入所施設やグループホームに入らざるを得ないという知的障害者の例はいまでも多い。ほとんどの地域で、それがしかたないとされている。北多摩地域の一部自治体は、そのような状況で自立支援企画≒グッドライフという障害者の自立生活を支える団体に相談しているという話を聞いたが、そのようなことができる自治体はおそらく全国にいくつもないはず。

 家族に過度な負担をかけずに、地域で障害者が本人らしく暮らし続けるための施策が切実に求められている。一人ひとりの個別の事例から、その地域で何ができるのか、どうすれば、それが実現できるのかということが、ちゃんと考えられる必要がある。

 その事例とは、家族が当事者と暮らすことが困難になった事例だったり、住み慣れた地域と遠く離れた地域で暮らさざるを得なくなった当事者の希望を叶えるための事例で、そのための予算や人員配置が必要となる。

 そこでは行政の施策や福祉事務所に所属し障害福祉サービスの受給者証発行に関わるワーカーや身近な障害福祉サービスを利用するための相談支援専門員の、障害者の権利に対する知識とそれを実現するための意思や、地域で使える資源に関する知識、さらに言えば、いまない資源をどのように作っていくのかという技量も問われる。

 そして、残念なことに、相談支援専門員になるため、そしてそれを継続するための研修で、そのような必要性を学ぶカリキュラムは用意されていない。行政にかかわるワーカーもそれを学ぶ機会はほとんどないのではないはず。それこそが学ぶべき必要な研修だと思うが、そこがないという現実がある。


以下、資料的なものと少しのコメント

国連障害者権利条約

国連総会において採択され、日本政府も批准したこの条約の19条は以下の通り。外務省のサイトにある日本政府の公式の翻訳
https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000899.html から。いくつかの個所ではこの翻訳の問題もあると思うが。

第十九条 自立した生活及び地域社会への包容

 この条約の締約国は、全ての障害者が他の者と平等の選択の機会をもって地域社会で生活する平等の権利を有することを認めるものとし、障害者が、この権利を完全に享受し、並びに地域社会に完全に包容され、及び参加することを容易にするための効果的かつ適当な措置をとる。この措置には、次のことを確保することによるものを含む。

  • (a) 障害者が、他の者との平等を基礎として、居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わないこと。
  • (b) 地域社会における生活及び地域社会への包容を支援し、並びに地域社会からの孤立及び隔離を防止するために必要な在宅サービス、居住サービスその他の地域社会支援サービス(個別の支援を含む。)を障害者が利用する機会を有すること。
  • (c) 一般住民向けの地域社会サービス及び施設が、障害者にとって他の者との平等を基礎として利用可能であり、かつ、障害者のニーズに対応していること。
この条文の解釈は入所施設の否定というだけでなく、グループホームもまた「特定の生活施設」に含まれるという話だと来日した国連の委員の人が話しているのを聞いたことがある。確かにグループホームも「誰と生活するかを選択する」ことは出来ない。

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そして、以下に引用するのはNHKの相模原障害者施設殺傷事件関連のサイトにある

相模原障害者施設殺傷事件 第6回 児玉真美さんインタビュー
2016年09月21日(水)
https://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/3400/252937.html

からの該当部分引用。できれば全文読んで欲しいが、ここでは部分だけ引用。8年前の事件直後のものだが、内容はそんなに古くなっていないと思う。

支援なき地域へと追い込まれている家族

木下:植松容疑者は、時代の空気を読んでいると思われる一方で、施設に収容されている障害者の世話をする体験から、意思表示の難しい障害者を無価値と考える思考にいきついています。そのことから大規模施設を問題視する論調もあります。

児玉:事件の後、さまざまな立場から発言する人たちがいて、「施設に入所していたから殺されたのだ。みんなが地域で暮らせるようになっていたら、殺されなかった」という人もいます。確かに、社会が目指していくべき方向性としては、私も親としてそうあってほしいと願っていますし、そうして誰もが地域で暮らせる社会を目指して努力してくださる方々のお陰で、制度も法律も変わってきたことに感謝もしています。
 でも、施設だから入所者はみんな悲惨な生活を強いられていて、施設職員は満足なケアを行っていないと決めつけるのは事実と異なる一面的な見方ではないでしょうか。施設にも一人ひとりの入所者に豊かな生活をしてもらおうと努力しているスタッフはいっぱいいるし、そこで暮らしている人たち一人ひとりにも仲間やスタッフと関わりあい、つながりあって過ごす、日々の「暮らし」があるわけです。今回の事件をめぐる議論が、施設か地域生活かの二者択一で論じられていくことには危うさを感じています。

木下:しかし、社会全体の方向としては、施設から地域へという流れになっていますよね。

児玉:地域で充分な支援を受けることができて、重度障害のある人たちも幸せに暮らしているケースがたくさんあることは、私も知っていますし、それは私たち親にとっても希望です。
 一方で踏まえなければならない現実もあります。実は、重症児者、特に医療的ケア児を中心に「地域移行」はこのところ急速に進んでいるのです。医療の進歩で救命率が上がり、それにつれて経管栄養や痰の吸引といった医療的ケアを必要とする子どもたちが増えました。そして、病院のNICUや小児科でベッドが不足してきたことから「退院支援」「地域移行」にという方向性が打ち出されています。しかし、そうして帰っていった地域には支援が圧倒的に不足し、結果的に多くの家族が過重な介護負担に喘いでいるのです。
 在宅の介護者の実態データを調べてみましたが、訪問看護ステーションで障害児を受け入れているところは3割しかない。在宅障害児の介護者の8~9割は母親で、いざとなっても介護を代わってもらえる人もなく、短期入所すら3割しか利用されていない。見るに見かねた関係者の方々が支援の必要を訴え、懸命にネットワーク作りや支援整備の努力もしてくださっていますが、全国的に見ればまだまだ限られた地域での実践だし、「お母さんががんばり続けられるように」と家族介護を前提にした支援に留まっているのが現状です。
 そんなふうに、重症児者で、いまもっとも切実なのは「支援なき地域で、家族が疲弊している」という現実。むしろ相模原の事件で多くの人が説いておられる「地域移行」とは似て非なる「地域移行」が、急速に進行している問題なのです。
 その他に、施設か在宅かを問わず、重症者の高齢化と、それにともなう重度化という問題もあります。「津久井やまゆり園」で被害に遭われた方の中にも高齢者がおられますが、高齢化するとガンなど成年期の病気への対応も必要になってきます。でも、特殊性、個別性の高い重症者の障害特性を踏まえた適切な治療を受けられるだけの医療資源が地域にあるのか、そもそも受け入れてもらえるのかは、大いに疑問です。
 データの裏づけがあるわけではありませんが、私たち重症児者の親は、施設か在宅かを問わず、医療も支援もじわりじわりと受けにくくなっていくのでは、という不安を感じています。受け入れてもらえる病院や事業所がなければ、または施設や事業所に人が足りなければ、医療も支援も諦めるしかないのか。たまたま出会いに恵まれた人だけが救われていくのか。親自身の高齢化の問題も深刻ですし、そういう厳しい現実を前にすれば、なおさらに「親亡き後」も切実さを増して感じられてきます。
 そんな中で、あの事件をきっかけに地域移行の必要性が一面的に強調されることで、そうした重症児者の「支援なき地域への移行」の過酷な現実に目が向かなくなるような気がして、心配です。

~~~上記、引用ここまで~~

 最初に書いたように、児玉さんが書いている【「支援なき地域で、家族が疲弊している」という現実。むしろ相模原の事件で多くの人が説いておられる「地域移行」とは似て非なる「地域移行」が、急速に進行している問題】は看過してはならないと思う。

 そして、確かに【施設だから入所者はみんな悲惨な生活を強いられていて、施設職員は満足なケアを行っていないと決めつけるのは事実と異なる一面的な見方ではないでしょうか。施設にも一人ひとりの入所者に豊かな生活をしてもらおうと努力しているスタッフはいっぱいいるし、そこで暮らしている人たち一人ひとりにも仲間やスタッフと関わりあい、つながりあって過ごす、日々の「暮らし」】が実現している例も少ないとはいえ、ないわけではないだろう。そして、厳しい状況の中で奮闘している施設職員は少なくないだろう。

 しかし、それでいいのかという視点は持ちたいとぼくは思う。それに関しては川口太陽の家の実践は確かに美しい」というタイトルで、「たこの木通信」に書いたこととつながる。 https://tu-ta.seesaa.net/article/201810article_2.html


とりあえず、今日はここまで。何か書くべきことを落としているようにも思うけど。





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