『核燃料サイクルという迷宮』メモ


核燃料サイクルという迷宮――核ナショナリズムがもたらしたもの



出版社(みすず)サイト
https://www.msz.co.jp/book/detail/09697/
から


日本のエネルギー政策の恥部とも言うべき核燃料サイクル事業は、行き場のない放射性廃棄物(核のゴミ)を無用に増やしながら、まったく「サイクル」できないまま、十数兆円以上を注いで存続されてきた。本書は核燃料サイクルの来歴を覗き穴として、エネルギーと軍事にまたがる日本の「核」問題の来し方行く末を見つめ直す。


日本では、戦前から続く「資源小国が技術によって一等国に列す」という思想や、戦間~戦中期に構造化された電力の国家管理、冷戦期の「潜在的核武装」論など複数の水脈が、原子力エネルギー開発へと流れ込んだ。なかでも核燃料サイクルは、「核ナショナリズム」(疑似軍事力としての核技術の維持があってこそ、日本は一流国として立つことができるという思想)の申し子と言える。「安全保障に資する」という名分は、最近では原子力発電をとりまく客観的情勢が悪化するなかでの拠り所として公言されている。

著者はあらゆる側面から,この国の「核エネルギー」政策の誤謬を炙り出している。地震国日本にとって最大のリスク・重荷である原発と決別するための歴史認識の土台、そして、軍事・民生を問わず広く「反核」の意識を統合する論拠が見えてくる労作。


目次

いくつかの箴言──序文にかえて


序章 本書の概略と問題の提起

0.1 核発電の根本問題

0.2 核のゴミとその後処理

0.3 高速増殖炉について

0.4 核燃料サイクルの現状

0.5 核ナショナリズム


第1章 近代日本の科学技術と軍事

1.1 日本ナショナリズムの誕生

1.2 資源小国という強迫観念

1.3 国家総動員とファシズム

1.4 革新官僚と戦時統制経済

1.5 戦時下での電力国家管理


第2章 戦後日本の原子力開発

2.1 核技術とナショナリズム

2.2 日本核開発の体制と目標

2.3 原子力ムラと原発ファシズム

2.4 岸信介の潜在的核武装論

2.5 中国の核実験をめぐって

2.6 核不拡散条約をめぐって


第3章 停滞期そして事故の後

3.1 高度成長後の原発産業

3.2 原発推進サイドの巻き返し

3.3 核発電と国家安全保障

3.4 原発輸出をめぐる問題

3.5 原発輸出がもたらすもの

3.6 世界の趨勢と岸田政権


第4章 核燃料サイクルをめぐって

4.1 再処理にまつわる問題

4.2 再処理のもつ政治的意味

4.3 高速増殖炉をめぐる神話

4.4 核燃料サイクルという虚構


終章 核のゴミ、そして日本の核武装


あとがきにかえて


参考文献

人名索引

事項索引


読書メーターから


この本、古典になるのではないかと、確か反天連のAさんが言っていたようなおぼろげな記憶。PP研で行われている戦後研のテキストとして、読もうと思って図書館で借りて、読めなくて、延長したのに、やっぱり読み終えなかった。いつかちゃんと読みたい。


以下、引用
~~
つまるところ、原発にたいする闘いは中央集権にたいする闘いでもある。すなわち「脱原発、自然エネルギーの世界への道筋は、地方から中央に電力を吸い上げる中央集権主義からの脱却であ」るということになる。(鎌田『さよなら原発の決意』2012年27頁)・・・

(分散型エネルギー体制の説明に関する少し長い中略) 

 ・・・。中央集権的電力管理体制の解体とは、分散的エネルギー供給システムの形成であり、西野寿章の言うエネルギー・コミュニティの復権であるが、それは同時に中央の都市での電力大量消費と地方の過疎地での大量発電という差別的二重構造の解体でもあるのだ。
 97-98頁 (引用文献の紹介部分、一部変更)


岸田政権が主張していた「革新型軽水炉」による建て替えについて

 それは従来型の軽水炉とほぼ同じ構造、三菱重工が宣伝文句としてこの言葉を使い、それを政府が使うという官民一体の構造。213-214頁


終章の冒頭部分、抜き書き
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終章核のゴミ、そして日本の核武装

 本書は日本の核開発・核発電の問題点を、核のゴミ、そして核燃料サイクルを中心に検討してきた。

 福島の事故から十余年、現在は日本が脱原発に向かうのか、原発使用の継続に向かうのかの、決定的な分岐点に位置している。先述のように23年5月31日、議論らしい議論もなく老朽原発の60年超運転を可能とする「GX脱炭素電源法」が参議院本会議で可決された。福島の事故以来曲がりなりにも維持されてきた原発依存低減化方針にまったく逆行するものである。

 原発使用の継続、そして核燃料サイクル建設への固執は、もちろん将来的な重大事故の危険性を抱え込むことであるが、それとともに核発電においてもっとも困難な、それゆえにもっとも重要な核のゴミの処分という問題を先送りし、同時に核のゴミを今後も出しつづけ増やしつづけることを意味している。たとえ事故なく正常に運転されたとしても、何万年も毒性を失わない核のゴミを後世に残す核発電は、端的に「世代間倫理」に悖り、「世代間正義」に反している。それは、将来の人類と地球にたいする、無責任を通り越した、むしろ途方もない犯罪行為ですらある。

 核のゴミの問題の解決には、その前提として、第一に、核のゴミを大きく増加させ、かつ問題を先送りする核燃料サイクルを止めることが必要とされる。そのことは、言うまでもなく潜在的核武装論も技術抑止論も放棄することを意味する。そして第二に、これ以上放射性廃棄物が生まれないようにすることが必要とされる。それはもちろん、国内のすべての原発の運転を止めることであり、核発電自体から撤退することである。そのうえで、この半世紀余りの原発使用で生み出され残されている大量のゴミの処分という「難題中の難題」(山岡2015,p.143)については、20世紀の後半に生きた人間の責任として、逃げることなく向き合い、真剣に考えてゆくことからはじめるしかないであろう。

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