『石垣りん詩集 (岩波文庫)』伊藤比呂美解説について

 購入したのがいつだったか忘れるくらい前に購入。そして、本棚にしまってそのままだった。石垣りんファンを名乗っているんだけど、その程度に堕落したファンだ。奥付を見ると、2022年の10刷。初版が2015年なので、わずか7年で10刷って、すごい。伊藤比呂美の解説を読んだだけで、彼女がどの詩を選んだのか、ちゃんとは見ていない。そう、思い出した伊藤比呂美の解説が読みたいというのがこの本を購入した一番の動機だった。でも、購入時にこれを読んだ気億はない。

 「私の前にある鍋とお釜と・・・」について、伊藤比呂美は「男には評価されるだろう」という言葉を投げつける。性別役割分業を肯定していて、男は安心できるという意味で伊藤比呂美は書いているように思えた。確かに男のぼくはこの詩が好きなのだが、それは伊藤比呂美が書くような意味においてではないと言いたい。この詩を、ぼくのように古い世代の男は、自らが鍋や釜から離れた場所に置かれた不幸の話として、読むべきではないかと思う。ちくま文庫版の詩文集『ユーモアの鎖国』ではこの詩の前に「男たちが得たものは・・・うらやむに足りるものなのか」と問う。伊藤が「男がこの詩を評価する」と書く、その意味で評価する男は多いだろう。しかし、それはこの詩を読むことに失敗していると言えるのではないか。「ひいきの引き倒し」という部分もあるかもしれないが、そんな風に思うのだった。参照読書メモ https://tu-ta.seesaa.net/article/200608article_9.html


 ここがいちばん気になった部分だったので、冒頭に書いた、とはいえ、全体としての伊藤比呂美の解説が嫌いなわけではない。伊藤比呂美のこと、好きだし(笑)。この解説が石垣りんの詩の魅力を伝えることに失敗しているとは思わない。そんな風に思うものの、書きたくなるのは違和感というぼくの性格。伊藤比呂美が石垣りんの第一詩集の詩を「どれひとつとして選びたくない詩はなかった」としつつ、同時に最初のほうのいくつかの詩は「素直すぎて、現代詩というより、ほとんど社会の正義と反戦と平和のプロパガンダだ。アジテーションだ」ともいう。

 しかし、これは「ため息が出るほど、ずっしり重くて潔い」詩の評価の言葉としてどうなのかと思った。「素直すぎて、現代詩というより、ほとんど社会の正義と反戦と平和のプロパガンダだ。アジテーションだ」という文章って、こきおろしているようにしか読めない。この文章、もしかしたら伊藤比呂美はほとんど悪意なく、素直に評価する言葉として使っているのかと、ラジオから流れる彼女の声を想像すると、そんな風にも思えてくる。そして、ぼくの2つめの違和感はこんなアジテーションのような「表現をしないで済んでいるこの時代に詩を書くことができて、ほんとうによかった」という伊藤比呂美の評価。果たして、この時代はそんな「表現をしないで済んでいる時代」だと言えるのか。確かに読む側の多くの人々はストレートなアジテーションのような詩を受け容れなくなっているかもしれない。しかし、それはほんとうに肯定的な話なのだろうかと思う。現代は人びとも現代詩も力を失ってしまった時代ともいえるのではないか、そんな風に思った。ぼくは初期のブルーハーツのストレートな詩が好きだ。「戦闘機が買えるくらいのはした金ならいらない」とか。
 ストレートなアジテーションのような詩を「こうとうな」現代詩人は復活できないかもしれないが、それを復活させる手立てがどこかに欲しいと思うし、それはすでにどこかにありそうな気もする。

 ところで、この解説のはじめのほうに伊藤比呂美は「石垣りんの全仕事を未刊の詩にいたるまで読みつくし」たと書いている。それって、どんな感情を伴う作業だったのだろう。 石垣りんの全体を表せるような詩集を岩波文庫としてつくるために、詩を読む作業、とても苦しそうでもあり、しかしわくわくするような喜びも同時にありそうな。

 そうそう、ちゃんと読み返したら、伊藤比呂美は第一詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』について、最初にこんな風にも書いている。 

「これはすごい詩集だった。どれひとつとして、選びたくない詩がなかった。とくに驚かされたのが冒頭の数編。社会で起こっていることに敏感な目を向け、率直に、勇敢に考えを表現していて、こんなことが詩にできるのかと、私は素直に感動した」

 伊藤比呂美はそんな風に感動を表現した後で、「ほとんど社会の正義と反戦と平和のプロパガンダだ。アジテーションだ」と書いていたのだった。このアンバランスこそが伊藤比呂美を伊藤比呂美にしているのかな、とも思った。



追記
 また、女の詩人と詩のメインストリームに関する記述も面白かった。こんな風に書かれている。

石垣りんは、現代詩のメインストリームというところにも、いなかった。それは石垣りんだけじゃない。女の詩人というのは、どの世代にも一人か二人華々しい輝きをもって存在するのだが、詩の世界の中心にはどうもいない。一人一人の詩人は、もの凄い。ただ、その凄さはなかなか気づかれず、女の詩人という枠にくくられて、中心とか主流とかいうものに近づかないようにされているようだと、七〇年代、若い詩人だった私はそう思っていたのである。

 私たちは、女の詩人である以前に詩人でありたいと思ってきた。詩人であると信じてきた。まあ、ときに男が書かないような乳房だの月経だのについて書くだけで、なんら遜色のないものを書いている、と。でも詩人扱いをしてもらえなくて、女性詩人、女流詩人という傍系扱いをされるのだった。

 詩論を書き、論争し、衆を頼み、徒党を組み、雑誌を主宰などして、後続の人々に影響を与えていけば、もしや流れのまん中に入り込むことができるかもしれないが、どういうわけか、そんな気にならないのである。石垣さんにもなかったろうし、私にも、他の女たちにもなかった。そういうのがわずらわしくてしかたがなかった。

 それでは批評も詩論も、いつまでも女の立場から読まれていかない。男たちには月経も乳房もないし、これまでの詩の歴史をひもとけば、鍋も釜もきんかくしにも興味がないことは丸見えだ。

 月経はともかく、乳房は好きだし、きんかくしくらい俺にもわかると男の詩人たちは言うかもしれないが、石垣りんの書いたきんかくしは、ただ尿をひっかければいいきんかくしではなく、糞臭のきつい便所に這いつくばって、拭き掃除をしないとわからないきんかくしなのである。そういう被害妄想に似た思いを抱きながら詩を書いてきた戦後詩の女たちがいた。その原点にすっくりと立ち上がったのが、石垣りんだった。312-313頁


そして、ここに続けて、

昔々立身出世という言葉がありました。

それはどういうことですか

意味はさっぱりわかりません

という詩を引用して、この解説は閉じる。


Web上の書影の色があまりにも現物と違ったので写真を撮った。印刷のむらなのか、途中で色が変わったのか。


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