『能力2040』その2。差異も平等も! (「ほんの紹介」78回目)
たこの木通信に8月に送った原稿をアップロードするのを忘れて、先に9月に書いたものをアップロードしてしまってた。
以下は8月に送ったもの。
『能力2040』その2。差異も平等も!
(「ほんの紹介」78回目)
先月 https://tu-ta.seesaa.net/article/504462743.html 、途中で紙幅が尽きて書けなかったのが、このブックレットにある市野川さんの章の欧米の能力主義と日本の能力主義との違いの話。これを今月は続きで書こうと思っていたら、偶然、先月のたこの木通信で浜島さんがこの本を援用してこの話を書いていた。わかりやすくまとまっているので引用してみる。
英国等では「できること」自体はよいことで、できることを妨げることはよくないという考えがあるようだ。一方、日本での能力主義批判は、「できること」を評価することに伴う、「できないこと」を低くみること(≒優生思想)に異を唱えるものであるそうだ。そこに違いがあるらしい。
できることはよいこと、で、様々な要因のためにできなくさせられている、だから、障壁をなくすための社会モデルという考え方になるというのは腑に落ちる。
では日本の考え方からはどのようなモデルが生まれるのだろうか。
運動とか勉強とかの世界は、「できる」人とそうでもない人の間がどんどん開いていくと感じているが、そうではない参加の方法がもしかしたらあるのかもしれない。
障害の社会モデルは、出来なくさせている社会を問題にする。社会が障害者を出来なくさせている。だから出来ないのに、社会の問題を見ないで、現状の健常者中心社会を前提として測られる能力だけでいろいろ評価したりするのはおかしい、というのが欧米の能力主義批判。
他方、青い芝から始まる日本の(第二波の?)障害者運動は、能力≒「できること」が評価されるということ自体を問題にした。このようにおおざっぱにまとめても大きくは間違っていないはず。
もちろん、そんなに単純には割り切れない。日本の中にも能力を発揮させられないことを問題にする障害者は少なくないというか、たぶんそっちが多数だし、能力を発揮できるようにすべきという障害者運動も歴史的に根強い。第一波の障害者運動はそのような運動だったということも出来るかもしれない。
これは障害学のなかで言われる「差異派」と「平等派」という話にもつながる。環境を整えて、誰もが「ノーマル」に生きられることをめざす「ノーマライゼーション」。
そうではばく、「ノーマル」という規範そのものを問い、「アブノーマル」でいいじゃないか、アブノーマルの価値をたいせつにしよう、「アブノーマライゼーション」だという「差異派」。この二つにしても、きれいに切り分けられるものではない。一人の人が、ときに障害ゆえの差異を誇り、それを当然であると捉える。同時に他のものとの平等も求め、能力が発揮できるよう環境整備を求めていいはず。
ともあれ、市野川さんはこの日本と欧米、それぞれの障害者運動が主張する能力主義批判の違いに注目し、日本の批判から能力主義の何を、どのように問い直すことができるのか、と問い、4つの視点を提起する。(以下要約)
1、機会の平等だけでなく、結果の平等も。
2、社会モデルを障害だけでなく、能力にも適用。
3、個人査定という「分断・競争の原理に抗して、人びとの連帯の回路を構築し、強化する。
4、人間の価値や尊厳は、能力とは無関係のものと見なす。
これらの視点がとても重要なのはわかる。現代社会にあまりにも欠落している視点だ。そういう意味で、ここが強調されなければならないとぼくも思う。
しかし、染みついた能力主義から自由になるのはそうとうに困難でもあるっていうか、無理な部分もある。東大教授になってしまった市野川さんこそが、能力主義の頂点みたいなところにいるような気もするし(笑)。
能力が発揮できる環境を平等に準備せよという主張と、能力に関係なく人間の尊厳や価値を認め、結果の平等を保障せよという主張を両立させるような思考が求められているのではないかと思った。
~~~原稿、ここまで~~~
これを昨夜遅くっていうか、25時頃アップロードして、目覚めた朝、思った。
「できること」は悪いことじゃないっていうか、やはり便利で、本人にとって楽しいことも多い。また、誰かができることで他者が助かることもある。それは「いいこと」という側面があるのは間違いない。しかし、その「できること」が過剰に評価されすぎ、という話だ。「できること」だけでさまざまな評価がなされ、人間の価値が決められているようなありかたがおかしい、という話だと思う。
同時に、いろんなことができなくても、いのちがあり、存在していること自体の価値が過剰に貶められている。「生きて在る」(生存)それ自体の価値がもっとちゃんと認められる必要がある。また、「できないこと」で見えてくるもの、「できてしまうこと」で見落とすものもある。
これは機会の平等とともに結果の平等を求めるということにもつながる話だと思う。
で、さらに思った、これって24年前に書いた
(障害は)「ないにこしたことはない、か」考
での結論とそんなにかわってない。
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