「母よ!殺すな」について、読まずに考えたこと(追記 2025年1月21日)

どんなきっかけだったか忘れたが、渡邊琢さんの本の読書メモ https://tu-ta.seesaa.net/article/201604article_7.html を読み返した。そこで琢さんが書いたことに触発されて書いた。
~~読書メモから抜き書き~~
89pの注4では「母よ、殺すな」というタイトルに象徴される青い芝による減刑嘆願運動批判が、誤解されがちなのだが、母に向けられたものでなく、母親を見捨てた地域やマスコミに向けられたモノだったと記述がある。やはり、あの本のタイトルのインパクトは強烈なので、ぼくも誤解しがちだったかも。
 と、この段階で書いているのだが、やはりタイトルのインパクトは大きく、そのタイトルが母親を抑圧する方向に作用したという側面は否定できないだろう。そこで父の不在は、どのように語られていたか、いなかったか? 社会の問題は語られていたはずだが。

「障害の社会モデル」から「障害の」を外して、殺してしまった母親のことを考えたら、どうなるだろう。

社会における構造的暴力のなかで、殺すことを選んでしまった母親、社会が母親による殺人を作り出したということも出来る。

しかし、同時に、母親に責任がないかと言えば、そんなことはない。それは母親だけの責任ではないという意味において、減刑嘆願に意味を見出すことは出来るかもしれない。しかし、同時に殺してしまった個人の責任はそれとして残る。

「障害の社会モデル」もそれと同じようなものとして把握することが出来ないだろうか? 障害(出来ないこと)の多くは社会が作り出している。しかし、どれだけ社会が変わっても障害(出来ないこと)は残る。基本的な構図として、社会を問題にするが、社会だけが問題なのではない、という意味で類似性があると思った。方向が逆という感じも残るけど。

従来の捉え方が、あまりにも障害が社会によって作り出されてきたことを無視して語られてきたことに対するアンチテーゼとして障害の社会モデルは誕生したともいえるだろう。

「母よ!殺すな」の場合、社会が作り出した犯罪であるということを抜きに、殺した母親への減刑嘆願運動が行われたことが問題なのではないか。大きな問題は、母が殺した、というよりも、母親が殺すところまで追い込まれてしまった、という問題だ。であるにもかかわらず、そのタイトルが、母親という存在をクローズアップさせているという話でもある。そのタイトルだけ見た多数派は、そこで社会や父親が問われない問題に気づかない。

立岩の解説がついたこの本を購入したのは覚えている(本棚にあった)。しかし、読んだかどうか、何が書いてあったかは覚えてないし、読書メモも残っていなさそうなので、読んでみたいと思うが、いつになるだろう。

P.S.
書棚の本を開いたら、半分くらいのところまで付箋が貼ってあった。
スピンは立岩さんの解説のところにはさまっていた。

以下、追記

そう、これは
「障害の社会モデル」と「犯罪の社会モデル」という風に整理することも出来るのではないかと思った。

「社会がその人を出来なくさせている」(障害の社会モデル)
「社会がその人に犯罪を犯させている」(犯罪の社会モデル)

その二つは、微妙に重なりつつ、差異も小さくないはず。

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