「まっすぐな道」だけじゃつまんないよ、デカルト(Facebookのnoteからの古文書)
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以下、2024年12月、追記
そう、デカルトは「ゆっくりでいい」と言っているのに、ぼくはここでそれをまったく無視している。当時、何を考えて、そうしたのかは覚えていない。おそらく、違うところに目がいって、そこを無視することになったのだろう。
折々のことば:1308 鷲田清一
2018年12月6日05時00分
ゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる
(デカルト)
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真なるものを偽なるものから分かつ判断力は誰にも備わっていると、17世紀フランスの哲学者は言う。ただしそれを持つだけでは不十分で、それを「良く用いる」ことが肝要だと。たとえ不器用に、愚鈍に見えようとも、道を外すまい、過ちだけは犯すまいとの心がけを貫くところにしか道は開けない。『方法序説』(谷川多佳子訳)から。
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近代合理主義の始祖だなあと思う。
より早く
より多く
より効率的に
そんな近代がもたらしたものの偉大さは否定できないだろう。
花崎皋平さんは、「生きる場の哲学」で、それらを総称して、「自由の拡大」という価値軸と呼んだ。そして、もう一つ重要なのに忘れ去られていると彼が回復を呼びかけた価値軸が「類的共同性」。前者に偏重した社会が生んだ歪みが、この本が出てから40年を経て、より明白になってきた。「類的」という言葉さえ、もういらないかもしれない。自然の中で共同性を育みながら循環できる社会と自由の拡大という価値を人類はどのようにバランスをとることができるのだろう。見田宗介は新しい岩波新書で明るい「見晴らし」を描き出し、読み終えたときに、パラダイムの転換はすでに始まっているような感覚にさせてくれたが、社会がどんどんひどいほうに向かうスピードにまにあうのかという危機感は消えない。
デカルトがいうように【つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる】のかどうかが問われているのかもしれない。
以下、2024年12月、追記
そう、デカルトは「ゆっくりでいい」と言っているのに、ぼくはここでそれをまったく無視している。当時、何を考えて、そうしたのかは覚えていない。おそらく、違うところに目がいって、そこを無視することになったのだろう。
ゆっくりは大切だと思うし、好きだ。近代っていうか、現代のメインストリームからは外れているかもしれない。辻信一さんが「ゆっくりは美しい」と書いた頃からももう四半世紀になるが、スピードを求めるメインストリームが揺らいでいるようには見えない。
そう、ゆっくりはいいんだけど、やはり、「まっすぐな道を」と言われたら、そんなこと出来ないと思う。ゆっくり考えて、間違うこともある。間違えに気がついたら、そこから戻ればいいのだと思う。そんなエラー&トライアルが大切なんじゃないか。やってみて、進んでみて、失敗して、そこから学べることは多いはずだ。まっすぐ進むなんてことは出来ないし、それはそんなに大切ではないと思うのだけど、どうなのだろう。
さらに追記
『方法序説』、大学に入りたての頃に読まされたようなおぼろげな記憶があるが、そこに何が書かれていたかは、ほんとうに、まったく、少しも覚えていない。
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