成人した知的当事者たち、 親もとを離れ地域で暮らすことがなかなか進まないのは何故か?
岩橋さんが2022年12月11日にフェイスブックに投げかけた問いは
なぜ、成人した知的当事者たちは、親もとを離れ地域の中で暮らすことがなかなか進まないのか?
(https://www.facebook.com/iwatyans/posts/pfbid0GpWgooGHw3ECr1XnZQgFTGdbbX8WrcNTLY9SQf6BJQp1TUtupdEFvFsHv97KdvwBl から)
なぜ、成人した知的当事者たちは、親もとを離れ地域の中で暮らすことがなかなか進まないのか?
(https://www.facebook.com/iwatyans/posts/pfbid0GpWgooGHw3ECr1XnZQgFTGdbbX8WrcNTLY9SQf6BJQp1TUtupdEFvFsHv97KdvwBl から)
この問いを2年後の2024年12月に岩橋さんがシェアしていた。以下の短いコメントをつけて。
最近考えている重度訪問介護の内容の拡大。この辺りにも、必要な事柄が含まれているように思う。
ここに書かれている説明コストのことには触れずに、この問いについて考えたことを最後に貼り付けておきます。
~~岩橋さんの2年前の問い、全文は以下(改行位置変更、強調は引用者)~~
なぜ、成人した知的当事者たちは、親もとを離れ地域の中で暮らすことがなかなか進まないのか?
様々な理由があると思うが、一番の理由は「説明コスト」を家族に委ねられているからかもしれない。すなわち、自らの暮らしを自らに依拠して築こうとする時、知的当事者は支援を得るにも自らの想いや必要とする支援やその使い方等々を相談する事も含め、当事者自身が説明することが非常に困難な状態や状況の置かれているから。そこを「支援」しなければならないのだけど、それをだれがどのように担いそこにかかる費用をだれがどのように負担するかという点において「説明コスト」という言葉はとても的を射た言葉であり、そこから様々な事柄や課題が見えてくるように思う。これまで私は「支援のキーパーソンの必要性」を語ってきた。それは、親もとで過ごしてきた知的当事者たちが、親という暮らしのキーになる人がいない場において、当事者の事を理解することに努め、当事者が必要とする当事者が暮らし続ける上で必要となる支援を築いていくためにも、キーとなる人の存在が不可欠と考えてきた。 それを特定個人の人が担うというのは非常に危ういために、何らかの形で複数の人と担えるものを指向してきた。しかし、それがなかなか進まないのは、「ともに生きる」という関係性の中から見出そうとしてきたし、当事者本人と関わりのある人たちに担ってもらえるように考えてきたから。では、なぜそれでは進まないのかを考えた時、それは非常に偶然の産物だからだと思う。偶然の産物をより多く生み出すために様々な事に取り組んできたわけだけど、そこにあるのは、「出会いの中で当事者の説明コストをともに引き受けてくれる人」を求めていたかもしれないと思える。逆を言えば「説明コスト」という考え方の中で、誰が担い、どうすれば担えるのかを考えていくと、遅々とした歩みではあるが増えつつある知的当事者の自立生活の実現が増えていくように思う。その役を担う人は全てて弁当であったり、意識ある事業所が持ち出し支えている。たこの木周辺で自立生活を営む知的当事者が多いのは、このコストをたこの木が第三者の位置で担ってきたから。又、グッドライフのように事業所の想いとしてコストをかけられるだけの規模にしてきたから。グッドライフは、コストを自らが出すために事業を大きくしてきた。たこの木は、コストを下げるために地域における関係性を築いてきた。しかし、いずれにしても特異な状況がなければならないし、長い年月をかけなければならない。なので、当事者の自立生活は進まない。ならば、この先国や行政に求めていく事は、この「説明コスト」なるものの費用の公的保障なのだろうと思う。
~~この問いを受けて、説明コストのことは考えずに問いについてぼくが考えたのが以下~~
これを読んで思いました。
グループホームが増えたのと同時に、そこで暮らす人はそれなりに増えていますが、「自立生活」(支援つき一人暮らし)をする人の数は、それなりに増えてはいるものの、そんなには増えていないように感じます。たこの木クラブの岩橋さんが書いているのは、その話だと思います。
例えば、40歳とか、50歳を超えて、家族と同居している知的障害者。家族がどのように考えて同居しているか、調査とかあると興味深いです。もし、ご存じの方がいらしたら、教えてください。また、それぞれの家庭で理由はひとつではないのでしょう。
とはいえ、自分なりに考えられる理由として推測したのが以下。
・知的障害のある子どもの年金が生活費の一部になっているから
・家族と離れて暮らせるとは思えないから
・本人が家族と離れることを嫌がっているから
・家族が本人のことが大好きで、できるだけ長くいっしょにいたいから
・本人が家から出て暮らす方法が思いつかないから
・何も考えてないから、いっしょにいる
・本人が家を出て暮らす環境が見つからないから
・親がいなくなった後でも、親以外の同居者が面倒をみてくれるから
・親以外との暮らしについて、入所施設しか考えられないが、入れないから
他にも要素は考えられると思います。また、当事者の家族にとっても、その理由を確定するのは難しいだろうなと推測します。なかには、はっきりしている例もあるでしょうが。
また、どのタイミングで、家族が当事者と離れて暮らすことを決めて、行動に移すか、という課題もあると思います。『障害のある子の親である私たち』の著者の福井さんは、子どもが30歳になった時をひとつの目安にしていたのを読んだ記憶があります。あるいは、家庭での主たる介助者が65歳になったとき、というのを目安にする方法もあるかもしれません。
中程度から重度の知的障害者の場合、家族だけが、そのことを決めなければならない現状がありますが、家族だけではなく、その当事者にかかわる人たちで話し合って、時間と手間をかけてみんなが納得する結論を出してくという方法もあるかもしれないと思いました。
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