「ムーミン」の物語が教えてくれること (「ほんの紹介」80回目)

2024年10月にたこの木通信に掲載してもらった原稿。ほとんど同じで、もっと詳しいのを https://tu-ta.seesaa.net/article/504892945.html に掲載しているので、既視感がある人もいるかも。

「ムーミン」の物語が教えてくれること
    (「ほんの紹介」80回目)

 「ムーミン童話とはなにか?」という講演記録をいまでもWEBで読むことができます( https://www.hico.jp/sakuhinn/7ma/mu01.htm )。 高橋静男さんという方の大阪府立国際児童文学館退職記念講演です。1998年という26年も前のものですが、古さはまったく感じません。これを読んで、ムーミンの物語は障害者支援にかかわる私にとって、大切な話が含まれているし、そこから出発して、さらにムーミンの物語から見えてくることがあると感じました。

 この講演で高橋さんはムーミン童話では「自己疎外から解放(救済)に至る物語が、延べ2O回以上も繰り広げられ、ムーミン童話全体を覆って」いるといいます。ぼくは「自己疎外からの解放」とか難しい言葉を使わなくてもいいと思いました。それは、いろんなことを抱えながらも、それらを抱えたまま元気になっていく(元気に過ごす)物語だという理解でいい、そんな風に思ったのです。

 それって、障害者支援に関わる仕事のコアの部分ではないでしょうか。森田ゆりさんはそれをエンパワメントと呼びます(ぼくの個人的な解釈ですが)。この講演で例として出されている、モランの話があります。モランは海に住む怪物として、海を凍らせたり人を食べたりして、誰からも怖がられ、忌避・排除されていますが、ムーミントロールは、ある日モランがカンテラに反応をするのを見て、毎夜、カンテラを見せに行くようになります。そしてある日、モランは自分のダンスをムーミントロールに見せるようになります。これを人が他者との関係の中で、自分自身のかけがえのなさに気づき、人との関係の中で自らを肯定し、元気になっていくという森田さん流のエンパワメントの物語だと思うのです。そして、この講演の中で高橋さんは<大好きなこと>を持つことと、それをもって<他者と関わる>ことが、他者と自己を解放する原動力となる】といいます。大好きなことはなかなか見つからないですが、本人が受け容れられる場所で<他者と関わる>ことが、それなりに元気になっていく原動力となるのは間違いないと思います。

 また。それはパニックを減らすことにもつながりそうです。そして、この講演では触れられていませんが、大切なのは、それが誰かから直接的に教えられるのではなく、本人が気づくプロセスがあるということです。ていねいに準備されているときも、そうでないときもありそうです。ムーミンの物語の作者が意識的にそうしたのかどうか、私にはわりませんが、ムーミンの物語の中で、自分を見失って困っている人たちは、他者と交わる中で、誰かから教わるのではなく自分で気づいて、あるいは意識しないまま元気になっていきます。

 さらに見落とせないのは他者へのリスペクトです。ムーミンの物語では他者へのリスペクトが底流に流れています。そうじゃなさそうな場面もあるんですが。そのリスペクトは直接的に表現されたり、されなかったりもするのですが、みんながみんなを大切な存在として関係を構築しているように感じます。それは元気を回復する場を構成するために欠かせない要素だと思うのです。それを「場の力」と浦河べてるの家の向谷地さんは名づけました(これもぼくの解釈ですが)。 

 自分を見失うのも、開き直ってそれなりに元気になるのも自分だけの問題や自分だけの力だけではなく、環境や関係性に大きく依拠しているようです。環境や関係性によって人は元気をなくし、また元気を取り戻します。

 社会運動が趣味と言いながら、いつもさぼっているぼくとしては、社会を構成している構造的な暴力に抗して、なかまといっしょに立ち向かうみたいなことが、もっとあればいいなぁと思います。でも、どうなんでしょう。ぼくが読んでいないムーミンの物語にそんな話があるのかどうか知りません。まあ、なさそうな気もしますが。 ともあれ、ムーミンの物語を全部読んだわけじゃないっていうか、少ししか読んでいないぼくがこんなことをいうのは口幅ったいことこの上ない感じもあるのですが、ちょっと感じたことを書きたくなったのでした。

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 原稿、ここまで

『ムーミンのふたつの顔』という本を最近読んだ
『ふたつの顔』というタイトルは象徴的で、手に取られやすいかもしれないが、この本を読むと、ふたつどころではないムーミンの多様な顔が見えてくる。

また、ここで紹介した高橋静男さんがムーミン全集[新版]6 ムーミン谷の仲間たち の解説を書いていて、冒頭で書いているのは、ヤンソンさんに親しい友達がほとんどいなかったという話。ムーミン童話にたくさんの出会いの話があるのは子ども時代のその体験が影響していると高橋さんは書く。そして、はい虫とスナフキンの話をここでも紹介している。確か、退任の講演でも紹介していた。
 また目の見えない子ニンニの話も紹介して、
 このように〈助けてもらう・助けてやる〉関係のない救済は、ムーミン童話のあちこちに描かれています。漁師、モラン、ママ、パパ、ヘムレン、スニフたちです。みんな、自分を失いそうになったり、自分らしく生きられなくなった人々の物語です。
 ヤンソンさんが、ムーミン童話を書かないでいられなかった理由の一端は、ここにあったとみてよいのではないでしょうか。自分らしい人生をもてないでいることの悲しみは、ヤンソンさんにとって、他人事(ひとごと)とは思えないのではないでしょうか。
と書いている。そう、障害者支援で大切なのは、この視点なのではないかと思ったのだった。この文章ではこれを紹介してないのは、書いたのがこの本を読む前だったから。

 蛇足だが、この文章で紹介した高橋さんの退任講演には『春のしらべ』の「はい虫」の話がある。この「はい虫」という翻訳はちょっと混乱を招くような気がした。というか、ぼくは少し混乱した。実際、ムーミンの公式サイトではクニットと呼ばれていて、こっちの呼び方がいいんじゃないかと思った。https://www.moomin.co.jp/moomins/characters/toffle

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