『障害者介助の現場から』見えてきたこと (「ほんの紹介」81回目)

2024年11月にたこの木通信に掲載してもらった原稿。


『障害者介助の現場から』見えてきたこと
(「ほんの紹介」81回目)

 紹介したいのは『障害者介助の現場から考える生活と労働』。サブタイトルはささやかな「介助者学」のこころみ20131月出版。多くの知り合いが書いているのにこの本のこと、最近まで気づいてなかった(あるいはまったく忘れてた)。今回はこの本全体ではなく、寺本晃久さんによる第3章「介助者がしていること ーー知的障害のある人の自立生活をめぐって」を紹介する。10年以上前に書かれたものだが、いまでも考えさせる契機がたくさんある。この最初の節「地域生活とその介助」の結語は以下の通り。

できる介助者が障害者のできない部分を介助する」といった一方的な働きかけにとどまらず、障害者と介助者とのさまざまな相互作用のなかで生活が送られていく。十分に尽くせるものではないけれど、そこで何をやっているのか、何を考えているのか、書いてみたい。96頁

また、以下は「利用者の意思を尊重」に関するリアリティ。

・・・「利用者の意思を尊重」などということが語られているうちは、実はまだたいした問題ではなく、すでに「なめている」し「なめられている」のじゃないか、と思う。そんなに甘いもんじゃない。

 もちろん尊重しなくていいわけではない。でも、尊重するって大変なことだ。そして、どこからそれをいっているのか、ということだ。「尊重してあげる」という、どこか上から目線でものごとが語られてはいないか。 

 尊重なんてできない、としばしば思う。

 優しい人、人当たりのよい人、性格の明るい人は、普通に暮らせるしまわりも支援できて当たり前。でも気難しい人、問題を起こす人は、だから生活を制限するのが正当化されたり、仕方がない、支援できないとなりがちだ。

 しかし尊重するとは、それらもひっくるめて、尊重するということだと思う。

 私も腹がたつことがある。一緒にいられなくて遠ざかることもある。私の価値観や感情がかき乱される。ときにぎりぎりのせめぎ合いのなかで生活が進んでいく。

 もっとも、いつもそんな苦しいことばかりではないけれど、介助者は引きずり回されて右往左往するくらいでちょうどいいのだと思う。もっと引きずられるといい。そうした事態がよいことだとも思う。堂々と、自信を持って、積極的に、振り回されたりひきずられたりするべきだ。113頁~

 なかなか微妙な話ではある。大切なのはいっしょに生活を作っていくということなのだと思う。しかし、同時に何人ものヘルパーがかかわる「自立生活」での暮らしで本人が気持ちよく暮らすために、という視点で考えたとき、ほんとうにそれだけでいいのかなという思いも残る。ぼくの直感で書くと、振り回されないヘルパーばかりなのは、ほんとうにうんざりだけど、振り回されるヘルパーばかりでも、ちょっと疲れそう。週に1回くらいは振り回されない感じの人がいてもいいかも。

また寺本さんは以下のように書く。

何かができることが、気づかないうちに相手をコントロールしていることにつながっていく契機を抱え込んでいないだろうか

・・・

状況や関係性によっては、結果的に教えたり制止したりすることはあるし、まずは止めなければ命の危険にさらされる場面もある。(略)けれどもこのあたり、私は悩ましくもある。そこを目指すこと、つまり社会への「同化」を、私が求める。世間並みになるための努力を障害者側に押しつけ、社会の他の人々の代わりに、私が執行者になってしまう。

一方で、障害のあるなしにかかわらず、ある程度のルールがあるのだから、と言われることがある。障害者だからわからないから、その例外に置かれることは良くないのだと。それを求めないことは支援の放棄なのかもしれない。

けれども常識的に対処すれば、彼が割を食うしかない。事が起こらないように。さまざまなことを制限する方向へと。そしてついには追い出される(追い出すことに私も加担させられる、加担する)。

そんなつまらないことをしたいために介助をやってるのではない。

 あらら 引用だけで紙幅が尽きた。でも、それらは重度と呼ばれる知的障害の支援に関わる人のために大切なことだと思う。 
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原稿(一部修正)ここまで。
この本のより詳しい読書メモは
https://tu-ta.seesaa.net/article/505104134.html

https://tu-ta.seesaa.net/article/505398641.html

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