『町内会 ――コミュニティからみる日本近代』 (ちくま新書 )メモ

『町内会 ――コミュニティからみる日本近代 (ちくま新書 1797)
玉野和志著
サイト
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076298/
での紹介

内容紹介

加入率の低下や担い手の高齢化により、存続の危機に瀕する町内会。それは自治や共助の伝統か、時代遅れの遺物か。隣近所から日本社会の成り立ちを問いなおす。

助け合いの伝統か、時代遅れの遺物か――

再生の手がかりを探るための必読書。

日本人の「きずな」はこうしてつくられた

加入率低下や担い手の高齢化により、存続の危機に瀕する町内会。回覧板、清掃、祭り、防災活動など、活動は多岐にわたる。そもそも参加は任意であるはずなのに全戸加入が原則とされてきた、このふしぎな住民組織はいつどのようにして生まれたのか。それは共助の伝統か、それとも行政権力の統治技術か。明治地方自治制、大衆民主化の時代から戦中・戦後まで、コミュニティの歴史を繙くことで、この国の成り立ちがみえてくる。直面する問題の本質をとらえ、再生の手がかりを探るための必読書。


以下、メモ

 2023年の正月にいまの家に引っ越してきたら、ここがいまどき珍しく町会が元気な地域だった。
 ホームページもブログもある。 https://sites.google.com/view/sanno34
連れ合いが町会に参加するようになり、ぼくも誘われて、防災協力隊というのに入れてもらった。そこで町会活動に興味がわいていたところ、ぼくよりずっと若い知り合いの大学教員がこの本を学部のゼミで使ったというのを聞いて、読んでみた。

 著者は町内会のこれからのありかたとして、「住民が誰でも参加して、行政とともに協議し、決定し、場合によっては議会に要求する、そんな開かれた協議の場にするのはどうか」(168頁)と提案する。

 問題はどのようにして、そのような機能をビルトインして、多くの人が参加できるような議論が出来る場所を作るかということでもあると思う。そういう意味では、さまざまな親睦のイベントも、そういう場を作ることを意識して広げていくということもあるのかもしれない。


著者による現段階での町内会・自治会の定式化

①加入単位は世帯

②地区居住者の全戸加入が原則

③機能的に未分化

④一定地区内にはひとつの町内会だけ

⑤地方行政における末端事務の保管作用

⑥旧中間層の支配する保守的伝統の温存基盤

このうち⑤と⑥については歴史的な特質であり、⑤はまだ維持されているが、⑥についてはもはや一般的なものではなくなっている。①~④は歴史貫通的。37-38頁(要約)

ということであれば、⑥を定式に入れる必要はないのではないか? なぜ入れるのだろう?

ともあれ、著者はこの後、その4つを統一的に理解できるような概念規定についての議論を紹介する。
(41頁~)

そのあたりの議論も多少興味を引く者もあったが、現在の町内会を考えるうえでそんなに重要だとも思えなかったので略。



128頁に飛ぶ。ここで以下のように書かれている。

 日本の労働者階級は労働組合ではなく、町内会を通してひとかどの人間として認められる道を模索したのである。なぜなら、労働組合が国家によって徹底的に弾圧されたのにたいして、町内会は戦時体制が深まる中で、国家によって奨励され、顕彰されていったからである。国家総動員体制の下で、町内会を担った自営業者の男性や、国防婦人会などを担った女性たちが、あれほどまでに戦争に協力していったのは、それまで彼ら彼女らの存在を歯牙にもかけなかった世間とは違って、天皇制国家がこれを認めたからである。彼ら彼女らはそこで地主や俸給生活者、あるいは男性と初めて肩を並べることができたのである(雨宮一九九七)。

 労働者階級の社会的上昇を求める願いは、国や地域によって自由や民主主義を守る戦いにも、社会主義革命にも、そして全体主義やファシズムを支える可能性をも持っていた。それが近代という時代のある時期を特徴づける大衆組織のあり方だったのである(ムーア二〇一九)。自由主義陣営における労働組合、社会主義陣営における党組織、そして日本では町内会がそのような階級性を帯びたのである。128頁

アジア太平洋戦争までの歴史では、そうだったのかもしれないと思えなくはない。しかし、それは現代はそんなことはまったくないだろう。


GHQが町内会を禁止したという話を認識していなかった。131頁からそれに関する記述がある。確かに、一度廃止するという選択は間違っていなかったのかもしれないと思う。そういう意味ではサンフランシスコ講和以降の復活のさせ方が中途半端だったのだろうと思った。それは日本の戦後の民主化が中途半端だったという証左のひとつかもしれない。


147頁では都市自営業者の衰退によって、それまでの町内会が存在する基盤が失われたとされている。そして、154頁には「2000年代以降現在に至って、すでにかつてのような意味での町内会体制は望むべくもない」とされる。この本で、それ以降のこれからありうべき町内会が存在する基盤をどう見つけるか、ということについての明確な記載はなかったと思う。


それを受けて、書かれているのは、「まずは町内会のような住民組織が存続するのが当たり前と考えることを、やめることから始める必要がある」(158頁)という話。
これは町内会の存在を否定しているのではなく、当たり前ではないが、工夫して、なんらかの方法で町内会を再生させる方法を考えなければならないという話という風に読むことも出来る。同時に旧態依然とした町内会は消えるしかないという話でもあるだろう。

ここで提起されるのは、町内会と市民活動のタイアップだ、町内会が活力を失っていく中で、それまでは町内会が相手にしなかった課題ごとの市民活動と連携する契機が生まれている。この本では「背に腹は変えられない」という表現も使われている。163頁

166頁の節の見出しに「何を捨て、何を継承すべきか」とある。


167頁の最後に、「町会が切り拓いてきたのは。行政との特権的な関係である」と書かれて、次の頁で以下の記述につながる。以下、少し長い引用

・・・それは全戸加入原則によって地域住民を代表しているという建前があるにもかかわらず、実際には少数の人々の特権として機能し、きわめて不透明なものになってしまっている。

 しかし、自治体の行政や議員がその声を聴かざるをえない特権的な場を、町内会が確保してきたというこの成果は、住民自治にとってはかけがえのない財産なのである。このことは継承するに値する、捨ててしまうには惜しい成果なのである。

 そうすると問題は、この特権的な場をどのように開放し、いかにして文字通りの全戸加入原則を実現するかということである。

+協議、決定、要求する場としての町内会

 そこで町内会を、住民が誰でも参加して、行政とともに協議し、決定し、場合によっては議会に要求を突きつける、そんな開かれた協議の場にするというのはどうだろうか。これまで町内会は、行政への協力などの具体的な活動を行う団体と考えられてきた。具体的な活動を行うためには、活動力のある若い担い手を確保する必要があった。そのことがしんどくなってきたのだから、やめてしまおうということである。

 そこは捨てて、行政や議会への窓口機能だけを残すのである。住民の声が町内会という場に集約されることは、行政にとってもありがたいことである。しかもそこがこれまでのような一部の人々ではなく、すべての住民に開かれているならば、あちこちに配慮して民意を集約する手間を省くことができる。行政はその時々の行政課題をそこに持ち込むことで、住民と協議したうえで、住民に協力してもらう事柄を調整することもできるだろう。行政にとっても、そのような場が一元化されることには、メリットが多い。

 事実、自治基本条例などにもとづく都市内分権制度は、実はそのようなことを意図していると見ることもできる。町内会そのものではないが、条例によって公的な組織として認められた住民協議会が、そのような場になることが期待されているのである。168~169

 この行政と協議するという機能は、やはり条例などで位置づけないと厳しいような気もする。 ただ、行政側にその気があれば、出来そうな気もする。

そして、著者はこれに続けて、市民活動団体の役割という節を持ってきて、以下のように書く。

 しかし、町内会が単なる協議の場になって、具体的な活動がなくなることは、行政にとっては、これまでやってもらっていた諸々の下請業務が動かなくなるので、大変な損失である。これについてはどうすればよいのか。そこで、ここに市民活動団体を位置づけるのである。これまで町内会がやってきた活動のひとつひとつを、それに興味をもって活動している市民活動団体に任せるのである。

 ここは単に市民活動団体に依頼するだけではなく、依頼する団体に出来得る限り、町会とのタイアップをもちかけてはどうかと思った。町会の意向を無視して、子供向けのイベントや防災に関する何かができるとは思えない。

 そのうえで著者は町内会を協議の場とする場合、議会との関係が問題になるかもしれないと問いを立て、しかし、それは問題ないはずだと記述していて、その通りだと思った。

 あとがきでは町内会について、「いざというときに共助(住民同士が助け合うこと)や公助(行政や政治に要求すること)が円滑に連動できるように、日頃からゆるやかなつながりをつくっておくこと」と書かれている。175頁

ここはその通りだと思った。

それに続いて著者は町内会のありかたとして以下のように書く。

したがって、活動自体が住民や担い手の負担になったり、行政の下請け仕事で役員が疲弊するようなことは、極力避けるべきである。活動はなによりその担い手自身が楽しめることを優先し、地域の人たちがそれとなく知り合える親睦を旨とすべきである。行政からの要請には、ときとしてそれを断る勇気をもつべきである。総会での事業報告や会計報告を、広く地域の人々にお知らせし、いざというときに当てにしてもらえるような、それほど負担にはならない会費を納めてもらえるような、最低限の信頼を維持していけばよいのである。

 それなりの労力をかけないと楽しいイベントは作れないということをこの町会活動に参加して体感した。その労力をかけたプロセス自体を楽しくするような工夫が必要だろう。そして、いま住んでいる地区の自治会ではそれがやられている。ここでも、その空気感が大切だと感じる。町会/自治会におけるSNSの有効利用なども意味があるかもしれない。

 また、単身者の安い会費やや生活困窮者向け配慮の設定なども必要になると思った。

 ともあれ、町会を知ってもらう、興味を持ってもらえるようなイベントが求められているのだろう。そのような意味では、地域にある保育園などとの連携なども必要で、保育園側が乗れるような企画があればいいだろうと思ったりもした。

 また、地域の住民は少ないかもしれないが、障害者事業所や高齢者のデイケアや訪問介護事業所などとの連携もあっていいのではないか。そして、地域の障害者事業所の側も地域と積極的に関わることが求められている。その窓口として町会/自治会が使えればいいだろうし、それに応える体制も求められている。

 行政の下請けの仕事を障害者事業所やデイケア施設と町会が連携して請負い、それなりの対価を払ってもらうというようなこともあっていいのではないかと思った。

 そこから、思ったのだが、在住だけでなく、そこにある事業所や在勤の人とつながる水路を模索することも必要だろう。


 いま、気づいたのだけど、サブタイトルの「コミュニティからみる日本近代」の部分はほとんど、読み飛ばし、町内会ー自治会をどう再生するかという視点での紹介になってる。「コミュニティからみる日本近代」というテーマも興味深いんだけど・・・。
 欧米の労働組合に代わるものとして「近代という時代のある時期を特徴づける大衆組織のあり方」というのは、どうもしっくりこなかった。

近代と現代の境目をどこに置くかという話とも連関吸えるのかもしれない。


ともあれ、町内会/自治会、従来の方法では続かないが、工夫次第では可能性はいおおきいと思った。

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