エンパワメントは達成されるものとしてではなく、プロセスとして捉えたほうかいいのではないか

たこの木通信に書いた
場の力・エンパワメント・障害の社会モデル
(「本の紹介」はほとんどしてない16回目)
に佐藤寛のエンパワメント論(2005)を孫引きして、
「エンパワーメントは当該社会内部の社会関係の変容によって達成される」
という説を紹介している。

 社会関係を抜きにエンパワメントはありえず、エンパワメントは社会関係を含めたすべての関係性のなかで実現するプロセスだと思う。そしてエンパワメントとはプロセスをさすもので、「達成される」というような性質のものではないのではないか。

 さらに言えば、エンパワメントは「当該社会内部の社会関係の変容によって」実現するプロセスであることが多く、その社会関係を抜きにしてエンパワメントが語られがちであるので、この佐藤寛さんの指摘はそういう意味で大切な指摘だと思う。

 しかし、同時に「当該社会内部の社会関係の変容」がなくても、実現するプロセスである場合もあるのではないか。
そのような違和感は、エンパワメントが「達成されるもの」と考えるか、それをプロセスとして考えるかという、考えかたの違いが起因しているようにも思える。

 誰かが元気になって、エンパワメントしていると感じることはある。多くの場合、そこには「当該社会内部の社会関係の変容」がある。しかし、社会関係自体が変容しているようには思えなくても、本人による社会の把握の方法を変える、というか、その中の自分の尊厳に気づくことで元気になることはある。それを含めて「社会関係の変容」と呼ぶかどうかは微妙ではあるが、客観的には社会関係は変容していないとも言えるのではないか。

 それを「達成した」状態と見ることも出来るかもしれないが、エンパワメントは切り取った静止画のように捉えるのではなく、変容するプロセスとして捉えたほうが実態に近いのではないかと感じる。

 エンパワメントがうまくいってるときもあれば、同じ人の時間の経過の中でうまくいかないこともある。そういう意味でもエンパワメントを常に変容し続ける「動的なプロセス」として捉えることのほうが、実感に近い。

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