『財政と民主主義 人間が信頼し合える社会へ』メモ
財政と民主主義
人間が信頼し合える社会へ
- 神野 直彦 著 刊行日 2024/02/20
PP研の経済・財政を読む会のテキスト。https://www.peoples-plan.org/index.php/2025/02/15/post-1330/
読む会には参加できなかったが、図書館で借りて読んだ。
以下、読書メーターに書いたメモを少し補足
岩波のサイト https://www.iwanami.co.jp/book/b639922.html での紹介文、【新自由主義の浸透によって格差や貧困、環境破壊が拡大し、人間の生きる場が崩されている。あらゆる決定を市場と為政者に委ねてよいのか。いまこそ人びとの共同意思決定のもと財政を有効に機能させ、危機を克服しなければならない。日本の経済と民主主義のありようを根源から問い直し、人間らしく生きられる社会を構想する。】 地球が生き残れるかどうかという時に戦争とかしている場合ではないのに、いまだに続くウクライナやガザでの軍事侵攻。(すごい斜め読みで読了、付箋をつけたところだけちゃんと読んでタイプした)
生産物を取引する生産物市場と、土地、労働、資本が生みだす要素サービスを取引する要素市場。両方がある市場社会。要素市場のために所有権の設定が必要となり、そこで政治システムによる強制力が必要。強制力の発揮のためにも租税が必要。(租税の調達のためにも強制力は必要だが)。こうして市場社会とともに財政が誕生する。つまり、市場社会で社会統合を果たす国家とは「租税国家」。市場社会を統治するのは生産要素を所有する被統治者。「統治される【民】が、支配者である【主(あるじ)】となる。したがって市場社会の政治システムは民主主義
72~73頁では「人間が生存していくために必要不可欠な基礎的ニーズである対人社会サービスへのアクセスの保障責任を財政が果たさなければ、社会統合が困難になることをコロナ・パンデミックは焙り出した」と著者は書く。国連障害者の権利条約は障害者が他のものと同様に生きるためのケアの保障が必要だと宣言したが、障害者だけでなく、すべての人が「生存していくために必要不可欠な基礎的ニーズ」を満たす権利を有しており、それを財政が保障しなければならないということなのだろう。
コロナ・パンデミックに関してはこんな記述も。 【奇妙なことに感染防止策と医療体制の整備のための経費を上回る1兆8482億円が「観光・消費支援」の経費として計上されていた。つまり、医療サービスの提供体制の限界から、感染防止を強化することを目的として人びとの非接触を推進するために、移動や休業を要請しながら、「経済を回す」という名のもとに、そうした要請と相反するような「観光・消費支援」に多額の支出が計上されたのである】(78頁)。「観光・消費支援」が不要だと著者も言っているわけではないが、優先順位がおかしい。
コロナ・パンデミックからの教訓は、それ以前の状態に戻せばいいということではなく【経済システムは、社会システムで営まれる人間の生存を支えるためにあるという基本的視座から、歴史的変化の諸条件にともない、それと整合的な経済システムを再創造しなければならない】(91頁)ということ。
【未来に向かって目指すべき新しい社会ヴィジョンの形成は、社会の構成員の共同意思決定つまり民主主義に委ねられる必要がある。…それには二つの前提…一つは未来は誰にもわからないという前提…。もう一つは、社会の構成員には、どんな障害を負っていようとも、かけがえのない能力があるという前提…。この二つの前提を受け入れれば、未来の選択は社会の構成員がかけがえのない能力を発揮して、共同で意志決定をする民主主義に委ねたほうが、間違いが少ない…】98-99頁。ここで神野さんが提起している民主主義の内容が問われると思った。
また、107頁では、「政府縮小=市場拡大」戦略でアソシエーションが利用されることへの危惧が書かれている。自発的なアソシエーション(ボランタリーセクター)の活性化は下からの運動によって推進されるものであり、政府システムによる上からの強制では機能しない、という話だ。 現状の日本でもこのような「簒奪」と呼べるような事態は数多く発生していると思える。この本に書かれているわけではないが、例えば子ども食堂、強制はされていないが、その原因を取り除くことを意識せずに子ども食堂だけを行う危惧もある。
「神野さんが提起している民主主義の内容が問われる」と書いたが、そのヒントは113頁にも書かれている。キーワードは「参加」だ。民主主義は選挙だけではない。「共同の困難に襲われたときに社会の構成員が解決方法を考え、お互いの認識を確認し合いながら、合意形成していくしかない」と書かれている。それが出来るような参加の仕組みをどう作るのかというのも大きな課題だ。旧来型の町内会をそのようなものに変えていくという方向もあるかも。参照:https://.seesaa.net/article/513308661.html
そして、128頁には【格差と貧困が溢れ出し…中間層が没落し】という文章に続いて【民主主義の危機的状況にある】という現状認識が語られる。その経済状況は経済における民主主義の危機的状況と言えるかもしれない。確かに【民主主義の危機的状況にある】と感じるが、その中身はそれだけではないはずだ。何が【民主主義の危機的状況】であるのかという話はもっと深められるべきだろう。
129頁に書かれていることは、簡単に言えば、高負担高福祉か低負担低福祉かという選択を地域社会の住民が平等な権利でその選択に参加することが出来るはず、という話だが、高額所得の人や資産課税を増やすことを高負担と呼ぶのかどうか?(ここでは、注意深く高負担という表現は使っていないが、片方に低負担という表現を用いているので、単純にそれに対比しているものは高負担だではないかと思ってしまう)。税金の使い道を変えることや、税収の構造を高額所得者や収益を上げている企業にシフトすることを「高負担」と呼ばないほうがいいと思う
第3章の結語部分では、国家間で協力しなければ解決しない問題が地球上に山積しているのに、競争原理が社会のいたるところで広まっているという。確かにその通りだ。そして、そういうことを主張するトランプ大統領が当選したりする。今回の大統領選挙では得票もトランプが多かったはずだ。この結果と民主主義が重要という著者の主張をどう重ねることが出来るだろう。参加型民主主義を実現したら、この結果を変えることができるだろうか?
途中で結語部分の紹介の話からそれてしまった。ともかく著者は競争原理ではなく、協力原理を下から積み上げていき人間の尊厳を取り戻すための民主主義が重要だというのだが、それがどのように可能になるかは、ここでは書かれていない。それが重要だと書くのは容易だが、そこから大きく離れて、どんどん離れつつあるように見える社会の中で、その民主主義をどう形成出来るか。その部分でこの本ではリアリティを感じることは出来ない。
171頁には租税負担率の低さへの言及がある。租税負担率というときに保険料は入っていないのだと思う。そこを分けて語ることへの違和感をなかなかぬぐえない。高負担感はぬぐえないのだが、そのあたりをどう考えたらいいのだろう?
また、175頁に記載されている税の話も興味深い。日本では、所得税はすべての所得を総合して累進税率を適用することになっているのに、租税特別措置法によって累進税率の対象から、利子・配当などの金融所得は累進税率ではなく、・・・分離課税されることになっていると書かれている。1億円を超えると課税が逆進的になっているとのこと。なので、そこを変えない限り、所得税の最高税率を引き上げても、所得税の累進性は高まらない、とのこと。
さらに税制に関する「差別性」の話が178頁から展開されている。これは差別がいけないという話ではなく、差別が必要という話だ。所得の「量」ではなく「質」の差異に着目して、経済力に応じて課税することを「差別性」と呼ぶらしい。所得の対象に応じて累進負担を求めるだけでなく、金融所得や不動産所得には重く課税し、労働所得には軽く課税する、という話だ。
1940年の税制では存在していた差別性の原則の復活が、現在、喫緊の課題になっていると著者はいう。
こんな表現もある。【巨大な富の所有者たちが求める政策とは、自分たちの限度を知らずに膨れ上がる所有欲求を充足する政策である。それが「強盗文化」を花開かせてしまったのである。/ しかし、民主主義の形骸化を嘆いている余裕はない。「強盗文化」の帰結として「根源的危機の時代」に足を踏み入れてしまったからである。私たちには人類の存亡がかかった間違いの許されない共同意思決定をする歴史的責任が求められている。】238頁
本書の結語近くに書かれているのは、「人間を人間として充実させる」ヴィジョンを描く「未来のシナリオ」は、民主主義を活性化させることによって、財政を有効に機能させるシナリオと結びついている必要…。…。経済、社会、政治という3つのサブシステムが財政を調整して、社会統合を果たしていくという本書の…方法論からすれば、民主主義が形骸化してしまい、財政が有効に機能しなかったために「根源的危機の時代」に足を踏み入れた…。(続く
続き) (長い略) 「人間を人間として充実させる」未来へのヴィジョンを描き、希望を胸に、意志の楽観主義にもとづいた努力を重ねることが、「根源的危機の時代」に生を受けた私たちの責任なのである。 この本はここで閉じられ、「あとがき」に続くがメモはここまで。
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