『性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ』メモ
性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ
被害者と加害者が往復書簡を続ける理由
https://bookman.co.jp/book/b651697.html
著者 斉藤 章佳 にのみや さをり
出版年月日 2024/09/06
目次
はじめに
第1章 被害者の“その後”を知る対話プログラム
「忘れられないから」苦しむ/自分の加害行為を過小評価する加害者/加害者は被害者のことを知らない/加害者臨床の現場も、社会も、被害者を知らない/被害者の“その後”を語る対話プログラム/被害者と加害者の過ごす時間の違い/被害者の“その後”はいつまでも続く/加害者が取り組む三つの責任/被害者を襲う「記念日反応」/被害者と加害者に共通する現象/被害者も、加害者を知る/したことと向き合えない加害者/いつまで逃げればいいのか/対話しなければ辿り着けない場所がある/回復が一人では不可能な理由/加害者にも「解離」があるのか?/被害者を出した事実から目を逸らしたい
第2章 性加害を自分の言葉で語ることの難しさ
あなたの「弱い話」が仲間の強さになる/語らずに身を潜める加害者/自分をごまかせない「書く」という行為/加害者もまた加害者を知らない/性加害に重い、軽いがあるのか/たかが盗撮、なのか/被害に優劣をつける意味はない/被害者も、被害を相対化する
第3章 「認知の歪み」を理解するために
レイプ神話は誰がつくるのか/なぜ自分だったのか、の答えを探すのはいつも被害者/自分こそ被害者だと思う加害者/加害者のあいだで似通う認知の歪み/人をモノ化するという自動思考/ヒト扱いされてこなかった経験がモノ扱いを生む/「男らしさ」を押し付けられる/自らのトラウマに気づけない加害者/弱みを見せられずに孤立する/SOSを出せないことが問題行動につながる/低い自尊感情、高いプライド/承認欲求はなぜ性加害につながるのか/ストレスを解消する選択肢を間違う/被害はなかったことにできない/自分にも他人にも価値があるという健全な思考/女性をうらやましいと思う心理/女性に嫉妬しつつ下に見る「弱者男性」/女性にモテて当たり前、と思わせる社会
第4章 性暴力の加害者となった君よ、 すぐに許されようと思うなかれ
謝罪というパフォーマンス/許されることを前提としている傲慢さ/許すことと、赦すこと/加害者には回復を目指す責任がある/手紙という対話でしかできないこと/回復のパターンは一つではない/被害者でい続けることの辛さ/加害者でい続けることの安全さ
巻末対談 にのみやさをり×斉藤章佳
おわりに
本の帯の文章
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加害者は、被害者の ことを知らない。
国内最大級の依存症専門クリニックで、性加害者への再犯防止プログラムに取り組む斉藤章佳。彼らが自らの加害行為の責任に向き合うためには、性被害者の「その後」を知る必要がある。そんなとき、当事者のにのみやさをりと出会う。にのみやは、斉藤に単刀直入に言った。「私は加害者と対話したいのです」——
そこから始まった、前代未聞の修復的対話。本書はその貴重な記録と考察である。
以下、読書メーターに書いたもの(少し訂正)
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各地のクリニックに院長の胸像を置くことに象徴されるような榎本クリニックのあり方に疑問はあるが、斎藤さんの主張はそれとは関係なく正しいと思う。この本で明確になる「ある意味では構造が引き起こした犯罪であるという視点」と、しかし、「個人の責任もしっかりと問う姿勢」。被害者の痛みを共有し加害に関する個々の責任を厳しく問いながら、加害者一人ひとりの回復を求め、再び犯罪を繰り返さないために、必要な対話を継続する。そのような複眼的な思考方法はとても大切だと思う。03/24 01:37
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「被害者の話を聞くと、表情がのっぺらぼうになる」という加害者側の反応についての考察を求めた結果が興味深かった。以下抜粋。「自分の問題行動を直視して感じてしまう何かを避けているから」「被害者と加害者の『大きな壁」…被害者のことを理解しようとしてもできないから感情がなくなったり、理解しようとすると苦しいから感情を消したり、加害者側が「バリア」を張ってしまっていることがのっぺらぼうにつながる」「…『自分は悪だ』という感覚は、自己価値に対する強烈な脅威…無意識のうちに…感じないようにすることで、 自分を守って…
03/25 03:31
続き)これを受けて斎藤さんは「表現はそれぞれでも、防衛機制からのっぺらぼうになっているという仮説は、的はずれではないと確信」したという。(以下、要約)そして、参加者から「にのみやさんの声で自分の被害者の声ではないから他人事のように聞こえるのかな」という反応がある。これを受けて、にのみやさんはプログラムの参加者全員に返信する。「話しているのはにのみやだが、本当の被害者が来たら、事態を受け止められず、それこそのっぺらぼうになるのではないか、私の体験から、想像を拡げて欲しい。一人ひとりの顔を想像して欲しい」と04/01 01:07
プログラムの中で「想像して欲しい」と繰り返すにのみやさんに言及して斎藤さんは、想像力の欠如は加害者のほぼ全員が抱える課題であり、そもそも想像力があり、他者の痛みや苦しみに思いを馳せることが出来ていれば性加害はなかったはずだと書く。以上、73~80頁 被害の痛みにどのように気づけるのか、というのが出発点になるというのは、ぼくも学生時代に指摘された話であり、ひとつの大切な原点になっている。そのことを欠いた形で性暴力に関して、何か書いたり語ったりしてはいけないのだろう。ぼくにそれが出来ているか(続く
04/01 01:20
続き)ということも問い続ける必要がある、というのは、そのことをときどき忘れてはいないか、忘れてるだろ、という自分への戒めでもある。そして、第1章の最後には以下のように書かれている。「対話プログラムで彼らが自らについて知る最初のことは、自身の“向き合えなさ”です。どのようにすれば、責任について考えられるようになるのか……。ここはスタートに過ぎません。道のりは遠いのです」
04/01 01:27
第2章の冒頭に書かれる節は【あなたの「弱い話」が仲間の強さになる】というもの。斉藤さんが自助グループに通い始めた当初、人からすれば自慢話や武勇伝に聞こえるようなことばかり話していたという。それでは「自分のことを話している」ことにはならず、そのことに気づいていない斉藤さんに、ある当事者が「私は斉藤さんの弱い話が聞きたいんだ」「成功体験は、ここではいらない。あなたの弱い話が、仲間の強さに変わるんだ」と言い、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けたという。86-87頁
04/06 07:53
そして自助グループでの「語れなさ」の背景には、"男性”という属性があると書く。自分の弱さを表に出してはいけないとされる男性という性。そうなると、自分の弱い部分から目を逸らし、傷みに鈍感になって生きていくほうが、いっそ楽だと考えるようになっても不思議ではない、と斉藤さんは書く。そして、自分の痛みや弱さを"ないことにする”男性の特性は性加害を繰り返してきた人たちには、特に色濃く表れていると感じます、と書いている。88-89頁
04/06 08:28
95頁で斉藤さんは「被害者の方に申し訳なく思います」などの文面を数えきれないほど見てきた。一見すると殊勝な態度に見えるが、それは真の謝罪からは遠い場合というようなことを書いている。それは真面目に再犯防止に取り組み人が言いそうなことを書いている、または、そのように「評価されたいと期待して書いているのではないかと想像します」「これは、語っているうちには入りません。対話プログラムは、どれだけ自分自身の生き方を振り返り、加害行為の責任に向き合い、言語化できるか に取り組み場です」とのこと。
04/07 23:02
102頁からの部分では「対話プログラムの参加者を見ていると、自分のしてきたことを他者のそれと比較する人が多い…」「ほかの性加害者と比べたら、自分のほうがマシだ」と確信するような人の思いについてそこからどんな思考に陥るのか、当事者の書いたものをベースに考察していく。第2章の結語部分では、【被害に優劣をつけることで生まれてくるものは何もありません。当事者同士の分断を招くだけでなく、受けた傷を過小評価し「ちょっと触られたくらいで被害届を出したら、怒られそう」「盗撮のことはイヤだったけど、この程度のことは誰にも相談できない」のように、被害者の口を塞いで】それは加害者のメリットとなるのです、と書いている。(114頁)
04/07 23:15
【弱さや醜さを開示することで周囲とつながる】 にのみやさんはこんな風に書く。
「・・・。男は強くあれ、とよくひとは言いますけれど、そもそも強さってなんだろう。/私は本当の強さというのは、自分の弱さや醜さを曝け出せること、だと思っています。自分の弱さや醜さを曝け出すことができれば、周囲と繋がることもできる。そう思いませんか? その力こそが、本当の強さではないのかな、と。・・・」174頁
確かに「弱さや醜さを開示すること」はとても難しい。
04/08 01:34
192頁からは「謝罪というパフォーマンス」という節がある。簡単に書いてしまえば、うまく書かれた謝罪文とか、涙ながらの謝罪とかのパフォーマンスはいらない、という話。ここではやりすごすための謝罪パフォーマンスの話が紹介されていて、謝っている本人はそのときは本気だということがあることは明確には書かれていないが、そういうこともあると思う。それにまわりも影響される。裁判官までが影響され相場よりも軽い量刑がでることもあり、それは辛いと斉藤さんは書いている。193頁(続く
04/09 06:59
続き)しかし、大切なのはそのようないっときのパフォーマンス("点”)ではなく、「日々連続してつなげていく“線”のようなもの。点を並べて、線にすること」だという(195頁)。プログラムの参加者である加害者たちは「事あるごとに反省と謝罪を口にし、文章に」するが、「そこに被害者はいません」。謝罪について被害者がどう思っているか【想像力を働かせることが出来るはずなのに、それをしないまま「謝罪したい気持ち」を優先します】と斉藤さんは言い切る。196頁 (続く
04/09 07:09
続き)そして、にのみやさんが謝罪を受けて、納得しなかった例を手紙を引用しながら紹介して、加害側の「自分のためだけの謝罪だったと推測できます」(198頁)と斉藤さんは書く。ぼくはもしかしたら、その時は本人なりに本気でにのみやさんに対して謝罪してたかもしれないとも思う。例えそうであったとしても、それが"点”であっては、結局、意味がないものになってしまうのではないかと思った。
04/10 00:29
205頁にあるにのみやさんからの手紙。(部分)
性犯罪加害者になってしまった君よ、すぐに被害者に許されようとか思わないでくれ。そうではなく、ここからどう生き直すのか、そもそも自分がなぜこんな犯罪を犯したのか、それはどれほどのひとや時間を巻き込み、誰かの人生を薙ぎ倒したのか、等々、他人に問うのではなく自分で考えていってほしい。問うて誰かが応えてくれる、それで安心してしまってはならないんだ。常に自問自答を続けること、それが、いかに生きるかに繋がるのだから。その姿を、生き様を、被害者はじっと、見つめている。
04/12 00:50
213頁からは【加害者には回復を目指す責任がある】という節。依存症は確かに病理ではあるが、過剰な病理化は本人の責任行為を隠ぺいする機能があるという。嗜癖行動は「それを手放し、そこから立ち直る、回復することができる」。同時に依存症は完治する病ではないので、スリップしない保証はないが、しかし、回復はできる、とのこと。【死と隣り合わせの孤独から抜け出し、周囲とのつながりを再構築し、健全な社会関係を営むことが「回復」といわれる状態です。これは病理モデルだけでは捉えきれない「生き方」の回復】214頁
04/13 02:05
同時に異なった社会環境があれば彼らは加害者にならなかったかもしれない、という視点も提示されている。異なった社会環境とは、 ・どんなに辛いことがあっても幼少期から話を聞いてくれる友人や家族がいること。 ・適切なストレス・コーピングを知っていること。 ・社会に女性蔑視や男尊女卑の価値観がないこと。 ・幼少期からの包括的性教育の実践があること、 など例としてが挙げられている。すべてを「依存症になった個人の問題」に矮小化して、その背景にメスを入れなければ、加害行為を繰り返す男性が再生産されるだけ、と書かれている。
04/13 02:14
加害を行なった個人の責任と、その行為における社会的背景にメスを入れること、その両方が問われている。
04/13 02:17
220頁~は、手紙というスタイルはその弱い部分を見せるのに適していると改めて感じたと斉藤さんが書く、「回復」についてのやりとりが紹介されている。
04/13 02:22
依存症からの回復には「よくなった」という実感が得られず、【一足飛びに進むこともなく、「今日一日」を基本にしながら本当に地味なことの積み重ねです】(222頁)。性加害をしていた時は自分の弱い部分を吐露したり相談したりといったことを避けていたはず。それができない生き方から、少しずつできるようになる生き方に変容するために反復練習が必要で、面と向かっては言いにくいけれど、手紙は書きやすいという参加者は多い、とのこと。(続く
04/13 02:34
続き) このやりとりで重要なのは、参加者が自分自身の回復について考えることが、被害当事者の回復に思いを馳せるきっかけになっている点(222頁)
04/13 02:37
234頁では「自分は幸せになってはいけない」と「一生、十字架を背負って生きる」という二つが並列に並べてあり、そういう言葉はよく聞き、一見、反省している態度のようであり、社会がそのような態度を求めてしまうこともあり、そうするとそれが「被害者ズラ」をするようになる、これは自分の罪と向き合う態度とは言えない、と書かれる。この本のこの部分では、例に上げた二つの言葉に差異はつけられていないが、その二つにはかなり異なった意味合いがあるのではないかと感じた。「幸せになっていけない」ということは否定できるが、自分がしてしまったことを「背負い続ける」ことは必要なのではないか、と思う。依存症が完治しない病であれば、それは背負い続けたほうがいいのではないか、と思った。 もちろん、それが思考停止の上にある模範解答として語られるのであれば、問題であり(239頁に記述がある)、ここでは、そのようなものとして表現されているのかもしれないが。(続く
04/13 03:00
続き)にのみやさんは240頁の手紙で、「加害者であることに対する囚われは、もはや呪縛なんじゃないかと感じ…その呪縛に囚われていれば自分は安全、みたいな。だからそこから動こうとしない、ずるいと私は思います」「自分が加害者であるということに逃げ込んでしまえばもう誰も何も自分には言ってこない、といわんばかりの様相です」と書く。同時に加害者になったことからは逃れることは出来ず。背負わねばならぬ責務」だとも書いている。「責務として背負い続けること」と、「加害者ということに逃げ込むこと」の差異はけっこう微妙。(続く
4/13 03:10
続き) 斉藤さんは242頁に責任をとる過程には恐怖も葛藤もあり、辛いことだが、【「加害者である」は、そこから逃れる魔法の言葉なのかもしれません】という。加害者であることを背負い続けることと、加害者であることに逃げ込むことの差異は微妙で難しいと思う。
04/13 03:33
対談の前の本文の結語近くに書かれているのが以下。
対話プログラムを7年続けてきて、対話とは、過去からつながる今という地点に被害者と加害者の双方が立ち、お互いが向き合って言葉を交わし、お互いを知り、それを自分の生き方へと反映させる。その場で劇的な変化や確かな手応えは感じられなくとも、その先につながる未来をよりよいものにするために、少しずつでもお互いのあいだにある摩擦を減らしていく――そんなプロセスだということが見えてきました。(245頁)
04/13 11:39
巻末の斉藤さんとにのみやさんの対談のその最後のほうで、斉藤さんはこのプログラムを「修復的対話」と名付けたという(268頁)。「修復的司法(正義)」から名付けたこの名称。確かにそういう側面は強い。と同時に、修復的正義(司法)restorative justice には以下の説明もある。【修復的正義の主な役割は、許しと和解ではない。許しも和解も被害者が決めることである。被害者が加害者を許す、または和解を求めるかどうかに対していかなるプレッシャーもかかってはならない。】ここは誤解しないほうがいいと思った。(続く
04/13 13:00
続き)上記の説明は、【修復的正義(司法)restorative justiceとは何か 『責任と癒し』メモ】https://.seesaa.net/article/202005article_1.html から。ともあれ、いろいろ考えさせられる本で、最初に読み終えてから、このメモを負えるのに3週間かかってしまった。とりあえず、メモはここまで。
04/13 13:06
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