「個人的なことは政治的なこと」とは性差の社会モデル?
すでに誰かが書いたりしていると思うが、ラディカル・フェミニズムが生み出した「個人的なことは政治的なこと(The personal in political)」というスローガンについて。
これは個々の女性に降りかかるさまざまな状況(必ずしも抑圧や差別だけでなく、肯定的な感情を伴うものもある)を個人モデルで捉えるのではなく、社会モデルで捉えようという話なのだろう。「障害の社会モデル」と呼応した言い方で考えると「性差の社会モデル」と呼んでもいいかもしれない。松波めぐみさんの『「社会モデルで考える」ためのレッスン』を読んで、そんなことをふと思った。もちろん、古さで言えば、障害の社会モデルという話より、ずっと前から「個人的なことは政治的なこと」という言説はあったので、それを後付けでこんな風に説明できるという話ではある。
これは個々の女性に降りかかるさまざまな状況(必ずしも抑圧や差別だけでなく、肯定的な感情を伴うものもある)を個人モデルで捉えるのではなく、社会モデルで捉えようという話なのだろう。「障害の社会モデル」と呼応した言い方で考えると「性差の社会モデル」と呼んでもいいかもしれない。松波めぐみさんの『「社会モデルで考える」ためのレッスン』を読んで、そんなことをふと思った。もちろん、古さで言えば、障害の社会モデルという話より、ずっと前から「個人的なことは政治的なこと」という言説はあったので、それを後付けでこんな風に説明できるという話ではある。
とはいえ、社会的性差という言葉があり、それはジェンダーと呼ばれる。それがあったから、性差の社会モデルというような表現はなかったのかもしれない。
生物学的な性差を理由にして、さまざまに不当な格差が現在も存在している。現実に生物学的な性差はあり、そこを補うための休暇制度などのことを合理的調整(配慮という訳は使わない)と呼ぶことも可能かもしれない。
そんな視点で石垣りんさんの
私の前にある鍋とお釜と燃える火と
を読み返してみる。この詩に関しては https://tu-ta.seesaa.net/article/505015960.html でも触れた。
男が社会的性差によって鍋とお釜と燃える火から遠ざけられてきたことは、生きるということの全体性を獲得できずに来た、まあ、逆に言えば、それを獲得しなくても生きてこれたという話ではあるが、女性がその全体性を獲得できたことを寿ぐ詩だと呼ぶこともできるのではないか。それが以下に表現されていると思う。
それらなつかしい器物の前でお芋や、肉を料理するように深い思いをこめて政治や経済や文学も勉強しよう。それはおごりや栄達のためでなく全部が人間のために供せられるように全部が愛情の対象であって励むように。
ただ、時代的な制約は確かにあり、この詩の以下の部分は時代を反映していると言えるかもしれないし、伊藤比呂美さんが岩波文庫版の解説に書いた「男には評価されるだろう」という部分と呼応しているのかもしれない。
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
この詩の全文は
https://tu-ta.seesaa.net/article/200803article_19.html で引用している。
https://tu-ta.seesaa.net/article/200803article_19.html で引用している。
検索したら、こんな本が出てきた。
この記事へのコメント