『「社会モデルで考える」ためのレッスン』メモ

「社会モデルで考える」ためのレッスンーー障害者差別解消法と合理的配慮の理解と活用のために

松波めぐみ著

https://ibb.co/vhqX0XF に正誤表がある。(丁寧に間違いが拾われている)


【目次】

はじめに

PART 1 「社会モデルで考える」ためのレッスン
 レッスン1 「特権」をもつ側であること
 レッスン2 情報のバリアを放置してきた社会に気づく
 レッスン3 「対話」はなぜ大事で、どんな時に難しいのか
 レッスン4 文化的障壁(社会の慣行、価値観などのバリア)を考える
 レッスン5 学びの場と合理的配慮①——学ぶ権利を保障する
 レッスン6 学びの場と合理的配慮②——障害のある先生
 レッスン7 研修、啓発のあり方を考える
 レッスン8 複合差別を考える――幾重にも「マジョリティ中心」の社会の中で
 レッスン9 社会モデルは「障害」のことだけじゃない
 レッスン10 障害者バッシング
 レッスン11 相模原障害者殺傷事件の後で
 レッスン12 「うしろめたさ」とつきあう

PART 2 「社会モデル」にまつわる個人史から
 1 最初の出会い
 2 なぜ人権教育に興味をもって進学したか
 3 どうやって「社会モデル」を知り、納得したか
 4 なぜ2006年夏に権利条約ができるところを見に行ったのか
 5 なぜ「条例づくり」に興味を持ったのか(2008年秋の転機)
 6 条例づくり運動で何を学んだのか 
 7 なぜ「社会モデルの普及」がライフワークになったのか(2014年~)
    ──障害者差別解消法のことを書いたり話したりする日々の中で
 8 そして今──改正障害者差別解消法の施行も踏まえて

以上、生活書院のHPから。

以下、読書メーターでのメモ

「知的障害のある人の自立生活について考える会」のコーディネータ懇談会読書会の課題図書だったが、間に合って読み終えることが出来なかったし、その読書会も途中で抜けることになった。本はかなり前に購入。置きっぱなしにしたりしながら、2025年4月26日、読了。気になるのは「合理的配慮」の説明に環境調整を含めていること。これまで、その二つは違うものだったという認識だったが、どうも松波さんはあえてそのように説明している感じがある。聞いてみたい部分ではある。この本で読めてない部分にその説明があるかも。「合理的配慮(調整)」には対話が不可欠だが、環境調整の場合、対話抜きで行われることが多い。この違いは大きい。

55頁のコラムは情報保障を求める動きについて書かれている。松波さんが大切だという情報保障をいろんな場所でねばり強く求めるというのは大切だと思う。それと同時に情報保障にかかる費用の公的負担も求めたいもの。貧乏な団体が集会を行うのに、相当な高額を負担するのはかなり難しい。UDトークなどを活用して、おりあいがつく場所を探す努力も必要だろう。

60頁には「合理的配慮に向かう姿勢」という節がある。けがをして一時的に松葉杖を使うことになった人が調整して、休まずに役割を果たせたという事例が合理的配慮に向かう姿勢を表現しているという話で、それはそうだと思う。しかし、それは厳密には「合理的配慮」とは異なると、松波さんは書く。それは法律が定める「合理的配慮」ではないかもしれないが、そう呼んでもいいのではないかとぼくは思った。

車いすユーザーの人と食事をするのに、松波さんがバリアフリーの店を探して、その人に、探すべきはバリアフリーの店じゃなくて、食べたいものがある店でしょ」といわれて納得した話、確かにそうだと思った。(61-62頁)

必要なのは「思いやり」ではなく、「手続きとしての対話」という松波さんの主張、ここは大事なところかもしれない。(72頁)

重度の自閉症や精神障害とかで強度行動障害があったり、とても被害的でつきあうのに苦労する人はいる。大切なのはそういう人を「まず排除しないこと」だという松波さんの主張。正直、苦労はあるし、簡単には行かない場合は多い。うんざりすることもある。でも、排除しないこと、ここが大事なのだと思う。何かと理由をつけて、排除を正当化する事業者や個人は多い。そういう意味でここは大切だと感じる。しかし、同時にハラスメントや暴力で自分より弱い立場の他者を傷つける行為を行う人もいる。悩ましい話だ。犯罪行為はそれに応じた刑事処分が必要なこともあるだろう。どんなにがんばっても一時的には「排除」ととられてもしかたがない場合もあるかもしれない。しかし、そこに至る対話が必要だし、対話を抜きに排除を決めてしまうのはダメだろう。また、その「排除」のあと、その人がどうなるのかということを検討する必要もあると思う。(85頁から始まる「まず排除し94頁の「レッスン4の終わりに」の最後に以下のように書かれている。【なぜこんなに難しいのか。どうしたらいいのか。簡単な答えのない問いをぐだぐだ考えていくことが「社会モデルのレッスン」では必要なのだろう】と。確かに答えの出にくい難しい問いはある。しかし、同時にそんなにハードルをあげなくてもいいのではないか、という気もする。社会モデルで考えることが必要とされる実践的な課題の多くは、もっとシンプルなんじゃないか、ともおもうから。

112頁に【「合理的配慮」(環境の調整)】という表記があり、これは違うと思った。松波さんはもちろんその違いを承知で書いているのだと思うが、こういう書き方をすると、その二つは同じものに見えてしまう。

【レッスン6 学びの場と合理的配慮②——障害のある先生】の最後にこう書かれている。【「障害者だけの職場」を別につくるのではなく、多様な人がともに働けるように職場をひらいていく】その通りだと思う。障害者雇用代行サービスはだめだと思うし、特例子会社をつくればいいという話でもないだろう。ただ、同時に特例子会社だから守られることもあるのではないかとも思う。いろんな人が本体の会社で正規雇用社員として働けるようにしてほしいが、環境調整や合理的配慮だけで、同じように働ける人ばかりではない。そのあたりに特例子会社の役割があるのではないか。また、3%といえば100人に3人だ。障害者が多数いたほうが意見が言いやすいという場合もありそう。そもそも障害者雇用=低賃金 みたいな構造をどうしていくかという課題もある.


【レッスン7 研修、啓発のあり方を考える】の松波さんの指摘はするどいと感じた。ある都市で障害者に関する陣形啓発番組を作るという相談を受け、そのプランは、
①、障害者が懸命に働き、地域産業の一助になっている映像。
②、事業所の職員や、取引会社の社長へのインタビュー。 
③、「差別解消法が施行されました。ともに生きる社会をつくりましょうといったナレーション。 

このプランに「問題がある」わけではないが、これで何か人の価値観が揺さぶられることがあるのか、と問う。障害者の就職先が限られ、就職しても離職率が高い話や、現実にあるはずの葛藤はそこにないそこで、松波さんは何を話したらいいのかという思いに襲われ、ようやく出た言葉は「すみませんが、この番組で何か変わると思いますか?」だったという。その話が、そこからどうなったかはここの続きには書かれていない。そういった啓発や研修に社会モデルの視点がなければならないというのが松波さんの主張だ。そして、JCILの寸劇やDETが紹介されるが、【しかしいまだに、社会モデルの視点が全く入っていない教材も多数あり…「社会モデルを学び、社会モデルで考えるためのプログラムや教材作り」は、まだまだこれからだ。そして、それは「障害」以外のマイノリティの人権課題(あるいは複合的な課題)を学ぶためのヒントにもなると考える】とのこと(139頁)。

社会モデルという視点がさまざまな人権課題を学ぶためのヒントになるというか、そのものとして必要ということは多い。例えば罪を犯してしまった人の人権とかはまさにそうだし、子どもの貧困を考えるうえでもとても大切だ。それはほとんどすべての社会的な課題に適応する。例えば、子どもの貧困で子ども食堂が大切なのは、それが問題を発見するツールになるからではないか。社会が生みだした貧困のなかで、ご飯が食べられるというそのこと自体はとても大切ではあるが、そこで運がいい人が食べられてOKという話ではないはず。そこには社会が解決すべき問題が隠れている。そのことを見ないで、ご飯を提供していればそれでいいということではない。そこにどのような課題があるのか、いっしょに考え、解決の方途を捜すことが大切なのではないかと思う。これはぼくが自分だけで考えた話ではなく、日本で初めて「子ども食堂」を作り「子ども食堂」という名前を考えた、『気まぐれ八百屋 だんだん』の近藤さんの話を聞いて、それをんぼくの表現で言語化したものではあるが、近藤さんが言いたかったことの真意を表現できているかどうかは不明。

この少し前(136-137頁)に、視覚障害者がトイレで流す場所がわからず困るという話が出て来て、140頁の註の4で「これが男性障害者も毎回困る問題だったら、もっと大きな運動になったのではないか」と書かれていて、違和感が残った。確かに男性の視覚障害者は外出先では小便器のあるトイレで用を足すことが多く、そこではそんなに困らないかもしれないが、大便の時にはとても困っているという話を聞いたことがあるからだ。うんこを流さずに個室を出なければならないというのは、けっこうきつい話だと思う。

141頁から始まるレッスン8は「複合差別を考える」というテーマで【幾重にも「マジョリティ中心」の社会の中で】というサブタイトルがついている。このレッスン8の最後の節のタイトルが【複合差別、そして差別の「交差性」に目を向けて】となっているのだが、残念なことに「交差性」の説明をぼくは読み取ることが出来なかった。インターセクショナリティと複合差別のわかりにくい説明が、この本では必要ないかもしれないが、節のタイトルの「交差性」とはどういうことかというわかりやすい説明は欲しかった。

レッスン9は【社会モデルは「障害」のことだけじゃない】として、まず例示されるのが「外国人保護者と学校」の問題。このテーマも確かに重要で、ぼくがかかわっている外国につながっている人の支援の場面でも考えなければならない問題だ。ついつい個人モデルで考えがちなこの課題に関しても、社会モデルで考えることが重要だということは意識しておく必要があることだと思った。

すでに誰かが書いたりしていると思うが、ラディカル・フェミニズムが生み出した「個人的なことは政治的なこと(The personal in political)」というスローガンは個々の女性に降りかかるさまざまな状況(必ずしも抑圧や差別だけでなく、肯定的な感情を伴うものもある)を個人モデルで捉えるのではなく、社会モデルで捉えようという話なのだろう。「障害の社会モデル」と対応した言い方で考えると「性差の社会モデル」と呼んでもいいかもしれない。そんなことをふと思った。


レッスン10のタイトルは【障害者バッシング】。バニラエア問題が事例として取りあげられている。これを訴えた当事者の木島さんはネット上などでひどいバッシングをうけた。この経過をかなり詳しく説明した後で、松波さんは以下のように書く。【私は、確信犯的なヘイト以上に、「良識ある市民の声」という装いで書かれた言葉の数々が震えるほど怖かった】という。確かに、そっちが怖いとぼくも思う。例えば「バニラエアの対応には確かに完璧ではありませんでした。でもそれなりの事情があります」と書かれたら、確かに多くの人はそうだと思うかも。そこに落とし穴がある。

レッスン10【障害者バッシング】の【続・バニラエア問題があぶりだしたもの】(185頁~)のサブタイトルは【「主張するマイノリティ」への抵抗感」。権利を主張し、おとなしくしていない障害者がバッシングを受けるような土壌がネットにはある、という話だ。2021年の伊是名さんの件も【レッスン10の終わりに】で紹介されている。


【レッスン11 相模原障害者殺傷事件の後で】この事件が【「時計の針が逆流する」かのような事件であった。と同時に、「時計の針が進んだことなど一度もなかった」人たち、つまり地域から排除され長年にわたって施設で生活している人たちが膨大にいることを浮かび上がらせたといえる】と松波さんは書く。また、このレッスンの最後の方に、松波さんがあるまちの教研集会で相模原障害者殺傷事件のことを話したとき、原学級保障をしているある先生の発言が紹介されている。その先生はこんな風にいう。

「正直、”支援の子”が教室から飛び出したりするのに疲れて、しんどいなあ、別のところに行ってくれたらいいのに、と思ってしまったことは何度もあります。ええ、支援学級か、支援学校ですね。いなくなればいい、とは思いませんが、”別のところに行ってくれたら”と、これは排除というか、優生思想につながっていますね」
これを受けて、松波さんは「別のところ」に追いやろうとする社会の縮図であり、分けて排除することを正当化する理屈はいくつでもある、と書く。確かにそのとおりで分けることが正しいとされて、一緒がいいと 続き)主張したい子どもがさまざまな理屈をつけられ分けられてきたし、こんな普通級にいたら、心が死んでしまうとか、すごく傷つけられるという状況が作られ排除されている現実がある。

そして、この「レッスン11の終わりに」の前に、「なぜここに?」と思ってしまうことはあるかもしれないが、そういう時に、そう思ってしまう自分のあり方や社会のあり方を省みて、できれば対話を始めてほしい、と書く。

そして、「レッスン11のおわりに」では映画「道草」が紹介され、多くの人に見てほしい、と閉じる。

最後のレッスン12は【「うしろめたさ」とつきあう】。冒頭に松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』からの引用がある。松波さんは、うしろめたさからバランスを取り戻そうとする行為が望ましい結果をもたらすとは限らないと断わった上で、それでも格差に対してわきあがる「うしろめたさ」という自責の感情は、公平さを取り戻す動きを活性化させるという松村さんの主張を肯定的に捉える。そして、松波さんが主張するのは、その「うしろめたさ」を個人のなかに閉じるのではなく、【「社会モデルで考える」ことができるよう促すことだ】と書く。

その抜粋は以下


 ぼくらは「これが正しいのだ!」とか、、「こうしないとだめだ!」なんて真顔で正論を言われても、それを素直に受け入れることができない。でも、目の前で圧倒的な格差や不均衡を見せつけられると、だれもがなにかしなければ、という気持ちになる。(略)

 震災後、冷たい雨のなか、がれきを拾い集める人たちの姿をテレビで見て、快適な部屋でなにもしていない自分にうしろめたさを感じ、被災地に義援金を贈った、という人もいるだろう。 

ここから前のメモにつながる。

ちなみに、ぼくの『うしろめたさの人類学』のメモは以下 https://tu-ta.seesaa.net/article/201805article_5.html ここにこんなことを書いてた。「これは社会モデルが示すものの、さらに先に向かっているようにも思う。障害の社会モデルはインペアメントがあることが障害ではなく、社会が障害(ディスアビリティ)を作るのだという主張だが、ここでの著者の言い方だと、インペアメントもまた、他者や関係性に規定されていると読むことは出来ないだろうか?」

話が逸れた。本に戻す。【障害の社会モデル(人権モデル)を浸透させるために】という節で、松波さんは【要は障害者の権利を守るために、どんなふうに「社会のあり方」が変わる必要があるのかに考えを巡らせるようになってほしいということだ。そのためにはただ「ふれあう、想像する」では済まない。「社会モデル」の考え方を理解し、それをベースに「障害者の権利」の内容について学ぶことがますます重要になってくる】(一部要約)と書く。確かにそうだと思いつつ、何か言語化できないモヤモヤしたものが残る記述だ。必要なのは学ぶことなのか?

そう、学ぶ前提としてのスピリット的なものが必要なのではと思った。それは、ともにあることが当然なのに それが出来ない社会への違和感とか、人の類としての共同性のようなものだと思う。そのような「思い」の上に、「学ぶ」という行為が必要なのだろう。また、その前提としての「思い」を言語化するために、「学ぶ」という行為が必要となる。学ぶ前提としての思いと、思いを言語化する学び。両者の相互作用のようなものが問われているのかもしれない。そのことを松波さんはこの本で「うしろめたさ」という言葉で表現したと言えるのだろう。

上記を別の表現にした。うしろめたい気持ちになる、その気持ちを引き出す前提の「スピリットのようなもの」がある。『倫理観』と名付けることができるかもしれないが、そのもっと手前にある「ともにある状態が心地いい」というような気持であり、それを花崎さんは『生きる場の哲学』で『人としての類的共同性』と呼んでいたと思う。そのような「気持ち」というか「こころもち」が前提にあるから、「ともにある」という状況から遠い状況に直面した時に「うしろめたさ」を感じるのではないか。その前提を抜きに、『うしろめたさ』はないと思う。

そう、前に紹介した『うしろめたさの人類学』に関するぼくの読書メモの冒頭に書いたのは以下

【使えそうな気がするのだけど、もうひとつ読み切れていない感が強い。書かれていないのではなく、読めていないのだと、なんとなく感じさせる本。 読み返しながら、もう1回、考えてみよう】

すでに誰かが書いたりしていると思うが、ラディカル・フェミニズムが生み出した「個人的なことは政治的なこと(The personal in political)」というスローガンは個々の女性に降りかかるさまざまな状況(必ずしも抑圧や差別だけでなく、肯定的な感情を伴うものもある)を個人モデルで捉えるのではなく、社会モデルで捉えようという話なのだろう。「障害の社会モデル」と対応した言い方で考えると「性差の社会モデル」と呼んでもいいかもしれない。この本を読んで、そんなことをふと思った。

最後のレッスン12の最後には再び『うしろめたさの人類学』からの引用がある。

 たぶん、世界を根底から変えることはできない。まったくあたらしい手段をみつけて、すべてをつくりかえることはできない。ぼくらにできるのは、「あたりまえ」の世界を成りたたせている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること。

 それで、少なくとも世界の観方を変えることはできる。(略)その一歩が、またほかの誰かの一歩を踏み出す「うしろめたさ」を呼び寄せるかもしれない。182頁

ぼくの読書メモはこの前後をメモって、この部分飛ばしていた。でも、いま、読み返すと、かなり大事なことが書かれてるように思う。そして、松波さんがこの連載(本)で試みてきたのはそのようなことだったのかと、書いている。ずっと、世界をラディカルに根っこから変えたいと思ってきた。たぶん学生運動を始めた21歳くらいからずっと。いまでもその思いが消えたわけではない。いつか根底から変えたいと思ったりもする。しかし、同時に人を動かすのは理念ではなく、利害だということもいやというほど経験してきた。ヴェーバーの有名な言葉を借りれば、利害で動く人だが、転轍機(ターンテーブル)が動いて、レールの方向が変わるときがあるという話だが、いつになったら転轍機が動くのか、いまだに見えないのが現状だ。

ここまでが第1部のレッスンの部分のメモ。

第二部では知的障害のある人の自立生活にも言及されて(279頁)、「全体の中では小さい流れかもしれないけれど、(その)方策を真剣に考えはじめた人たちが多数います」と書かれている。津久井やまゆり園事件から来年で10年、松波さんが書いているように、まだまだ流れは小さいが、次の10年でどこまで行くことができるだろう?

この本のメモ、ここまで。

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