『知的障碍をもつ人への心理療法の可能性』メモ

たこの木クラブでの『かかわりの社会学』連続講座で中島由宇さんに来てもらって、話を聞くことになった、というか、気がついたら、そうなっていた(ぼくも実行委員だったりする)。 中島由宇さんは『知的障碍をもつ人への心理療法』という本の著者。横田さんのこの本への強い思い入れでそうなったという感じでもある。とりあえず、途中で確認はされたが(笑)。

このいきさつは「たこの木通信」の2025年2月の号に横田さんが書いている(*末尾に引用)。最近、著者の中島さんは三井さよさんに紹介されてたこの木クラブに来ているという話もここにある。


最初、この本を買おうかどうか迷っていた。なにせ、わずか257頁なのに、税込 3,960円なのだ。結局、購入したのだけど、まだ読んでいない。本は薄い。本の厚さ当たりの単価はそうとう高価(笑)。

で、この本のタイトルを入れて検索してみたら、この『知的障碍をもつ人への心理療法の可能性』という文章がでてきた。

『知的障碍をもつ人への心理療法の可能性』(中島由宇)東海大学紀要文化社会学部 (1) 215-223 2019年2月  に掲載された研究交流会報告 

https://www.u-tokai.ac.jp/uploads/sites/8/2021/03/17.pdf

で、著者の中島さん本人がこの内容について、短くまとめてくれているのでそこだけを読んで、本を読んでいない段階でのメモが以下。
っていうか、関心がある人は、以下のぼくの備忘録としてのメモより上記の文章を読んだ方がいいはず。

ちなみにたこの木連続講座の案内は以下

たこの木連続講座「かかわりの社会学」第3回のお知らせ。

2
025年6月1日(日)
時間13:30〜16:30

テーマ 『知的障碍をもつ人への心理療法の可能性』について
話題提供者 中島由宇さん 聞き手 三井さよさん

 今回は、ちょっと番外編的になりますが、中島由宇さんを囲む会とします。

 以前から、障害のある人のトラウマのこと、そこにともにあろうとする人の中に残る傷のことは、取り上げたいねという話が出ていました。でも、どうやってアプローチしたらいいのかがわかりませんでした。

 そのとき出会ったのが中島由宇さんです(主著は2018『知的障碍をもつ人への心理療法――関係性の中に立ち現れる“わたし”』日本評論社)。知的障害の人には心理療法など意味がないと言われてきたのに対して、そんなことはないと正面から対峙した本ですが、そう書くととっても力強そうですけど、この本、なんだかとても力弱くて、そこがとても魅力です。

 本を読んでいる方も、読まずに来る方も、大歓迎。日々の現場で抱く思いを分かち合いましょう。(案内文 三井さん)


会場 諏訪地区市民ホール2階(第1会議室) 
東京都多摩市諏訪五丁目4番地
https://www.city.tama.lg.jp/map/bunka/hall/1007002.html

以下、メモ

内容に入る前に

「しょうがい」の表記について。

このPDFの「註」で「しょうがい」の表記について、中嶋さんは以下のように説明。

註 1「障害」の「害」には「かぶせて邪魔をして進行を止める」という意味があるため(田中,2009;滝川,2017), 2000 年代よりそうしたネガティブなイメージを人に付することに異を唱えようとする動きが起こり,「障碍」,「障がい」といった表記を用いる立場が見られるようになった。筆者は,こうした議論に意識的でありたいというスタンスと,「碍」の「行く手をさえぎるように見える石」という意味性(田中,2009)が筆者の注目する関係性の困難のニュアンスにより近いことから,本稿でも原則的に「障碍」の表記を用いることとする。

障害の社会モデルの立場から、障害は社会の側にあるのだから、ここでの表現を借りると、社会が「かぶせて邪魔をして進行を止める」という意味で「害」でいいのだと言われてきた。ぼくもそう思うので、障害という表記を使っている。このあたりの話について、どのように記載されているのかも気になるところ(著書にあるかどうか、まだ確認してない)。というわけで、以下のメモでは引用(あるいは要約)に関しては「障碍」を使い、ぼくの文章では「障害」としているつもりだが、そんなに厳密に確認しているわけではなく、混在しているかも。





この文章の構成

1.出発点となる問題意識

2.主な研究 

3.最近の関心と今後の研究展望 

4.授業への展開



1.出発点となる問題意識

【本稿のタイトルに含まれる「知的障碍1をもつ人への心理療法」ということばは,読み手にど のようなイメージを引き起こすのでしょうか】という問いから入るこの文章。箇条書きにすると、以下のような問題意識が記載されている(ような気がする)。

・精神科医療の現場で知的障碍をもつ人への心理療法に長らく携わ って

・心理療法のプロセスにおいて筆者は,知的障碍をもつ人とのあいだで確か にその手応えを感じ

・筆者が得た手応えとは,「彼らの思いがまさに彼ら自身の思いに他ならないと感じせしめるような説得力と鮮やかさで伝わってくるようになり,彼らが確かに生きてそこに在るという存在感がわたしの前に立ち現れ,彼らのその生き生きと堂々としたありように,わたしが同じこの社会を共に生きる者として深く励まされるような彼らの変容」 として感じ

・筆者はそれを彼らの「わたし」(自己)が立ち現れる瞬間として把握

・その実践者として得た手応えと社会や学界の無関心

・そのはざまで,筆者は強い無力感

・彼らへの心理療法の適用はなぜ十分な検討を待たずにその意味を否定されてしまうのか

・社会や学界における知的障碍をもつ人への関心の乏しさとは何なのか

・知的障碍をもつ人に対する関心の向かいにくさという構造そのものへの問いが,次第に析出されてきた


この出発点となる問題意識は、どうして、知的障害のある人が認知行動療法やSSTから外されることが多いのかと感じていたので共感できることが多かった。
ただ、ここで気になったのは「知的障碍をもつ人」という表現。これ以降も多く使われていたが、「もつ」という表現はあまり使われなくなっているはず。意識して使っているのか、そうでないのかは不明。障害は「持てない」という話が一般的なのだが・・・。「持つ」だと、やはり個人モデルに陥りがちだと思う。この文章を書くような人も、やはり医療分野だと、個人モデルになるのかな、とも思った。



2.主な研究 

「知的障碍をもつ人に対する関心の向かいにくさとは何か」という問いを携え,筆者は研究の方向を1)~3)の3つにまとめる。

1)知的障碍概念の概観

2)知的障碍をもつ人の「わたし」が立ち現れる実践についてのアクチュアルな探究

3)アクチュアルな探究の方法論的検討


 1)知的障碍概念の概観

 ここで、著者は「知的障碍をめぐる言説や研究の歴史的経緯を概観し」た後に、日本における発達障害の枠組みから知的障害が根拠なく外されたとするのだが、経験的にはそれが外されたという感じはない。この短い文章で根拠までは書かれていない。この著者が書いた『知的障碍をもつ人への心理療法』という書籍で該当部分(18頁)を読むと、「自閉症などを伴わない知的障害」に関しては、現在も発達障害とは呼ばれないので、そのことを指しているようだ。

 そして、この部分の説明の最後で「知的障碍を含む機能障碍をもつとされる人とその周囲の人との関係性において絶えず更新される相対的な構成概念として発達障碍を捉えることの今日的意義」が書かれている。確かにそうだ。


 2)知的障碍をもつ人の「わたし」が立ち現れる実践についてのアクチュアルな探究

 この冒頭で「1)に示したように発達障碍を捉えた上で,知的障碍をもつ人の「わたし」が関係性において いかに立ち現れるのかということを主に検討してきました(強調・引用者)と書いてある。

 そして、「「わたし」 とは「関係性において暫定的に結ぼうとするまとまり」であり,「関係性」とは「『わたし』と 『わたし』のあいだで展開するアクチュアルな相互作用」であると相互補完的に定義すること ができます」という。

 その上で、研究手法として、知的障害者に関する参与観察や心理療法の実践事例から、抽出されたのは

・第1 に,知的障碍をもつ人における「わたし」の 特有のありかた

・第2 に,知的障碍をもつ人への心理療法のプロセスの特徴

という2点が提示される。第一の特有のあり方として提示されるのが、

・知的障害を持つ人のあいまいな「わたし」のありかた。

その理由として挙げられているのが周囲の人の知的障害者との関係の取り方とそれへの当事者の反応。

・当事者の情動にチューニングし共にあろうとする同調的なかかわりをもつことが圧倒的に少ない。

・しかし、指示的な対応をとりやすい。

・当事者の側は自分からの発信が微弱で

・指示的な対応に合わせ過剰的適応に振舞いやすい。

 知的障害のない人の側の対応の仕方は確かにそうだと思う。しかし、当事者の反応の仕方については本当にそうかという思いが残る。これは「知的障害」と呼ばれる人たちが「わたし」を環境の中で奪われているのだと言えるだろう。そういう人はいそうな気がする。

しかし、同時に「発信が微弱」だと書かれるが、それは発信が微弱なのではなく、発信を読み取れていないことの方が多いのではないか。また、「過剰的適応に振舞いやすい」というのは、知的障害のない人の反応と比較して、という話だと思うが、彼や彼女がその非知的障害者と比較して、「過剰的適応に振舞いやすい」と言えるかどうかはかなり懐疑的だ。そういう人がいるのは間違いないが、知的障害が原因で指示的な対応に合わせられない人も相当に多いと思えるから。

確かに彼や彼女の「まとまりとしてのわたし」は把握しにくい。それを【あいまいな「わたし」のありかた】と読んでしまっていいのかどうか、悩ましい。そのわかりにくさは単に非知的障害者の側の理解の幅の狭さという風に考えることも出来るのではないか、とも思えるから。

 しかし、この著者がこのあとで主張する部分には、心理療法や精神医学の問題は抜きにして、関わり方の方法として同意できる。それは以下の部分。

そうした知的障碍をもつ人における「わたし」のありかたを踏まえた心理療法においては,かかわり手(セラピスト)が,知的障碍をもつ人(クライエント)の「わたし」が在るということを前提として受けとめ感知しようとする態勢をとり,彼ら(クライエント)の自発的表出を敏感に捉えようとし,その素直な感受と内省に努め,情動的応答を返すことによって,彼ら(クライエント)の「わたし」の把握と表出が促進され,相互主体的関係性の構築へと至り,それに伴って彼らの精神医学的問題が軽減することもある

かかわる人が,知的障害がある人の「わたし」が在るということを前提として受けとめ感知しようとする態勢
・自発的表出を敏感に捉えようとすること
・「相互主体的関係性の構築」、つまり関わる側も関わることによって変わること
これらは「支援」の現場だけでなく、日常的に関わる時に必要なことだと思った。

3)アクチュアルな探究の方法論的検討

 この項は難しく、おそらくほとんど理解できてないので飛ばすが、以下に引用する結語の部分は興味深かった。

 ここで想起すべきことは、アクチュアリティを他者と共有していくためにはことばを用いるしかありませんが,アクチュアリティをことばという形態で表し尽くすことは原理的に不可能であるということです。事例研究法で得られた知は必ず,臨床心理実践の現場に投げ返され,さらなる発見と言語化につながっていくというプロセスに置かれる必要があるのです。臨床心理学における事例研究法は,アクチュアルな場の只中でそれを汲もうとし,さらにそれをアクチュアルな場に戻していくという循環に位置づけられる,生きた現場でよりよい臨床実践を創出する最前線における研究的営為であると考えられます。 

 さまざまな当事者に関する研究で得られた知を現場に投げ返すことの必要は臨床心理学に限らず、すべての研究に求められているのだと思う。そして、それが行われないことはいまだに少なくないとも感じている。だからこそ、ここは何度も強調したい話ではある。

 それと同時に、この冒頭部分には別の視点から、違和感が残った。言葉を用いることが出来ない知的障害者は少なくない。ことばを用いることの出来ない当事者とアクチュアリティを共有することはほんとうにできないのだろうか? 言葉を用いずにアクチュアリティを共有できたのではないかと思える瞬間があるのだが、それは幻想なのだろうか? 「アクチュアリティをことばという形態で表し尽くすことは原理的に不可能」なのは、そういうことからも言えるのではないかと思うのだった。

そして、文章は、3方向の研究の説明を終え、以下の 4)に続く

4)見出されつつある知見―あたりまえのまなざしの不在

 この結語部分で著者は、知的障害の概念定義すらはっきりしていないのに、そこに関心が示されない理由として、「知的障碍をもつ人への軽視,人 人に向けるあたりまえのまなざしの不在」をあげる。ここは大事なポイントだと思った。

あまりにもいないものとして扱われてきたことの結果として、いまだに多数存在する入所施設であり、家族介護が出来なくなったら、そのような場所で暮らすしかないと思われていることとつながっているように思える。そして、分けられた場所を作ることで、不可視化はさらに促進する。そういう意味では、支援者を含めて関わる人は、自然に、しかし出来るだけ、社会から見える場所に出ていくことは重要だと思った。


そして、この文章の3つめの

3.最近の関心と今後の研究展望

は短い文章でとてもわかりやすく共感できるものだった。

あたりまえのまなざしが不在である関係の場に,いかにまなざしを向け,「わたし」を見出そうとしていくか。筆者がこれまで行ってきたこと,これからより発展させていかなければなら ないことは,まなざしというアクションとそのリサーチの循環です。 

そして,関係の場で彼らの「わたし」を見出し尊重しようとすることとはそのまま,関係の場で自分自身の「わたし」をみつめて尊重することでもあります。知的障碍をもつ彼らのみならず,彼らの周囲の人たちの尊厳を支える可能性も探っていきたいと考えます。

最近、言葉でなかなか意志を表出できない重度と呼ばれる知的障害者とかかわる機会が月に数回、必ずあるので、とりわけ上記のことの大切さを感じる。ただ、ぼくはリサーチにはほぼ無縁で、アクションだけだけど、アクションんをした後でいっしょに友人たちと振り返る契機は必要んだろうな。そして、「まなざしというアクション」とあるが、ぼくとしては、まなざしを伴って行う「かかわり」がアクションとして大切で、そのアクションと振り返りの循環が必要なんだろうなと思う。


~~~~
~~~~
以下、以下、たこの木連続講座実行委員会のスラックにぼくが書いたものなど

「発達障害」(“developmental disability”)というときのdevelopmenのとらえかたです。これを開発とか、発達とかいう日本語と結びつけずに、言葉本来の意味らしい、「つぼみが花を開くプロセス」と考えれば、つぼみが花を開くプロセスがあったのに、それを環境が阻害し、開かせない状態に置かせた、という話に接続することも可能なのではないかと思ったのでした。他方で、このように考えることの危険も大きいのですが。ただ、親元や施設にいるときに、激しかった行動障害が、支援付き一人暮らしの中で、発生しなくなっていくというような事例は、この話で説明可能なのかもしれません。


本を読む前の関心ふたつ。

1、

言葉のない知的障害の人たちに心理療法はどのように可能なのか?

2、

「しょうがい」の表記について。

このPDFの「註」で「しょうがい」の表記について、中嶋さんは以下のように説明します。

註 1「障害」の「害」には「かぶせて邪魔をして進行を止める」という意味があるため(田中,2009;滝川,2017), 2000 年代よりそうしたネガティブなイメージを人に付することに異を唱えようとする動きが起こり,「障碍」,「障がい」といった表記を用いる立場が見られるようになった。筆者は,こうした議論に意識的でありたいというスタンスと,「碍」の「行く手をさえぎるように見える石」という意味性(田中,2009)が筆者の注目する関係性の困難のニュアンスにより近いことから,本稿でも原則的に「障碍」の表記を用いることとする。

障害の社会モデルの立場から、障害は社会の側にあるのだから、ここでの表現を借りると、社会が「かぶせて邪魔をして進行を止める」という意味で「害」でいいのだと言われてきました。このあたりの話について、どのように記載されているのかも気になるところ。


~~~~

横田さんがたこの木通信の2月の号に書いた紹介から
~~~
それで第3回のたこの木連続講座「かかわりの社会学」は「知的障碍をもつ人への心理療法」という本の著者中島由宇さんをパネリストの1人としてでていただく予定でいます。刺激的な講座になりそうです。去年から何回か中島さんはすいいち企画にもきてくれたりもしているのですが、三井さんが中島さんにすいいち企画を紹介してくれたそうです。中島さんと三井さんは昔からの古いつきあいというのではなく、中島さんが三井さんの本(たぶん知的障害・自閉の人たちと「かかわり」の社会学)を読んで三井さんと知り合いになってたこの木クラブも紹介してくれて、その後に三井さんが中島さんの本(「知的障碍をもつ人への心理療法」)を読んでその本を絶賛していたのででは中島さんにたこの木連続講座にでてもらおうというのがだいたいの流れです。
~~~

この記事へのコメント