『「みんな違ってみんないい」のか?』メモ

ちくまプリマー新書 【「みんな違ってみんないい」のか?——相対主義と普遍主義の問題 】山口裕之 著


出版社のサイトは
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480684301/


以下、読書メーターに書いたもの


図書館の本、かなり飛ばして読了。読み始めたきっかけは忘れた。以下は筑摩書房のサイトから。

他人との関係を切り捨てるのでもなく、自分と異なる考えを否定するのでもなく――「正しさ」とは何か、それはどのようにして作られていくものかを考える。

「みんな違ってみんないい」のか? ――相対主義と普遍主義の問題 (ちくまプリマー新書)

山口 裕之

2025/11/24


「おわりに」から。 【この本では、「正しさは人それぞれ」という主張が事実としても道徳的な態度としてもまちがっていることを論じてきた。言いたいことはシンプル。「正しさはそれと関わる人が合意することで作られる」ということ。213頁 11/24 07:08」


「正しさは人それぞれ」や「みんなちがってみんないいい」といった主張は、多様性を尊重するどころか、異なる見解を、権力者の主観によって力任せに切り捨てることを正当化することにつながってしまう。(6頁)11/24 07:20


「正しさは人それぞれ」でも「真実は一つ」でもなく、人間の生物学的特性を前提としながら、人間と世界の関係や人間同士の関係の中で、いわば共同作業によって「正しさ」というものが作られていくのだと考える(9頁)11/24 07:24


「正しさは人それぞれ」や「みんなちがってみんないい」といって済ませるのではなく、そこで終了させずに踏みとどまり、とことん相手と付き合うという面倒な作業のなかで、ともに「正しさ」を作っていく。(9頁)11/24 07:28


相対主義と普遍主義の間の道を、どちらにも落っこちないように気をつけながら進んでいかなくてはならない。(12頁)11/24 07:31


文化相対主義的な主張は「正しさは人それぞれ」(個人単位の相対主義)とは違う。両者はまったく異質な考え方。文化相対主義的は人は文化や社会に形作られると考える。多様性の単位は人ではなく文化とい集団。文化相対主義とは、いわば「正しさは文化それぞれ」という主張。32頁11/24 07:37


新自由主義は、個々人の自由を偏重して平等を軽視。【新自由主義こそが「人それぞれ」の思想】40頁 11/24 09:06


【「正しさは人それぞれ」というフレーズ、一見すると多様性を尊重するよい言葉のように見せかけて、その実、個々人を連帯から遠ざけて国家にとって支配しやすいバラバラの存在にとどめておくのに都合がいい。多様性を求める1960年代の学生や市民の声は、権力にとってまことに都合のよい「正しさは人それぞれ」という形で骨抜きにされて広まった】42頁。これはちょっと言いすぎじゃないか、とも思う。 11/24 09:13


新自由主語が世界を席巻して30年、貧富の差や社会の分断が拡大している現代において、どうしたら多様な個々人が抑圧されないようにしながら多数の人たちが連帯できるのかという大きな課題にもう一度真剣に取り組まなければいけない。(この強調は引用者による)「集団単位の多様性」と「人それぞれの多様性」の間の鋭い対立を、いまいちど自覚しなければならない。この本はそうした取り組みのひとつだと著者は書く(44頁)。99%というのは言い過ぎかもしれないが、9割以上の人がさまざまに抑圧されている。しかし、社会はもっと大きく分断されている。どうしたら、この抑圧された側の人々ができるだけたくさんの人が抑圧されず、生命を謳歌できるかという意味での「正しさ」を求めて連帯できるかというのはひとつの課題ではあるが、少なくない人が自らの貧しさの理由を移民に求め、移民の排除や近隣の国との緊張関係を高める首相を支持している。どうすれば、この逆転した価値観から自由になれるのか、ここに書かれている話が、そのために役立つのか、正直、あまり役立たないのではないと思ってしまう。ヴェーバーの転轍機の話の方がわかりやすいとぼくは思う。11/24 11:13


73頁には【「個々人の差は育ち方の差」という見方は「人間は教育によって都合よく操作できるはずだ」ということを意味しています】と書かれるのだが、これも言い過ぎだと思う。もってうまれた性質がないとは言わないが、生活環境や教育が人間を形成する部分は小さくないはず。よくみたら、直前の文章に「個々人の差がすべて育ち方によって生じるのであるとすると」というようなことが書いてあって、この「すべて」を入れるか入れないかで印象は相当に異なる。 11/25 07:17


同じ73頁の後半からはドナルド・ブラウンの『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』(新曜社)が紹介されている。そこで興味深かったのが、文化の多様性を示すと言われたが実はそうではなかった6つの事例。1、基本の色彩語 2、サモアの思春期 3、チャンブリ族の男女の役割(ミードが報告)(女性が政治的な主導権を持つような文化は見つかっていない) 4、表情と感情の結びつき 5、ホピ族の時間概念 11/25 07:26


人間が生物として生きていくうえで必要なことは基本的に同じであり、言語や文化の多様性は人間にとって理解可能な範囲にとどまる(82頁) 11/25 07:28


84頁には「人間の生物学的な傾向に従うことが正しいとは限らない」とある。「女性が政治的な主導権を持つような文化は見つかっていない」という話もそれとつながるのかと思った。 11/25 07:30


【「正しさ」は個々人が勝手に決めてよいものではなく、それに関わる他人が合意してはじめて「正しさ」になる】(86頁)。これは絶対的な正しさはないという話だろう。そういう意味では「相対主義」と言えるのではないか?これに続けて書かれているのは【正しさは人それぞれ」でも「真実は一つ」でもなく、「正しさはみんなで作っていくもの」】という話。ただ、気になるのは大多数の他者が正しいと判断された事柄が間違うこともあるだろうということ。その問題をどう防ぐのかという観点が重要だと思う。


 そこへの答えとして使えそうなのが、141頁に記載されている「絶対正しいことなんてない」のかもしれないが、「より正しい正しさはある」という話。暴力で正しさをお押し付けるのではなく、話し合ってお互いに納得して決めていく方が正しい、という話。「まずは相手の言い分をよく聞き、それがもっともだと思えば従い、おかしいと思えば指摘し、相手の言い分を聞く。それを繰り返すことで、お互いに納得のできる合意点を作り上げていく」「これが、正しさを作っていくための正しい手続き」とのこと。同意のプロセスに時間をかけることは大切な話だと思う。しかし、期限までに決めなければいけないこともある。その期限を誰が決めるのか、どのような対話のプロセスが可能なのか、「より正しい正しさ」を求める正しさと実践の困難さを思う。 11/25 10:19


144頁では「動物に言語はない」と断定しているが、果たして、本当にそうなのか? 11/25 10:20


145頁【「すべての人が話し合い、合意することは現実的にいって不可能だが、絶対的に正しいことはないと思考停止するのではなく、「社会的な正しさ」の名のもとに暴力的な強制を受けている人たちの声を聞き、より正しい正しさを求めていくことが、正しさを作るための正しい手続きだ】と書かれているが、これだけ「正しい」を連発されると、「正しさ」でおなかいっぱいになりそう。 11/25 11:07


「みんな違ってみんないい」わけではないというのはよくわかった。「正しさ」を求めるプロセスが大切なのかもしれない、しかし、求めるべきは「正しさ」なのだろうか? 「心地よさ」とか「快適さ」を求めたいと思ってしまった。11/26 13:35



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追記

「正しくないかもしれないけど、こっちがいまはいいかな?」ってこと、あると思うけど、この著者の論に従えば、関係性の中でそれが承認されれば、それは「正しさ」になるのだろうか?

さまざまな状況の中で、なんらかの行為を選択するというか、それをやらざるを得ない時、やはり、そこには「正しさ」という言葉では語りつくせない何かがあるように思う。 でも、それをどんな言葉で表現したらいいだろう?


さらに追記

よく見たら、読書メモが途中だった。そして、肝心なことが書いてなかったと、いまになって思う。以下はぼくが感じた肝心なこと
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214頁には、相手の考えと自分の考えが違うとき、それぞれ相手の言い分を聞いて、納得でき中れば、また聞いてという、手間のかかるやりとりをして、お互いに納得のできる結論を作り上げることが「正しさ」だと著者は書く。確かに、そんな風にできれば理想的だと思うが、そんなことが出来るのは、とても稀有な例だろう。それは著者も少しは気にしていて、次の頁で「すべてのことについてこのように理想的な解決ができるとは限りません」と書いてある。まあ、認識はかなり違うが。そのうえで、そんな風にできないときは、【なるべく暴力をなくして、「より正しい正しさ」を作っていくように努力することが正しい】と書いてある。それは確かにそうだろう。とはいえ、「正しい」が多いのが鼻につくけど。

そして、その少し後で、ネット上でよくみられる意見の違うものに対する罵詈雑言や誹謗中傷と「正しさは人それぞれ」と【表裏一体のものだといってもよいでしょう】と書か入れるのだが、これは言い過ぎだと思った。確かに「正しさは人それぞれ」といって、思考を停止してしまえば、そのように言えるかもしれないが、考えた末に「正しさは人それぞれ」ということもあり得るのではないか。できるだけぎりぎりまで考えたうえで、「正しさは人それぞれ」だとして、それぞれ別の道を歩むということがあるという自覚もまた必要なのではないか?

この本の最後に著者は第1章の最後に書かれた【どうしたら多様な個々人が抑圧されないようにしながら多数の人たちが連帯できるのかという大きな課題にもう一度真剣に取り組まなければいけない】というのを引いて、どうしたらよいかと自問し、【それは「人それぞれはもうやめよう」ということだ】と書く。多数の人が連帯するすべはないのか、真剣に取り組まなければならないというのはその通りだと思うが、どうしたらよいのかの答えが【それは「人それぞれはもうやめよう」ということだ】というのはどうかと感じた。ぼくは「人それぞれ」はあるし、それがあることを前提にすることが大切なのではないかと思う。そのうえで、しかし、多くの人が多様な形で差別や抑圧のもとにある、差別や抑圧が現状の社会構造にビルトインされている、そんな状況の中で、「人それぞれ」な、さまざまな感じ方や価値観を持った人たちがいることを前提に、しかし、つながる回路はあるはずだし、それを探そうという話でいいのではないかと思ったのだった。2025年12月4日1時20分
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