「つながらない権利」と「つながらない」ということ  (ほんの紹介92回目)

たこの木通信、2025年10月に掲載してもらった「ほんの紹介」


「つながらない権利」と「つながらない」ということ

(ほんの紹介92回目)

 今回、取りあげるのは、刺激的なタイトルで読みたくさせられた『マイノリティの「つながらない権利」~ひとりでも生存できる社会のために』雁屋 優著。この本の出版社のサイトでの紹介は以下。

何らかのマイノリティ属性をもつ人は、生存に必要な情報を得るために当事者コミュニティへのアクセスがほぼ必須であり、コミュニケーション能力によってさまざまな差が生じている。マイノリティがつながることを半ば強いられている状況のなか、マイノリティは"つながらなければならない"のかを、根本から問い直す。

とはいえ、人間はつながらなくちゃ生きていけない。「つながらない権利」ってなんだろうというのが、このタイトルを見たときの最初の印象だった。『マイノリティの「つながらない権利」というこのタイトルのインパクトが人(一部の?)を本に惹きつける。

 しかし、この本はつながらないのがいいという本ではない。そして、つながるか・つながらないかという二者択一でもないという輪郭が読み進むうちに明確になっていく。「つながらない権利」という言葉のインパクトは強いが、ここに書いてあるのは「つながりを強制されない権利」「嫌な場所につながらなくても損失なく生きる権利」

 26-27頁では当事者コミュニティへの参加で感じた希望と恐怖が描かれる。障害があるから出来ないと思っていたことをこなす当事者。それを見て、「出来る」という希望が生まれると同時に、「出来ないこと」が自分の身体機能の問題だと、信じることが出来なくなる。それを自らの【マイノリティ性が”剥がれ落ちた”瞬間だった。それは、ある意味では希望であり、またある意味では絶望だった】という。

 「理解と開示」、適切な配慮(*)を受けるためにそれが欠かせないプロセスだ、と著者は書く。同時に、平然と差別を続ける相手に出会ったときに、【必要なのは”理解を求める”態度ではない。(必要なのは)相手の何が正しくないのか、根拠を持って指摘し、然るべき機関や専門家のサポートを得て、立ち向かうことだ】と書かれている (45-46頁)。ただ、その立ち向かう態度と理解を求めることは地続きでつながっているのだとぼくは思う。

(*)それは配慮と呼ぶより、調整と呼ぶべきものだと思う。「合理的配慮」という訳が定訳になってしまっている問題でもある。

 71頁で著者は【「つながる」ことがいけないと言いたいのではく「つながる」かどうかの選択肢をマジョリティと同程度に与えられていない現状を問題にする。一貫して「つながる」が括弧つきで書かれていることに意味があるのだろう。普通に考えれば、無人島で自給自足でもしない限り、人は人とのつながりのなかで生きている。だが、ここでの「つながる」はなんらかのコミュニティへ参加するかどうかという意味合いで使われているようだ。そこでいうときのコミュニティもかなり濃度の濃いコミュニティのよう。対面で対話することが基本のコミュニティが想定されていそうな感じ。

 ともあれ、つながれればいいと思いがちな支援者に、そんなに単純な話じゃないよ、ということをこの本は伝えてくれる。

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『マイノリティの「つながらない権利」』の少し長い読書メモは
https://tu-ta.seesaa.net/article/518315514.html


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