「障害者運動と社会学──コミュニティとアソシエーションの最適解、あるいは解放と技法の弁証法」(深田耕一郎)について(追記した)

『医療・ケア・障害 (岩波講座 社会学 第8巻)』に収録されている深田耕一郎さんの「障害者運動と社会学──コミュニティとアソシエーションの最適解、あるいは解放と技法の弁証法」という論文の読書メモ。以下、『医療・ケア・障害 (岩波講座 社会学 第8巻)』の読書メーターhttps://bookmeter.com/reviews/131765411 に書いたものに加筆。

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この論集に収録されている深田耕一郎さんの「障害者運動と社会学──コミュニティとアソシエーションの最適解、あるいは解放と技法の弁証法」という論文が面白いと、CIL北の系列のピア北という事業所の加辺さんが教えてくれたので、図書館で借りて読み始めた。出版社のサイトは https://www.iwanami.co.jp/book/b658489.html


 以下、深田さんの論文について。日本の障害者運動における介助関係と介助集団についての展開における二つの志向性という整理がなされる。第一につながりを重視し相互の結合を求める志向性(コミュニティ志向)。第二は、距離を保つ仕組みを作り相互の分離を求める志向性(アソシエーション志向)。これらは介助関係と介助集団の形成に見られる性格づけであり、前者は、直接的な二者関係に価値をおき、コミューン的な共同体を志向する。後者は、介助関係において第三者を媒介とする三者関係に価値を置き、介助集団は利益社会的な事業体を志向する。


 前者をコミュニティ志向と呼び、後者をアソシエーション志向と呼ぶ。ここでは、その定義や集団類型が、障害者運動に当てはまるかどうかを測定することが目的なのではなく、その類型的な理解を用いることで、障害者運動における介助関係や介助集団がいかなる内実を持ったものだったかをより丁寧に理解することに主眼がある(120頁)。そして、それらは障害者運動の諸実践が明確に区分けされるわけではなく、それらの「複雑な絡まり合いを丹念に読み解いていく」ことに意味があると書かれている(121頁)。


 だから、80年代後半の障害者運動を経験した人間の実感として、この定義や集団類型に違和感は残るが、それは問題ではないと深田さんはここで言いたいのかもしれない。確かに、この整理で見えてくるものがあるが、まず前提として、ここで語られているのは70年代に始まった、その時代としては「新しい」障害者運動の話だという視点は提示する必要があるのではないか。障害者をめぐる運動は歴史をたどれば、ずっと前からあったはず。しかし、それは障害者運動という名前ではなかったかもしれない。知り得る限りでは、源流として、結核回復者の運動や、ハンセン病収容所における自治会運動であったりした。また、戦傷病者への補償を求める運動もあった。さらには施設を求める親の運動もあった。それらの運動は70年代以降、現在まで続いているが、それらの運動に関して、この整理が妥当なのかどうか、微妙だと思う。例えば結核回復者の運動にこの二つの類型の整理をあてはめると、戦後直後には結核収容所自治会を核とするコミュニティがあり、それを核として、コミュニティであり、同時にアソシエーションであるような場としての「コロニー」を求める運動が身体障害者全体をカバーするようになっていった。それを一つの障害者運動と見ることも可能だろう。現在はそこに運動を見ることは困難になっているようにも感じるし、そこにはコミュニティ志向はまったくと言っていいほど残っていない。


 とはいえ、70年代以降に始まった青い芝などを源流とする運動を理解するための補助線として、このコミュニティとアソシエーションという整理は確かに有効だと感じるものの、その時代区分としては、80年代後半に後者の運動は発生したものの、まだ主流ではなく、それが広がっていくのは90年代以降なのではないか。だから、体感としての時代区分は移行期として80年代後半と90年代があり、21世紀になって、アソシエーション志向が主流になっていったのではないかと感じる。このような整理が可能になるのも、この類型を深田さんが提示してくれたからに他ならない。


 話がそれたがこの論文では、コミュニティを志向し、障害者の「解放」を求めた70年代の青い芝などに代表される障害者運動。80年代に入ると追求するものが「解放」から「技法」へ、という整理がなされる。「ここでは人間の解放という理念的な主題から、現実をどう構築していくかという具体的な主題に議論の中心が移っている」。 そして「集団の水準においても、コミューンや共同体という共同性に根ざしたコミュニティの探求ではなく、生活を維持させるためには、どのように資源を徴収し、分配するかという集団の手段的・機能的側面に関する考察が重要な位置を占めている。この論文では触れられていないが、80年代の後半から障害者が交通アクセスを求める運動が盛んになっていたことと上記は符合する。

 (その移行に従うように)「集団のアソシエーション特性が研究の対象となった」(126頁)と書かれている。 それは研究の対象の推移というよりも障害者運動自体のテーマが、その方向に流れていった、という話だと感じた。もちろん、その流れは直線的に進むのではなく、蛇行しながら、という感じではあったが。


128頁の最後に以下のように書かれている。

従来の障害者運動では、介助関係/介助集団は私的で偶然的な要素が大きく、だからこそ結びつきを強く求めるコミュニティが志向された。それに対しCILは、介助サービスを事業として位置づけ、組織的に展開した。加えて、立岩によれば、CILは運動体の性格を弱めているわけではなく、「当事者主体」の理念のもとに事業が実施されており、そのことが運動体であることを維持しているという。

よく読むと、これは1980~2000年頃までの話として書かれているようだ。今、それはどうなのか?


 それに続いて、2000年代以降の障害者運動と社会学の展開が記述される。そこで制度化が進み、「多くのCILがNPO法人格を取得することで事業展開を容易にし、自立生活の広がりに貢献した」(129頁)とある。同時に社会学は【『生の技法』を座標軸のようにして、同書が示した領域のその先を掘り下げ、研究に厚みをもたらすものだった】として、いくつもの例が示されている。


 それが2010年代に入って、CILは介護派遣事業者の性格を強めたと、深田さんから海老原宏美さん(CIL・東大和)へのインタビューが引用される。そこで海老原さんはCIL・東大和で活動している分には楽しいが、【社会的な運動ってなると停滞感がハンパないよね。だって、一団体じゃどうにもなんないからね。同じ勢いで、同じ方向を向いている団体がない。みんな「疲れてる期」に入っちゃってる】と話している(131頁)。同時に介助者の立場からの泥沼のような停滞感を「レンコン畑」と表現されている。


 そして、その危機感を共有し、対処を模索してきた人として、CIL・小平の新井智さんの話が紹介されている。新井さんは「知的障害のある人の自立生活について考える会」のコアメンバーの一人でもある。インタビューで新井さんが応えている。2000年から2010年までは活動して仲間を救いたい障害者スタッフ集めに困ることがなかったが2010年頃から変化がみられる。「自立してもお客様化する障害者」の登場で、CILの次世代を担う後継者がいなくなる。調べたところ、若い障害者は一般企業で働く傾向にある。そこからピアカンやILPで担い手を集めるのではなく、障害者雇用として若手障害者を採用することになったが、そこで障害を持つ若者が求めるのは「ホワイトな企業」。求められるのは「月給制社員で、公務員並みの待遇、福利厚生、産休、育休。このあたりは最低、整えていなければ求人の土俵にも勝負にも乗れない。東京では特に」とのこと。ここで深田さんは、CILの様変わりを見せているとしながら、「CILはアソシエーションの側面が全面化していることが問題なのではなく、むしろアソシエーション機能が未整備だったことが問題であるという認識が持たれている。未整備なまま運動と事業の両立を図ろうとすることに無理があったと考えられる」と書き、CIL・小平の取り組みを紹介する(133頁)。そこで、資格取得の支援とか、理念教育とか、さまざまなアソシエーション機能の整備の具体的取り組みが紹介され、介助集団における個別ケースにおける「四者関係」を重視しているという。障害者と介助者の関係に加えて、CILのコーディネータと障害者マネージャー(GM)が加わる。GMの役割は当事者の視点から当事者主体の理念を伝えること。「というのも、現在の自立生活の支援は、従来の二者関係による自己決定モデルでは持続できないからだと新井はいう」と書かれる。このようにアソシエーション機能の整備の話が書かれた後で、「決してコミュニティ機能を捨象するのではなく、介助の人間関係や心の交流を大事にする理念教育を実施するなど、CILのコミュニティ特性の保持が図られている」とする。

 深田さんはここから、「CILの存在意義があらためて問われる時代になっていると思われる」と書く。アソシエーション機能の構築は重要だが、それだけを進めれば、他の民間事業所と何ら変わらず、CILであることの独自性が失われる。だからこそ、CILの運動体やコミュニティの側面をめぐる探求が問われると。

 「CILの存在意義があらためて問われる時代になっていると思われる」というのはその通りだと思う。そして、同時にそれはJIL加盟のCILだけでなく、障害者運動と密接に関わりながら誕生し、今も活動している事業所全体に対しても言える話だと思う。


「CILの運動体やコミュニティの側面をめぐる探求」という側面から紹介されるのがCIL松山。この団体の出発点は70年代の「愛をむさぼる会」とのこと(このあたりの人たちとは80年代後半頃に全障連の施設小委員会で出会ってるはず)。そのCIL松山で2024年に代表になったのが脳性マヒの当事者で知的障害がある加藤陽子さんで、新しく掲げた理念が「まよってもいいよ、ゆっくりいこう、いいよ、いいよ、それでいい」というもので、その続きは「障害があるとかないとかではない こどもおとなとか、おんなおとこでもない みんな、ほんとに一人ひとりが、ここにおっていい ”今おる”ことが一番大事 だから まよってもいいよ、ゆっくりいこう。いいよ、いいよ、それでいい」。その代表の加藤さん、CILの代表像は「みんあをまとめて、引っ張っていったり、いろんなことを判断して早く考えて動く感じ」と思っていたが自分は「なにひとつあてはまることがありません」と2024年6月に開催された自立生活運動を展望する行事の資料(「代表になるまでの自分との関係」)に書いているとのこと。この文章の続きも一部紹介されていて、興味深いがタイプに疲れたので飛ばす。そして、この論文の結語として書かれているのは以下。ここは書き写しておこう。

CILは 従来のあり方からの転換を追求している。アソシエーションの再構築に力を注ぐ 一方で、コミュニティであることの意味 を模索している。集団のコミュニティ特性とアソシエーション 特性をどう組み合わせて、最適な解を求めるか。「生の解放」と「生の技法」が矛盾しつつもひと続きであるかのような弁証法的な実践をどう展開するか、そうした問いをめぐって、これからも障害者運動と社会学の出会いのなかから探求を深めていくことができるだろう。


 この論文で深田さんは少ししか触れていないが、ぼくは知的障害のある人の自立生活を支える取り組みと真剣に向き合い、その意味を考えながら、着手できるかどうか、というのはCILや各地で障害者の生活を支える障害者運動にとって、大きな意味を持つのではないかと思う。まだ十分には言語化できないが・・・。


 いま、直感的にしか言えない、そこを言語化していくのが、大切な課題だと思う、ということを書き残しておこう。ちなみにこの論文で知的障害のある人の自立生活に少しだけ触れているのは130頁で、2000年代の社会学が『生の技法』を座標軸のようにして、同書が示した領域のその先を掘り下げ、厚みをもたらした研究の一例として知的・自閉の人たちの自立生活を対象とした研究を行っているとして、「寺本晃久や岡部耕典、三井さよ ら」とその著書が参考文献が示されている。

ここまでは2025-12-29 14:20:53にアップロードしたもの。


以下、2026年1月17日追記

引用したように、この論文の結語部分で深田さんは【「生の解放」と「生の技法」が矛盾しつつもひと続きであるかのような弁証法的な実践をどう展開するか】という問題提起をしている。青い芝の会に代表される「生の解放」を求めた障害者運動がCILに代表される「生の技法」を求める運動に時代の流れとともに移り変わっていったのだが、その「生の技法」を求めたCILの運動が行き詰まりを見せている現状がある。そのような状況で深田さん【矛盾しつつもひと続きであるかのような弁証法的な実践]を! という問題提起が産まれたと言えるだろう。 深田さんのその問題提起は【集団のコミュニティ特性とアソシエーション 特性をどう組み合わせて、最適な解を求める]という話とついなぐ形で提出されていて、、確かにそういうとらえ方は的確で、【「生の解放」と「生の技法」が矛盾しつつもひと続きであるかのような弁証法的な実践]と【集団のコミュニティ特性とアソシエーション 特性をどう組み合わせて、最適な解を求める]という話が重なる部分は非常に大きいと思う。しかし、その両者には重ならない領域もあるのではないか、その重ならない部分を考えることも、また大切なのではないかと思う。「生の解放」は抵抗・レジスタンス・社会運動を抜きに存在しえないが、コミュニティはそれがなくても成立する。コミュニティと抵抗をどう結びつけるのか、という問いがそこで必要になってくる。

コミュニティから出発した青い芝の会が日本の障害者運動を象徴する抵抗の社会運動に変遷していった。そこには、そうならざるを得ないような時代背景があった。解放を求めた障害者運動が技法を求めるようになりCILが広がっていった。20世紀の間は社会や行政や立法権力、時には司法に対しても、技法を求める闘争が必然的になくてはならないものとして存在した。しかし、制限はあるもののそれなりに制度が整い、CILが行政から資金を得て、技法を提供する側になった。多くのCILは牙を抜かれ、おとなしくなっていったように見える。そんな現状で、抵抗やレジスタンスという側面を再度、持つことができるかどうか、そこが大切なのではないか?

それなりに整ったとはいえ、さまざまな障害者が生きていくために十分な制度が整っているわけではないし、今後それが削られていく可能性がないわけではない。障害者とその暮らしを支える支援者を確保していくための経済的な保障が求められている。いまだに多くの障害者は入所施設や精神病院に入らざるを得ない、地域での暮らしを選べない現状がある。レジスタンスや抵抗が必要な状況や場面は、少なくないはず。




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