いまの社会を問うことなく、その枠組みのなかで共生を考えるということでいいのか。(駒井由理子)

朝日新聞の「折々のことば」にぐっときたので紹介させてもらいます。

いまの社会を問うことなく、その枠組みのなかで共生を考えるということでいいのか。 (駒井由理子)

 これ、すごく大切だと思ったのです。
この言葉が書か入れた もとの記事は

(「共生」を考える:5)このゼロでいいのか、揺さぶらないと 文化事業で実践、駒井由理子さん

https://digital.asahi.com/articles/DA3S16376997.html
ここには、こんな風に書かれています。
――「共生」という言葉を、どう考えますか?
 私は、共生という言葉を軽々しく使ってはいけない、と感じています。いまの社会を問うことなく、その枠組みのなかで共生を考えるということでいいのか。共生という言葉自体を揺るがす必要があると感じます。
 共生に似た言葉として、英語のソーシャル・インクルージョンがあります。インクルードする側、される側の方向を生む違和感が私にはあります。インクルージョンには、いまあるものに吸収される、迎え入れるみたいなニュアンスがあります。優しいように見えて、傲慢(ごうまん)さをはらんでいる。ほかにも、色々な言葉が提案されていますが、しっくり来る言葉が見つけられずにいます。
そう、インクルージョンは現状の枠への同化ではないはず。
それは排除されていた人たちの抵抗。
糞みたいな現状の枠組みを揺るがすものでなければならないはず。
それを忘れるとインクルージョンも危ないものになりそうです。

めざしているのは単に包摂されるという話ではないはずです。
ぼくがめざすインクルージョンは多数派の論理が大手をふるう社会へのレジスタンス。
レジスタンスを欠いたインクルージョンは危険というだけではなく、生きていく上で大切なものを取りこぼしてしまうことにつながるのではないかと思うのでした。


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記録のために記事全文

(「共生」を考える:5)このゼロでいいのか、揺さぶらないと 文化事業で実践、駒井由理子さん

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写真・図版
駒井由理子さん
 働き盛りで歩行障害を持つ身になって、私自身が痛感したことがある。何をやるにも我慢を強いられる場面、諦めることを求められる場面が多いことだ。障害ゆえの困難があるにしても、我慢と諦めばかりではやっていられない。そこを突破するには何が必要なのか。「できない理由より、今できることを探す」を合言葉に、文化・芸術の分野で実践を続けてきた駒井由理子さんに聞いた。(竹石涼子)

 ■自分の「良かれ」を問い直す、ホールも舞台そのものも変わる

 ――文化や芸術分野で取り組みを始める原点になった出来事があるそうですね。

 元々詳しかったわけではありません。2014年当時、神奈川県民ホールの貸館担当をしていたのですが、2年後に身体に障害がある人や聴覚に障害がある人など、四つの団体が、それぞれ全国大会を開くことになりました。これだけ大規模で、短期間に四つも、というのは開館40年で初めてでした。

 安全に安心してホールを使っていただくために、どこから手を付けたらいいか分からず、心配なことは何ですか? 何をしたらいいですか?と各団体の方に聞くところから始めました。

 上層部は当初、「事故でも起きたらどうする」などと後ろ向きでした。でも、県民ホールは公共施設ですし、だれが来てもいい。正当な理由なく利用を断ることはできないし、障害は「正当な理由」ではありません。

 ――どのように対応したのですか?

 ホールには、舞台へのルートが階段しかなく、車いすで使える昇降機も必要でした。なぜ対応が必須なのか、何度も資料を作成し、上層部を説得しました。周囲に理解者が増え、「1団体のためにそこまでできない」などと話していた上層部も徐々に変わり始めました。

 聴覚障害がある方への非常時の案内表示に使う文言は、団体の方と何度もやりとりをしました。非常事態でも、障害のない方と同時に同量の情報を伝えるためにスタッフみんなで工夫を重ねました。

 工期や予算面で実現しなかった案もあります。本当にやれないか、やらないなら、その理由を突き詰め、代案を示してきちんと説明する。それで初めて、次へ進むコミュニケーションになるのだと学びました。

 ――アクセシビリティーの理念は共有されても、なぜ進まないのでしょうか?

 よく助言を求められるのですが、上司は「部下に適任者がいない」と言い、部下は「上司に理解がない」というんです。やらない理由を探しているように見えます。

 何より、できない理由より、できることを探す。アクセシビリティーは手段であって、目的ではありません。お客さんに届けてこそ意味がある。イベントの成功がゴールなら、やった方が良いことではなく、やらなくてはいけないことなのです。イベントに来たいと思っている方の困りごと。それは、わがままではありません。

 ――「共生」という言葉を、どう考えますか?

 私は、共生という言葉を軽々しく使ってはいけない、と感じています。いまの社会を問うことなく、その枠組みのなかで共生を考えるということでいいのか。共生という言葉自体を揺るがす必要があると感じます。

 共生に似た言葉として、英語のソーシャル・インクルージョンがあります。インクルードする側、される側の方向を生む違和感が私にはあります。インクルージョンには、いまあるものに吸収される、迎え入れるみたいなニュアンスがあります。優しいように見えて、傲慢(ごうまん)さをはらんでいる。ほかにも、色々な言葉が提案されていますが、しっくり来る言葉が見つけられずにいます。

 私は今、都の事業に関わっています。都の芸術文化振興の柱に「参画」があります。

 これまでは、当事者が規定の枠組みや会合で意見を言うことでした。そうではなく、「ゼロから一緒に作り」、「そもそも、このゼロでいいのか」と問い直し、障害のある人と一緒に芸術や文化のあり方を変えていこうとしています。

 良いと思ってきたことが、なにかを無意識に排除しているのではないか、と気づかされます。

 そして、次の方法を真剣に考えるのです。自分のなかの「良かれ」を押しつけず、目の前の人が良いと感じる方法を本当に考えているか。私も日々悩み、自問を繰り返しています。

 ――サービスや支援ツールの拡充ではなく、舞台そのものが変わったとか。

 たとえば、演劇や舞台を鑑賞するのに、聞こえない方向けに字幕や台本貸し出しなどのサービスは今もありますが、字を追うのが苦手な人もいますし、限界もあります。

 でも、聴覚障害のある方が企画段階からメンバーの一員として入っていくと、そもそもセリフがなくなったり、身体表現が増えたりします。美しいセットのようにセリフを映すなど、演出も変わってきます。舞台作品の楽しみ方も大きく揺らぎます。これまで目指そうと勝手に思ってきたことに合わせようとするのではなく、揺さぶられないといけないと思います。

 ――文化や芸術だけでなく、社会ももっと揺らぐべきですね。

 今の世の中は「限られた人にとって便利」ということには、みんな薄々気づいているのではないでしょうか。

 乳幼児を連れた親御さんやお年寄り、弱者としての経験をしている人は障害のある人だけではありません。これまでの社会は、型にはまらない人を受け入れようとしてこなかった。だからこそ、法律や制度が向かおうとする方向性はこれでいいんだっけ、この社会で本当にいいんだっけ、と根本から問い直さなくてはなりません。

 今はベビーカーで電車やバスに乗るのは普通になりました。でも、20年ほど前は、たたまずに乗ることは非難の対象にされました。ルールは変わるのです。今あるルールが絶対的に正しいわけではありません。

 当事者と作る、考えることは、共に揺るがすことです。揺るがさなければ、変われません。今こそ、共生という言葉を揺さぶらなくては。

 ■マニュアルは作れない

 駒井さんによると、さまざまな模索を続ける中で、利用者から感情的な反応が返ってきたこともあるという。「感情的な反応には、理由があるはずです。何も言わないより良いと私は思います」と話す。

 何がその方を傷つけてしまったのか、何ががっかりさせてしまったんだろうか――。クレームとして処理せず、意見やニーズを丁寧に聞きだし、「目の前の代案や次への改善につなげるのがプロだと思う」。一見、無理なお願いに見えても、代案が見つかることも少なくないという。

 駒井さんは「事例は多様で、マニュアルは作れません。実践例を積むのみ」と断言する。「障害に限らず、困りごとに向き合っていくことがスタートです。やり方がわからないなら、相手に聞く。知ることは優しさにつながるし、選択肢を広げます」

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 こまい・ゆりこ 1971年生まれ。神奈川芸術文化財団勤務を経て、2024年から「東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京」の事業調整担当課長。誰もが芸術文化を楽しむことができるためのプロジェクトを担当。都立文化施設のアクセシビリティー向上や人材育成事業などにも取り組む。


「公演がみたい」はわがまま? 共に解決策探すなかでみえてきたもの

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竹石涼子

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駒井由理子さん=東京都中央区、竹石涼子撮影

■連載 「共生」を考える

 働き盛りで歩行障害を持つ身になって、私自身が痛感したことがある。何をやるにも我慢を強いられる場面、諦めることを求められる場面が多いことだ。障害ゆえの困難があるにしても、我慢と諦めばかりではやっていられない。そこを突破するには何が必要なのか。「できない理由より、今できることを探す」を合言葉に、文化・芸術の分野で実践を続けてきた駒井由理子さんに聞いた。

さまざまな分野で「共生」という言葉が語られるようになりました。「共生」とは何なのか。取材を通して、あらためて考えます。今回は都立文化施設のアクセシビリティー向上や人材育成事業などにも取り組む駒井由理子さんに聞きました。

当初は強かった、失敗恐れる声

 ――文化や芸術分野で取り組みを始める原点になった出来事があるそうですね。

 元々詳しかったわけではありません。2014年当時、神奈川県民ホールの貸館担当をしていたのですが、2年後に身体に障害がある人や聴覚に障害がある人など、四つの団体が、それぞれ全国大会を開くことになりました。それまでも障害がある方は来館していました。でも、これだけ大規模で、短期間に四つも、というのは開館40年で初めてでした。

 安全に安心してホールを使っていただくために、どこから手を付けたらいいか分からず、心配なことは何ですか? 何をしたらいいですか?と各団体の方に聞くところから始めました。

 ――最初は、失敗を恐れる声が強かったそうですね。

 上層部は当初、「事故でも起きたらどうする」などと後ろ向きでした。でも、県民ホールは公共施設ですし、だれが来てもいい。正当な理由なく利用を断ることはできないし、障害は「正当な理由」ではありません。条例にも憲法にも保障された権利です。及び腰のままで良いわけがありません。

 ――どのように対応したのですか?

 ホールには、舞台へのルートが階段しかなく、車いすで使える昇降機も必要でした。なぜ対応が必須なのか、何度も資料を作成し、上層部を説得しました。周囲に理解者が増え、「1団体のためにそこまでできない」などと話していた上層部も徐々に変わり始めました。設置した昇降機は、大会後も多くの方に使っていただくことができました。

 聴覚障害がある方への非常時の案内表示に使う文言は、団体の方と何度もやりとりをしました。非常事態でも、障害のない方と同時に同量の情報を伝えるためにスタッフみんなで工夫を重ねました。

 点滅ランプや電光掲示板など、工期や予算面で実現しなかった案もあります。本当にやれないか、やらないなら、その理由を突き詰め、代案を示してきちんと説明する。それで初めて、次へ進むコミュニケーションになるのだと学びました。

記者サロン「障害に気づく 私から変わる」 2月上旬配信

日本障害者協議会代表の藤井克徳さんをゲストに迎え、記者らと語り合います。ぜひお申し込みください。

できること、共に探す

 ――アクセシビリティーの理念は共有されても、なぜ進まないのでしょうか?

 よく助言を求められるのですが、できない理由を聞くと、上司は「部下に適任者がいない」と言い、部下は「上司に理解がない」というんです。やらない理由を探しているように見えます。

 何より、できない理由より、できることを探す。アクセシビリティーは手段であって、目的ではありません。イベントは開くだけでは意味がないはずです。お客さんに届けてこそ意味がある。イベントの成功がゴールなら、やった方が良いことではなく、やらなくてはいけないことなのです。イベントに来たいと思っている方の困りごと。それは、わがままではありません。

 ――「共生」という言葉を、どう考えますか?

 私は、共生という言葉を軽々しく使ってはいけない、と感じています。いまの社会を問うことなく、その枠組みのなかで共生を考えるということでいいのか。共生という言葉自体を揺るがす必要があると感じます。

 共生に似た言葉として、英語のソーシャル・インクルージョンがあります。インクルードする側、される側の方向を生む違和感が私にはあります。インクルージョンには、いまあるものに吸収される、迎え入れるみたいなニュアンスがあります。優しいように見えて、傲慢(ごうまん)さをはらんでいる。ほかにも、色々な言葉が提案されていますが、しっくり来る言葉が見つけられずにいます。

 私は今、都の事業に関わっています。東京都の芸術文化振興の柱に「参画」があります。

 これまでは、当事者が規定の枠組みや会合で意見を言うことでした。そうではなく、「ゼロから一緒に作り」、「そもそも、このゼロでいいのか」と問い直し、障害のある人と一緒に芸術や文化のあり方を変えていこうとしています。

 良いと思ってきたことが、なにかを無意識に排除しているのではないか、と気づかされます。

 そして、次の方法を真剣に考えるのです。自分のなかの「良かれ」を押しつけず、目の前の人が良いと感じる方法を本当に考えているか。私も日々悩み、自問を繰り返しています。

楽しみ方も揺らぐ

 ――サービスや支援ツールの拡充ではなく、舞台そのものが変わったとか。

 たとえば、演劇や舞台を鑑賞するのに、聞こえない方向けに字幕や台本貸し出しなどのサービスは今もありますが、字を追うのが苦手な人もいますし、限界もあります。

 でも、聴覚障害のある方が企画段階からメンバーの一員として入っていくと、そもそもセリフがなくなったり、身体表現が増えたりします。美しいセットのようにセリフを映すなど、演出も変わってきます。障害のあるなしに関わらず楽しめるように、いろいろな洗練されたしかけをプロとして用意するようになります。

写真・図版
ろう者と聴者が遭遇する舞台作品「黙るな 動け 呼吸しろ」から=加藤甫・川島彩水撮影、アーツカウンシル東京提供

 舞台作品の楽しみ方も大きく揺らぎます。これまで目指そうと勝手に思ってきたことに合わせようとするのではなく、揺さぶられないといけないと思います。

 ――文化や芸術だけでなく、社会ももっと揺らぐべきですね。

 今の世の中は「限られた人にとって便利」ということには、みんな薄々気づいているのではないでしょうか。

 乳幼児を連れた親御さんやお年寄り、弱者としての経験をしている人は障害のある人だけではありません。これまでの社会は、型にはまらない人を受け入れようとしてこなかった。だからこそ、法律や制度が向かおうとする方向性はこれでいいんだっけ、この社会で本当にいいんだっけ、と根本から問い直さなくてはなりません。

 今はベビーカーで電車やバスに乗るのは普通になりました。でも、20年ほど前は、たたまずに乗ることは非難の対象にされました。ルールは変わるのです。今あるルールが絶対的に正しいわけではありません。

 当事者と作る、考えることは、共に揺るがすことです。揺るがさなければ、変われません。今こそ、共生という言葉を揺さぶらなくては。

マニュアルは「ない」

 駒井さんによると、さまざまな模索を続ける中で、利用者から感情的な反応が返ってきたこともあるという。「感情的な反応の後ろには、深い葛藤や理由があるはずです。何も言わないより良いと私は思います」と話す。

 何がその方を傷つけてしまったのか、何ががっかりさせてしまったんだろうか――。クレームとして処理せず、意見やニーズを丁寧に聞きだし、「目の前の代案や次への改善につなげるのがプロだと思う」。一見、無理なお願いに見えても、代案が見つかることも少なくないという。

 駒井さんは「事例は多様で、マニュアルは作れません。実践例を積むのみ」と断言する。「障害に限らず、困りごとに向き合っていくことがスタートです。やり方がわからないなら、相手に聞く。知ることは優しさにつながるし、選択肢を広げます」

 こまい・ゆりこ 1971年生まれ。神奈川芸術文化財団勤務を経て、2024年から「東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京」の事業調整担当課長。誰もが芸術文化を楽しむことができるためのプロジェクト「クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョー」を担当。都立文化施設のアクセシビリティー向上や人材育成事業などにも取り組む。

 神奈川芸術文化財団では、共生共創事業を担当。津久井やまゆり園に通っての事業など、障害のある方との演劇や音楽作品の制作にも携わった。



この記事を書いた人
竹石涼子
くらし科学医療部|書評委員

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